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作家・池澤夏樹が考える「日本語と編集」〈前編〉

「千夜千冊」にまつわる人々をインタビューし、千夜について、本について、読書について語ってもらう「Senya PEOPLE」。今回のインタビューは作家・編集者の池澤夏樹さんです。「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」『日本語のために』では千夜千冊554夜『五十音図の話』(馬渕和夫)を収録いただいています。前半は『日本語のために』の編集プロセスを中心に、日本語の問題について語っていただきました。池澤さんの編集のヒミツが明かされます。

▽池澤夏樹(いけざわ・なつき)
1945年、北海道生まれ。埼玉大学理工学部物理学科中退。1988年『スティル・ライフ』で芥川賞を、1992年『母なる自然のおっぱい』で読売文学賞を、1993年『マシアス・ギリの失脚』で谷崎賞を、2000年『花を運ぶ妹』で毎日出版文化賞を、2010年「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」で再び毎日出版文化賞を受賞するなど受賞多数。その他の作品に『静かな大地』『きみのためのバラ』『カデナ』『双頭の船』など。2014年から『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集』を河出書房新社より刊行中。3.11の被災地のルポルタージュ『春を恨んだりはしない―震災をめぐって考えたこと』が千夜千冊1465夜に掲載。2017年3月には『キトラ・ボックス』(KADOKAWA)を出版。

( 前編 / 後編 )

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池澤夏樹=個人編集 日本文学全集
『日本語のために』(河出書房新社)

はみだしものの『日本語のために』

――『日本語のために』では、千夜千冊『五十音図の話』(544夜)を収録していただきありがとうございました。千夜千冊はご覧になられるのですか。

池澤|松岡さんの「千夜千冊」はよく拝見しています。「書評」とされるもののほとんどが短すぎて役に立ちませんが、「千夜千冊」は書評の枠をこえて一つの「論」になっている。濃密な要約にくわえて、松岡さんの読解も深いので、調べものをしているときは何かと参照しています。
 今回『日本語のために』に収録させていただいた馬渕和夫の『五十音図の話』は五十音図に関する資料をいろいろと探しているときに出会いました。このテーマについて、ここまで明晰に書かれた論は他にはありませんでしたね。

――今回刊行された『日本語のために』は、大胆な方針で編集されている『日本文学全集』の中でも、特にユニークな一冊になっていますね。完成までにどのようなプロセスがありましたか。

池澤|3年つづけて『日本文学全集』(全30巻)を刊行するとなったときに、いくつか全体の方針を作りました。まず古典から現代まで扱うこと、古典は現役作家に訳してもらうこと、現代小説は1人なのか2人なのか。だいたいの原理原則ができてから、具体的な作品にあたり、巻ごとの細部を組み立てていきました。
 そうして編集作業をしているうちに、どうしても巻に収まらない「はみだしもの」が出てきました。従来の日本文学全集だったら切り捨てられるようなものですが、ぼくはそういう”半端もの”がもともと好きなので、少しずつストックしていった。そうしたらいつのまにか結構なボリュームになっていたんです。その中から日本文学と日本語の関係を明らかにするようなものを取捨選択して、また新たに加えたりしてまとめた結果、一風変わったこの本が出来あがったんです。500ページ以上の厚さですが、実は入りきらなかったものはこの倍以上あります。

――入りきらなかったものもそこまで多いと、とても気になりますね。『日本語のために』には祝詞も憲法も収録されていますね。

池澤|まず冒頭に古代の文体サンプルとして「祝詞(六月晦大祓)」を入れています。これは昔から好きな祝詞で、僕の現代語訳とともに紹介しています。ほかに『日本文学全集』では漢詩漢文がすっぽり抜けていたので菅原道真や頼山陽(319夜)の作品を、また仏典やキリスト教の文章、アイヌ語、琉球語など、さまざまな日本語の文体サンプルを収録しました。
 その後に日本語に関する考察を並べて、日本語の特色をざっと見渡せるようにしました。音韻と表記についての論や、語彙や文体のものなど。辞書の解説も日本人の考え方の基本となる単語をいくつか選んで載せています。特に大野晋さん(775夜)の『古典基礎語辞典』はすばらしい。
 たとえば「なる」という動詞の解説では、この国においてものごとは草木が生えてくるように、創造主や人が働きかけなくても「自ずからなって」いくものだと書かれている。日本人の精神をよく言い表していて感心させられましたね。

日本語が失ったもの

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――様々な日本語の文章を集めて編集していく中で、何か新たな気づきや発見はありましたか。

池澤|まず再認識したのが、表記においてこれほど多くの文字種と表現技法を持つのは日本語のほかにないということです。日本では中国の漢字を使用しながらも、日本語の発音を表すべく万葉仮名をつくり、それから平仮名と片仮名が生まれました。しかも、もととなる漢字もそのまま残した。英語にアルファベット26字しかないのと比べると、やはりこれは日本語の特質ですね。
 「訓読み」という方法も日本人のすぐれた発明ですね。他の国の字である漢字に日本語をあてて読む。これはつまり英語でいえば「dog」と書いて「イヌ」と呼ぶような荒業ですからね。
 このように複雑な文字種と表現を日本人は古来より自在に使いこなしてきたのだと、以前から薄々知っていたことですが確信に変わりましたね。

――しかし敗戦後、昔から使用してきた表記を廃止、制限することになりました。この本の中に収録されている福田恆存『私の国語教室』(514夜)は、戦後の歴史的仮名遣い廃止についての批判論になっていますね。池澤さんはこのことについてどのように思われますか。

池澤|敗戦直後、制度改革を進めていくなかで、日本語の合理化が図られました。「日本人はこんな発音と表記がずれた言葉を使っていたから戦争に負けたんだ」と。
 しかし仮名遣いを変えたことによる歴史の断絶は、あまりに大きい。『古事記』の場合、兄弟神である意祁王と袁祁王といった名は「い」と「ゐ」でわかれているので、区別するには歴史的仮名遣いを使わざるを得ません。和歌や掛詞もわかりにくくなり、多くの語で語源をたどれない状態になってしまいました。
 歴史的仮名遣いは残すべきだったと思いますね。作家の丸谷才一(9夜)も反対論者で作品は歴史的仮名遣いで書いていることは有名ですね。今では現代仮名遣いを歴史的仮名遣いに変換してくれる「丸谷君」という支援ソフトもあるほどです。『日本語のために』にも丸谷さんが自分で決めた表記ルール「わたしの表記法について」が収録されています。
 また戦後の漢字制限では、減らすだけでなく、文字の形そのものをいじるようなことをしてしまったことも問題です。たとえば「戻」という漢字。トダレの中に「大」という字がありますが、元々は「犬」だったんです。こっちの方がもどってくる気がするでしょう(笑)。当時はコンピュータの出現を想定していなかったということもありますが、漢字のイメージが削がれてしまったのはもったいないことだと思いますね。私たちは言葉に関して様々な矛盾を抱えた状態で今に至っているんです。

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日本語の未来のために

――『日本語のために』で池澤さんは、文学にとって「声=ボーカリゼーション」は重要だと書かれていますね。もう少し詳しくお聞かせください。

池澤|私たちは本を読むとき、だいたい一人で黙って読むことが多いと思いますが、文章を書くときは頭のなかで「声」にしています。流れがよどむところは文章としておかしいのでそこを直していく。そうやって作家は自分の文体をつくっていきます。
 『古事記』の文章は明らかに「声」で作られています。そもそも『古事記』は豪族の前で読みあげられるものでした。その場に居合わせた豪族たちは、自分の一族の名前が出るとニコニコする(笑)。そういう政治的な仕掛けになっていた。
 『源氏物語』の場合、当時は紫式部(1569夜)が一帖を書きあげるたびに、女房・更衣のもとへと届けられる。そしてその中で朗読の上手い人が一帖を読みあげるのをみんなで寄り集まって聴いていた。一帖というちょうど一晩で読めるぐらいの長さです。
 明治中期までは「新聞解話会」というのがあって、そこでも読み聞かせがされていました。当時は全員が新聞を買える時代ではないですからね。言ってみればそれがいまのラジオやニュースになっていったんです。
 これら日本の読書の歴史については、最近出た津野梅太郎さんの『読書と日本人』(岩波新書)にも詳しく書かれています。名著ですよ。

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――時代が経るにつれて、読書は黙読が当たり前となり、そういった「声」の文化はどんどんと薄くなっていると思います。

池澤|『日本文学全集』の古典現代訳が刊行されるたびに、翻訳を担当した作家によるトークショー+朗読会を開催しています。これは訳者本人がやるから面白い。町田康(725夜)と伊藤比呂美が一緒だったときは、どちらもパフォーマーですから凄まじい騒ぎですよ(笑)。伊藤さんは『日本霊異記』を朗読するんですが、いままで数多くの朗読会をこなしてきた人だから相当読むのが速くて畳み掛けるように言葉を重ねていく。だけど、くだけた訳になっているから迫力とともに意味もちゃんと入ってくるんです。町田さんも徹底的に口語化する人だから、『宇治拾遺物語』のこぶとり爺さんが「急だったんでアレですけど・・・」といった軽い口調で話しだすので観客に笑いが起きる。あの伊藤比呂美さんが「ちくしょう、町田に負けた」と悔しがっていましたよ(笑)。
 そうした活動で「声」と文学の関係をとりもどす方法というのもあると思いますね。

――『日本語のために』では、ケセン語(気仙地方の方言)で翻訳された「マタイによる福音書」が収録されていましたね。ほかの方言文学では石牟礼道子(985夜)の作品が『日本文学全集』『世界文学全集』のどちらにもありました。

池澤|もともと方言が好きなのもありますが、日本語には「振り仮名」といった便利な発音表記があるから方言が表現しやすいんです。ひらがなだけだと発音どおりに方言を書き表せますが意味がとれない。しかし意味をあらわす漢字を適宜いれて、横に振り仮名をおいていくと、その方言を知らなくてもそのままの発音でも意味がとれるようになる。石牟礼さんの『苦海浄土』は熊本の天草弁ですが、青森出身の人でも理解できるわけです。これは他の言語にはできない日本語の特質ですね。
 極端までいったのが、この本に収録されている「アイヌ物語」です。訳の横に振り仮名をふったけれど、単語と単語の対応が正確にとれているかというのは、ぼくたちにもわからない。ただそういう言葉があって、こんな発音があって、人々が使っていたんだということが伝わればいいと思ってそうしたんです。

――『日本語のために』というタイトルはどういう意図でつけられましたか。

池澤|『日本文学全集』の編集作業にあたって、PC上にフォルダを各巻ごとに作っていたときにふと思いついたんです。実はこのとき編集方針との関係にはあまり自覚はありませんでした。でもタイトルは刊行よりも早い段階で発表しないといけないから、後になって変えるわけにもいかない(笑)。
 ただ、いまふりかえって考えてみれば「日本語のために」は「日本語の未来のために」だといえると思いますね。
 ぼくは日本語に関してはどちらかという伝統主義的で、新しい言い回しや言葉は自分の作品ではあまり使いません。ですが、時代の流れの中で日本語が変化していってしまうことは、それはそれで仕方ないという気持ちもあります。だから国の政策で言葉を規制してしまうことには反対です。漢字制限や新仮名遣いにしたことで、日本が失ったものはとても大きい。
 今回この本で試みたのは、日本語の雑多性を明らかにするということでした。もともとが日本文学全集からの「はみだしもの」の集まりでしたが、かえって多種多様な日本語をこの一冊に凝縮できたと思っています。この本で「日本語とはなにか」という問いに、一歩踏み込んでいくことが、日本語の未来のためになるのではないかと、今ならそう言えますね。(後編へ)

( 前編 / 後編 )

¶ 関連する千夜千冊1465夜『春を恨んだりはしない』池澤夏樹
0544夜『五十音図の話』馬渕和夫

0319夜『日本外史』頼山陽

0775夜『角川類語新辞典』大野晋・浜西正人

0514夜『私の國語教室』福田恆存

0009夜『新々百人一首』丸谷才一

1569夜『源氏物語』紫式部

0725夜『くっすん大黒』町田康

0985夜『はにかみの国』石牟礼道子

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インタビュー・文:寺平賢司
撮影:長津孝輔
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■カテゴリー:インタビュー

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