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孤塁について(あるいは、オタク/マイナーコンテンツの一般化について思うこと)。

こ‐るい【孤塁】 
孤立した根拠地。ただ一つ残って助けのないとりで。「—を守る」

出典:goo辞書

 

 前回、オタクコンテンツを熱く語る還暦超えのおっさんの話を書いた。

 書きながら色々と思うところがあったが、その内容まで記事に入れると話がとっ散らかってしまうのでやめた。
 本稿では、その"思うところ"についてダラダラと述べる。


 
 返すがえすも、今日びのオタクコンテンツはよくもここまで市民権を得られたものだと思う。上の記事はいささか極端な例だとしても、ごく普通の人が萌えキャラの跋扈するソシャゲを臆面もなくプレイしている姿などはどこでも目にするようになった。
 職場の同僚はウマ娘にハマっている。オタク文化に興味のない先輩は雀魂できわどいコスチュームのアバターを選んで麻雀に興じている。行きつけの床屋のマスターは元ヤンでありながら、行くたびおれに推しの深夜アニメを布教してくる。おれが青春期を過ごした90年代後期やゼロ年代初頭に比べると隔世の感も甚だしい。
 文化は変わった。明らかに。

 他人事のような口ぶりだが、おれも世間的には立派なオタクだ。10代で二次元美少女コンテンツにどっぷりとハマったことで少なからず人生が狂った。それから齢を重ねるにつれ美少女アニメやゲームから遠ざかるようになったが、根っこのところは変わっていないと思う。少なくとも、多少なりとも地金を出せば直ちに世間様から変態のそしりを受けることは免れないと確信している。
 そういう人間にしてみれば、オタクコンテンツが広く受容されている今日こんにちの様相は喜ばしい──わけではない。
 不快ではない。ただ、困惑している。まさかここまで世の中が変容するとは予想だにしていなかった。

 繰り返しになるが、俺のオタク──正確には萌え豚──としてのピークは10代の頃だった。世間の目を憚りつつ、今は亡きギャルゲー雑誌『電撃G'sマガジン』を愛読していた。読み物の内容も変態的だが、陽の差さぬ北向きの自室でペンライトを翳して読み耽るという在り様はさらに変態的だったと思う。
 実際当時のおれも、こんなモノを好きこのんで読む己は変態に違いないとうんざりしていた。うんざりしながらも、己が変態であることを確信していた。この本が親にバレるくらいなら秘蔵のエロ本が暴き立てられる方がなんぼかマシ、当時は本気でそう思っていた。

 おれが10代を過ごした地は、因習深き九州のド田舎だった。時代はゼロ年代初頭。秋葉原がオタクの街としての最盛期を迎えた頃か、あるいはその前夜にあたる頃か。当時のサブカルチャー論の潮流については不勉強だが、オタクあるいはオタクコンテンツの是非についての議論や評論を目にする機会も多かったように思う。
 マチズモ的価値観が支配する当時の九州の地にも、ごく少数ながら同好の士は存在した。おれや他の者が調達してきたギャルゲー雑誌を回し読みしながら、二次元美少女を多分に用いたコンテンツが受容される、そういう日が来るかについて議論を交わしていた。
 コミュニティ内の多数意見は、いずれ受容されるという論調だった。具体的根拠は何もない。正確には、受容されてほしいという願望でしかなかった。
 おれは各人の意見に耳を傾けていたのみで、特段の主張はしていない。だが内心では受容されるはずがないと思っていた。R-18作品であるか否かを問わず、二次元美少女という存在には多かれ少なかれ性的なにおいが纏わりつく。そのようなコンテンツを社会が趣味の一つとして認める日が来ることなど、倫理的に見てあるはずがない。
 いや、コンテンツの倫理的是非などどうでもよい。本当のところ、おれは受容されたくない・・・・・・・・とすら考えていた。

 コミュニティを形成するメンツは、当然のことながらどいつもこいつも一癖ある連中だった。マジョリティの有する社会性がどこかしら欠落していて、かつそれを補うかのように特定の知識やユーモアセンスが尖っている。世界の戦車を語らせれば何時間でも喋れる奴もいれば、1日に3回しか口を聞かないくせに口を開けば芸人はだしのギャグを飛ばす奴もいた。
 そういう奴らしかいないそのコミュニティは、構成員の誰にとっても居心地の良い空間だった。ノーマルスタンダードの青春を謳歌できないはみ出し者の安息地、何の忖度もなく尖りに尖った本来の自分をさらけ出すことのできる、一種の避難地ヘイヴンとして機能していた。
 そしてそのコミュニティは、二次元美少女というコンテンツ、自分たちと同じく世に認められぬコンテンツをかすがいに成立している。


 ならば、その鎹たるマイナーコンテンツが世に受け容れられたその時こそ、マイノリティに居心地の良いこのコミュニティは鎹を失い瓦解するのではないか


 これも繰り返しになるが、二次元美少女というコンテンツの倫理的是非など、本当のところはどうでもよかった。
 ただ単純に、己の居場所のひとつを失う気がした。マイノリティがマイノリティのままで、のびのびと地金を曝け出すことのできる場が消滅してしまう予感におののいた。

 多数派は多数派同士、少数派は少数派同士で群れ集うのが世の常だ。人が集えば話題のタネが必要になる。
 多数派が話題のタネとして盛り上がれるコンテンツは掃いて捨てるほどあるが、少数派同士が盛り上がれるコンテンツは世に少ない。むしろ、ニッチでマイナーな趣味やコンテンツだからこそ、それに共鳴する者達の楽しみ方は、深く、味わい深いものとなる。

 だからおれは、受容などされたくない、自分の愛好するコンテンツが世に広まってほしくないと考えた。
 マイノリティである己のよすがをマジョリティに奪われたくない。マジョリティに迎合せざるを得ない場を、これ以上増やしてほしくない。
 

 自分のよく知らない誰かに、自分の世界を踏み荒らされたくない。
 

 そういう風に、考えていた。



 
 冒頭に上げた前回の記事で、書こうとしたが展開の都合上書かなかったことがある。

 還暦超えのおっさん達が深夜アニメの話で盛り上がるそばで、俺は古い小説を読んでいた。小説の名は『麻雀放浪記』。かつて日本全土に麻雀ブームを巻き起こした作品だ。
 今から半世紀前、つまりおれの眼前で深夜アニメを語るおっさんの青春期にあっては、本作は堂々たるメインカルチャーの一角だったらしい。今でも日本の至るところで読み継がれている名作だが、流石に令和の世にあっては傍流のカルチャーと言わざるを得ない。
 勿論、現代でも通用するほど面白い作品である。しかしおれが本作を手に取った理由はそれだけではない。

 自分の周りでそれを知る者が、誰もいなかったから選んだ。
 今となっては好事家しか知らない。それでいて未だに枯れていない、生きている鉱脈。
 ここでなら、誰も知らない自分だけの世界を育める。そう思えたから手に取った。

 実際、本作は非常に面白い。舞台は現代性の欠片もない昭和20年代だが、そこに描かれる人間の在り方は、今を生きる人間にも通じるほどの深い示唆に満ちている。青春期を過ぎて感受性の衰えつつあるおれに対しても、自分だけの世界観を耕す一助となってくれている。
 
 だが、それはそれとして。
 今日びのアニメで盛り上がる還暦の先輩たちを目の当たりにして、流石に一考せざるを得なかった。
 おれはあまりにも閉じすぎていないか。あまりにも偏頗へんぱになってはいないか、と。
 
 半年も記事を更新していない分際で言うのは憚られるが、おれは自分を物書きだと認識している。余所ではお目にかかれない自分自身の世界観を練り上げては悦に浸り、その世界観を他者に伝わる形で共有し、運が良ければ誰かに善しと思ってもらう。それが物書きとして、また人間として、おれが幸福に生きる方途だと常々思っている。

 しかし、ここ最近のおれはどうなのか。
 自分の世界観を自分一人で味わうばかりで、誰にもその旨味を伝えようとしていないのではないか。また、誰かから教えてもらう異文化の旨味、とりわけメインカルチャーの面白さを、聞く耳持たず排除しているのではないか。

 半世紀前の小説を読むそばで、半世紀前に青春を過ごした先輩が令和のアニメを楽しそうに話すのを聞きながら、おれは己の在り方に疑問を抱いた。


 とりあえず、近頃めっきり遠ざかったアニメを観るところから始めてみようと思う。
 折しも先日、床屋のマスターから推しのアニメを教えてもらった。21年に放送されたカタカナ4文字のタイトルで、ジャンルは学園ラブストーリーらしい。聞くだけで砂糖を吐きそうになるが、これも経験だと思うことにする。

 己一人の牙城を築こうとしてきたし方を、悔いてもいないし恥じてもいない。
 だが孤塁を守るのと同じくらい、世間の声に耳を貸すのも大事だろう。耳を貸さねば凝り固まる。凝り固まれば、身動き取れずに老いさらばえる。精神的に朽ちていく。


 あの日、熱っぽくアニメの話をしていたおっさんは、老朽などとは縁遠い軽やかな空気を纏っていた。