やが君とわたしと蛙化現象
わたしは、長いこと「蛙化現象」に悩んできた。
蛙化現象とは、ひとことで言えば
「好意を向けられると、その対象に嫌悪感をもよおすようになる」
という現象だ。
この言葉の語源は、グリム童話にある、蛙が王子に変身するはなしの逆パターンということらしい。
つまり、王子様=憧れの対象が、蛙=性的な対象 へと変貌してしまう。
少女は成長過程で性的なものへの嫌悪を克服するのだが、わたしは今でも半分くらいはそれを克服できずにいる。
たとえ自分自身が好意を持っていた相手であっても、その対象から好意を伝えられると、彼らはたちまち恐怖の対象へ変わり、嫌悪感に襲われる。
そんなことが、10年以上は続いていた。
共感を得られる話題ではないため、親しいひと以外に話すことはない。
いったん話は変わり、去年の年元旦、わたしは『やがて君になる』というアニメと出会った。
この作品は、大きな驚きとよろこびを伴い、わたしの心の真ん中にすみやかに飛び込んできた。
同じ高校に通う小糸侑と七海燈子というふたりの少女が出会い、この出会いが、彼女らに大きな影響をおよぼしていく。
それぞれが抱える問題にびっくりするほどシンクロでき、わたしはみるみる『やが君』にのめり込んだ。
アニメ全話視聴後、漫画を全巻揃えるまでに。
「好き」って暴力的な言葉だ
「こういうあなたが好き」って
「こうじゃなくなったら好きじゃなくなる」ってことでしょ?
「好き」は束縛する言葉
「わたしは特別って気持ちがわからないんです」
だから「好き」を持たない君が世界で一番優しく見えた
侑は実際とても優しい人だった
私をどこまでも受け入れて ただそばにいてくれる
この心地よさを知ってしまったら もう二度とひとりには戻れない
「侑 好きだよ」これは束縛する言葉「君はそのままでいてね」
どうか侑
私を好きにならないで
特に、燈子のこのモノローグには戦慄したものだ。
燈子が誰の好意も受け入れられない原因自体はわたしとは異なっていた。
だけど。たとえそうであっても、七海燈子というキャラクターの抱えるもの、立ち位置、特徴――数々の共通点に、とてつもなくエンパサイズしていた。
創作上のキャラクターでは『東京喰種』の金木研や、『PSYCHO-PASS3』の慎導灼とも共通点が多く、彼らにも親しみを感じていたが、女性のキャラクターでここまで親しみを覚えたのは、はじめてだった。
わたしの問題はまだ、完全には解決を見ないけれど。
創作の中で燈子が侑に癒されていくなかで、濁っていた気持ちが一部昇華された。
現実の人間関係の中でこの現象を解決していけるのなら、もちろんそれがいちばんなんだろう。
でも、わたしにこんな現象が起こる背景は根深い。
来月でカウンセリングに通い始めて2年だが、その歳月をもってしても癒されきれないほどに。
カウンセリングに継続的に通って、自分の過去から現在までと真っ向から向き合うことは、こころのエネルギーがたくさん、たくさんいる。
愛情や支えなど、パワーを補給できないと、もたない。
しんどいとき、心ががりがり削られてギリギリなとき。
わたしは、この作品に救われた。
わたしは、この文章全体の中でなにが言いたかったのか?
まとまりがなく、おそらく多くの人にとっては読みづらい記事だったと思う。
ほんとうは去年1/3くらい書きかけていたのだけれど、エネルギーが足りなくて、放ったらかしてしまっていた。
論理性や整合性を確認し、何度か推敲しないと不安になる。
ふだんもの書きをするにあたってこんな傾向があるが、今回はあえてこのままでいいかぁ と思う。
自分のために書いたのだから。
自分のため――そう、わたしは去年のある時点で突然noteで文章が書きづらくなったのは、フォロワーが急に増えたためだった。
急増した時期と記事の傾向をを鑑みて(ライターとしての癖かもしれない)、思った。
わたしが私個人の書きたい文章を思うように書いていったら、きっと幻滅されるだろう。
そう考えると、腰が重たくなった。
論理的に書くことから離れたいがためにはじめたnoteが、不自由なツールに変わった。
べつに誰も期待していないだろうに、おかしな話なのだけれど。最近ようやく、そういうことがどうでもよく思えるようになってきた。
心理学的統計では、ヒトは自分を偽って生きなければならないこと、素を晒せないことに非常にストレスを感じるらしい。
そんな状態がつづけばセルフコンパッションが低下し、免疫力も下がる。
燈子が、侑と演劇のおかげで偽りから解放されたように。
わたしも、解放されたい。いや、する。
わたしは、やがて私になる。きっと。
ONE OK ROCKの『re:make』を口ずさみながら。
あなた→わたし→誰か→ほかの誰か