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山羊男

 商品の説明動画を作ることになって、撮影のために高松へ行った。当時付き合いのあった広告代理店が高松の会社で、ローカルタレントを手配してくれると云うから、こちらから出向くことにしたのである。
 もう十年以上昔のことだからあんまり判然しないけれど、名古屋から新幹線で岡山まで行って、そこからマリンライナーに乗り換えて瀬戸内海を渡ったと思う。
 岡山に着くまでの間、広告屋から事前に上がって来た台本がどうも心許なかったので自分で書き直した。岡山から先はやることがなくて、窓の外の海を眺めていた。

 高松駅で、広告屋の稲垣さんと合流した。
 しばらく見ない間に稲垣さんは顎鬚を生やしていた。山羊みたいだと思った。その髭が何だか癇に障ったが、何も云わずにおいた。
「とりあえずスタジオに荷物を置いて、讃岐うどん食いに行きましょう」と稲垣さんが言った。
 讃岐うどんはありがたいが、スタジオに着いてみるとどうも様子がおかしい。ここには詳しく書けないけれど、確認してみたら果たして、予め云っておいたことが何も準備されていなかったのである。
 結局、昼食抜きで準備を始めてそのまま撮影に入った。
「めし、行けなくなりますよ」と稲垣さんが言った。
「仕方がない」
 準備とスタッフへの指導をしながら、こいつに仕事を出すのはこれで終わりにしようと決めた。

 撮影が終わったのは、もう日が暮れた後だった。高松駅まで車で送ってもらい、そこで稲垣さんと別れた。
 窓口で切符を買おうとすると、駅員が「岡山行きはちょうど出たところで、しばらく待つようですよ」と気の毒そうな顔をした。気の毒がられたって、帰らないわけにはいかない。
「待つのは構わないですが、今日中に名古屋まで帰れますかね?」
「それは大丈夫です」
「それならいいです」
 なんのはなしだ、と思った。

 電車が来るまでの間に、構内の飯屋で食事をすることにした。
 店内は随分明るく、何だか昭和のドライブインみたいな雰囲気である。平日だからか、食事時なのにあんまり混んでいない。
 自分は昼にうどんを食べ損なったので、讃岐うどん定食をそう云った。
「讃岐うどん定食一丁!」
「かしこまりー!」
 かしこまりー! は変な日本語だと思ったが、ここは四国である。こちらの常識が通じないことだってあるだろう。通じないところへわざわざ行って、それはおかしい、間違っている、不真面目だ、とやるのは大きなお世話である。真っ当な大人のやることではない。だから余計なことは云わずに黙っていた。
 じきに出て来た讃岐うどん定食は、別段美味くも不味くもなかった。多分、専門のうどん店でなかったからだろう。

よかったらコーヒーを奢ってください。ブレンドでいいです。