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ヒップホップの真相と深層-depth and reality of hip hop-

ヒップホップの真相と深層

序章

ⅰ.はじめに

 ヒップホップとは何か。2015年現在では、その存在は確立された一つの音楽ジャンル、そして大衆文化の一端として親しまれているが、他の音楽ジャンルと同様にヒップホップもまた音楽のみならず様々な文化的背景や社会的背景などが複合的に絡み合った上で勃興した音楽を中心として成り立つムーブメントと称することがより正解であると言える。
 筆者である私は2000年初頭、ヒップホップという「音楽」にヒップホップの本場アメリカで出会った。ポップミュージックを席巻していた当時のヒップホップに私は大いに心惹かれたものの、ヒップホップというカルチャー全体が抱える矛盾に対して漠然とした拒否感、違和感を抱いたことから次第にヒップホップと距離を置くようになった。そしてこの体験こそがヒップホップというカルチャーの真相と深層へと私を向かわせた原動力となっており、本研究では当時より抱いていたヒップホップへの疑問を解き明かすつもりである。
 音楽を定義付ける、あるいはジャンルという枠に当てはめ説明する、という行為は非常に難しい、どころかある種不可能性を伴う行為であることは言うまでもない。その時代の潮流によって社会、人は常に変容し続け、それに伴い音楽もまたその内実を本義(あるいは勃興当時にその音楽が掲げたスタイル、思想)とは懸け離れた様相を伴う形へと変容させることも往々にしてあり得るからだ。果たしてどのタイミングにおいてその音楽を定義化することができるのか、そしてその定義を絶対化する根拠はどこにあるのか。そういった批判が予想される中である特定の音楽ジャンルの本質を見極め、言及するという行為は実に横柄な行いであると言えるのかもしれない。
 ヒップホップと同様に若者を中心に「反抗」を象徴するポピュラー音楽として知られるロックも現在では実に細分化された様々なサブジャンルの乱立(例:メタル、オルタナティブロック、ポストロック、ラップロックetc.)によって限り無くロックのフィールドが拡張された結果、真にロックをロックたらしめている要素が何であるかが実に曖昧模糊となってしまっている現在であるが、それと同様にヒップホップもその誕生から40年以上経った今、実に様々な要素がヒップホップと関わり合うことでその実態が本来(あるいは誕生当時)的なヒップホップの形とは大きく異なった様相を帯びてしまっている。
 そういった現状がある中で行う本研究において、「ヒップホップとは何か」という問いへの答えをヒップホップ誕生当時のヒップホップの有り様にその答えの全て求めるつもりはない。前述の通り音楽文化に限らず人間が生み出すもの全ては時間の経過と共にその形態を変容させていくのが常であり、またアメリカ独自の反知性的文化の元に生まれたヒップホップはその誕生時はあまりにも未熟で、その核心ならびに革新性は誕生より幾年かの時を経て初めて見出されたからである。
 実に個人的な話ではあるが、ヒップホップを愛好し、またそれに携わる人間の一人としてしばしば感じることとして、日本のようなアメリカとは大きく異なった社会的実情を有する社会では、ヒップホップの実態というものが過度に歪曲されて伝わっているということがある。ヒップホップに求められる「ゲットーイズム」「ストリート性」はアメリカのみならず日本においても過度にヒップホップアーティスト達の間で求められているが、果たしてそれらはどこから由来し、そして何処へと向かっているのか。そういったヒップホップを一般に野蛮と認知させる要因ともなった要素を押し出したレーベルにとって商業価値があるヒップホップの形を「ヒップホップらしさ」、と断定することは実に容易であるが、そうした音楽の形を推し進めることにより生まれる弊害(つまりは思想なき音楽の蔓延)を理解せずにヒップホップに携わり、また語るという行為は実に危険であることを考えれば本研究にて行うレーベル主導のヒップホップに対する批判検討は重要な価値を持つ行為であるように思える。
 ヒップホップはその勃興より実に40年以上の年月が経過し、世界中に多くのフォロワーがいるにも関わらず今も尚「野蛮な若者の音楽」というレッテルから完全には逃れられずにいる。感覚的な判断にはなるが日本ではその傾向はさらに強いと言えるであろう。事実ヒップホップが生まれたアメリカにおいても大学内においてヒップホップは“大学の研究分野としては不十分だと考える学者がおり、学外には、ヒップホップの研究者という存在自体を認めまいとする力がある”そうだ。
 それはあるいは当然の反応なのかもしれない。アカデミズムという領域とヒップホップが生まれたストリートという場所概念はまさしく相容れないどころか相反するものであるとも言える上に、学問的なヒップホップの研究により語られるヒップホップの形は実際的なストリートカルチャーのヒップホップとは大きくその様相を異にすると考えるものが多いからだ。事実これまでにも多くのヒップホップ研究者達が学問とポップカルチャーの双方で認められ得る「批評言語」を有さなかったことによってヒップホップの真価あるいは実態を描くことに苦心し、壁にぶつかり続けてきた。本研究が何を目指すのかを端的に述べるのであれば黒人の奴隷時代の音楽の文脈に連なるヒップホップが商業主義という白人の介入によっていかにその様相を変容させたか、そして現在ヒップホップはどういった形に展開しようとしているのかを冷徹に突き止める、ということになる。
 黒人がその生を尊く全うしようとした文化の先に連なる一つの音楽、ヒップホップ。今もなお世界各地に人種差別が蔓延るこの世の中で、黒人達が生み出したこの文化に対する正当な評価を下すためにこの論文を執筆した。

ⅱ.研究概要

 ヒップホップに商業的価値が見出されると共に、ヒップホップが元来持ち合わせていた多様性は白人主導の元隠蔽されていく。その流れを追うためにヒップホップがいかに成立し(1章)、いかに白人と交わり(2章、3章)、どのような形で現在音楽業界、そして我々の周りに存在しているか(4章、5章)を突き止め、そこから見出されるヒップホップの真相、並びに深層に言及していく。

一章 ヒップホップ誕生の歴史

 ヒップホップはその誕生の経緯からある特定のタイミングで生まれたと断定することはほぼ不可能であると言える。“歴史学者や文化評論家によれば、その起源は1970年代初期から中盤-”ブギー・ダウン・ブロンクス“として親しまれた時代と場所-にさかのぼるという” 。ヒップホップは、アメリカのニューヨーク州の一角にあるブロンクス地区にてアフリカン・アメリカンとヒスパニック・アメリカンを中心に行われるブロックパーティを元として発展していった。ヒップホップのルーツはジャマイカの音楽文化、並びに黒人文化に結びつけられることが非常に多い。確かに初期ヒップホップはジャマイカの文化やジャマイカからの移民と少なからずの結びつきがあるものの、基本的にはアメリカに移り住んだアフリカ系アメリカ人が独自に生み出したアメリカ文化の一つであると考えて良いだろう。
 
 ヒップホップが生まれた当時の状況をヒップホップ・アーティスト、Lord Jamarはこう語る。

“「無から何かを生み出した。ヒップホップでな。それがヒップホップの精神だ。というのも当時は学校から楽器類が消えていった時期だった。楽器を演奏する黒人も以前は珍しくなかった。だがある頃を境に楽器類が学校から消えた。教育費が削減され楽器がなくなったんだ。アメリカの音楽、ジャズを生んだのは黒人なのにさ。そこでどうしたか。管楽器やドラムなどの楽器はない。そもそも自宅には楽器を置く場所もない。そんな中ただ一つ音楽を奏でてくれたレコードプレイヤーを楽器に変えたんだ。発送の転換さ。」“

 ヒップホップは前述の通りブロックパーティの流れの中で生まれた文化であるからして、具体的に誰かが作り出したと明言することは難しい。むしろ上記のような社会背景や黒人を取り巻く環境こそがヒップホップを生み出したと説明することがより正解に近いのかもしれない。しかしそうした中でヒップホップという一つのカルチャーが黒人を取り巻く困難な状況を打破するために生み出されたのだという事実を追い直すこと、そしてそういった闘争は黒人が奴隷として生きた時代の中で音楽に救いを求めたという事実と非常に状況が似通っているという事実を知ることがヒップホップを真に理解するためには必要不可欠であることが分かる。本章ではその歴史と発展の流れを追っていきたい。

ⅰ. ヒップホップの思想的、音楽的特徴の成立と背景
ⅰ-1.思想的特徴の成立—アフリカ・バンバータとズールー・ネイション-

 ヒップホップの誕生の歴史について一つ明言出来ることがあるとすれば、ヒップホップという呼称はアフリカ・バンバータによって生み出された、という事実だ。アフリカ・バンバータ、本名ケヴィン・ドノバンはDJクール・ハークに影響されてDJを始めた若者の一人であり、当時のサウスブロンクス最大の黒人を中心としたギャング団「ブラック・スペイズ」の一員であった。ヒップホップ史上に残る偉大なる人物として知られる彼はある時からヒップホップが内包する潜在的な力に注目し、自分を取り巻く存在のみならず若者一般、ギャング一般の生活にとって重要な役割を果たしうるであろうことに気付いた。
 彼自身がDJとして活動をしていく中で“ギャングの持つ情熱や忠誠心はもっと有益な社会活動に”、そして“ヒップホップファンの持つ情熱は地域社会の向上に”向けられると考えるようになる。当初比較的快楽志向寄りの文化として存在していたヒップホップに社会的意義を付与することを目指したバンバータは彼が開くパーティなどで社会的なメッセージを伝え続け、やがてブラック・スペイズの元メンバー達と地元の自警団的活動を展開していくこととなる。社会的に見ればマイナスな存在であった彼らがヒップホップを通してプラスな存在へと転じたという事実は今日においてもヒップホップを擁護する一つの立場であると共に、ヒップホップというカルチャーの本質の一つとなっており、彼のその一連の活動がヒップホップに社会変革的要素を付与したと言ってもいい。
 70年代に「ズールー・ネイション」というバンドを結成し“ストリートの団結、暴力への抵抗という意識に目覚め”音楽のみならず様々な方向へと活動を展開していったバンバータであるが、何故彼がヒップホップのゴッドファーザーと呼ばれるようになるまで支持を得たのか。その背景にあるのは本章の前書き内の脚注でも述べた通り複雑に人種差別が蔓延る当時のアメリカ社会の中で統一的なイデオロギーが完全に崩壊し、マルティテュード的な価値観が乱立する中で、明確に現実の苦境を打破する可能性を持ち合わせた術を民衆に提示したからだ。残念ながらバンバータが元ギャングであった経歴から、バンバータや彼の取り巻きは市から秩序を脅かす存在として忌み嫌われ、結果街を追放されるにまで至るが、アフリカ・バンバータが示したヒップホップの可能性は今も尚ヒップホップの中に根付いている。

 そもそもこうしてブロンクスに黒人が集中する原因、そして彼らが麻薬や暴力に走る原因は果たしてなんだったのか。アメリカ音楽史、ポピュラーミュージックシーンの研究者である大和田俊之氏は彼の著作、『アメリカ音楽史—ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』の中でこう分析する。

“ブロンクスの荒廃を決定づけたのは19590年代から60年代にかけて建設が進んだクロス・ブロンクス・エクスプレスウェイ(ブロンクス横断高速道路)である。ブロンクス区を東西に横切る高速道路の建設事業によりアイリッシュ系やユダヤ系などで賑わう界隈が破壊され、六万人以上の住民が強制移住させられた。高速道路の南側には一万二千戸以上のプロジェクト(低所得者用高層公営住宅)が建てられ、そこに貧しいアフリカ系アメリカ人やヒスパニックが移り住んできた。昔からの住民は離れ、やがて人種ごとに結成されたギャングの抗争が激化し、犯罪率も上昇する。1960年代を通じてブロンクスの住居侵入窃盗罪は十七倍近くも上昇したといわれている。”

 上記の状況に加えて1970年代の不況が追い打ちをかけ、オイル・ショックなども起きニューヨーク州や市は社会福祉関連予算の削減をせざるを得ない状況へと追い込まれてしまう。その結果サウスブロンクスは行政から見放されてしまうこととなる。犯罪率、失業率が高まり続け、無法地帯として荒む一方であったブロンクス地区の状況で育ったからこそその状況をどうにかしようとバンバータは立ち上がったのだ。
 彼によるとヒップホップという言葉は仲間内でよく使われていたフレーズの一つであり、ヒップホップは本来ラップのことを指すのではなく、ムーブメント全体を指すそうだ。つまりはB・ボーイ、B・ガール、DJ、MC、エアゾールライターの総称としてヒップホップという言葉を用いている。また、ヒップホップの四大要素の定義もまたアフリカ・バンバータにより生まれた。今日のヒップホップにまで続くヒップホップの一般理解の主要部分は間違いなく彼が作り出したと言っていいだろう。彼が示したヒップホップの可能性を中心にヒップホップという音楽文化は発展しその音楽性と文化性をより堅固に確立していったのだ。

ⅰ-2. 音楽的特徴の成立—クール・ハークとブレイク・ビーツ-

 当初は一つの音楽的な娯楽のような形で市民の生活の一部として親しまれたヒップホップであったが、ある一つの発明を基に大きくその運命を変化させていくこととなる。それが「ブレイク・ビーツ」の発明だ。このブレイク・ビーツを一つのきっかけとしてラップというヒップホップを象徴するボーカルスタイルが参入することとなる。またブレイク・ビーツ発明以後ヒップホップの存在感が拡大、激化したことによりとある白人プロデューサーがヒップホップに興味を示し、結果ヒップホップは大衆文化の中に引きずり込まれることとなる。
 DJクール・ハーク(本名クレイグ・キャンベル)はDJをただのレコードをかける行為で終わらせることなく“積極的な自己表現の方法に変えていった”。その成果の一つにブレイク・ビーツがある。ハークは元来“1967年に家族とともにジャマイカからニューヨークへ移り住んだ”移民でありジャマイカで流行していたサウンド・システムをブロックパーティに導入することによって得たその特徴的なサウンドと共に人気を博した。貧困層や労働者階級はライブを観に行くことすら困難であったため、迫力のあるサウンドを出すハークのサウンド・システムは彼らにとっては唯一と言っていいほどの日常に介在する音楽体験であったのだ。
 ハークはパーティに集まる若者の様子を注意深く観察し、その結果若者たちが最も盛り上がりを見せるのは楽曲の間奏部分(ブレイク)であることに気付く。その気付きを得たハークは、二台のターンテーブルと同じレコードを二枚用意し、ブレイクを交互に連続してプレイする技術、「ブレイク・ビーツ」を編み出す。
 それまでの音楽の構造をまるで無視するかのようなこの大胆かつ奇抜な発想の転換は大きな話題を呼んだ結果、ブロンクスの若い黒人達がレコード店に駆け込みマイナーなR&Bのレコードを注文し、ハーク同様パーティを催しブレイクを演奏するようになったのだ。ブレイク・ビーツを中心としてヒップホップは大きく前進することとなる。“DJがプレイする楽曲にあわせてダンス・クルーが技を競い合い、パーティのMCがビートに乗せてラップを披露し始める。”こうして1970年代半ばまでにヒップホップの四大要素はサウスブロンクスにて統合されることとなるのだ。

ⅱ. 奴隷時代における黒人音楽と初期ヒップホップとの連関性

 ヒップホップというフィールドにおいて支持を得るためにあえてギャング的態度を取る、つまりは過度にゲットーイズムを賛美したアーティストが擬装的態度を取るという現象が多数散見されるヒップホップ界を見るとヒップホップの文脈を擬装的態度が様々な側面において見られるアメリカ大衆文化史に結びつける人も多いかもしれない。そうした場合、アメリカ大衆文化の始まりの一つとも言えるミンストレル・ショウなどとヒップホップを関連付ける可能性すら生まれてくる。
 しかしながらそういったヒップホップの文脈付けの正当性に関する疑問はヒップホップという文化がどれほど深く黒人文化(並びに黒人奴隷文化)に結びついているかを明らかにすることによってよりその濃厚に膨れ上がっていく。ヒップホップという音楽が商業に結びついていく流れは後の章にて触れていくが、それを差し置いてもヒップホップミュージックが持つ黒人文化との強い結びつきを考慮に入れればヒップホップは「本来的には」白人主導の擬装的音楽文化ではない、ということが明らかになってくる。

“「ヒップホップはゼロから生まれたわけじゃない。元は親世代のレコードだ。古いファンクやソウル グルーヴさ。つまりヒップホップは“発明”じゃなく“蘇生”さ。」“

とグランドマスター・カズが語る通りヒップホップが様々なジャンルのブラック・ミュージックを元に再構築された音楽であることは初期ヒップホップシーンにおいてブラック・ミュージックのレコードが数多くのDJによってプレイされていたことからも明白である。
またMos Defがヒップホップは

“「ポップス文化として生まれたわけじゃない。人気も金も求めていなかった。民族的な音楽だよ。黒人の生活の中で育ったんだ。ヒップホップの故郷はニューヨークだ。地元の住人の在り方がサウンドを生み出す。だが他の地域に広まるにつれ環境に応じてサウンドも変わっていく 土地それぞれによってね。場所によって風習や住人の気質も違うものだ。だから音楽も変わる」”

と語るように、ヒップホップが元は大衆文化とは隔たった思想を持ち合わせた上で生まれた文化であり、あくまで黒人文化とストリートカルチャーに由来する文化である事を強調した。
 白人がマーケティング、制作の双方に大きく参入することで世の人々に広く知られることとなったヒップホップではあるが、その根源はまさしく黒人の織りなす文化、黒人を取り巻く環境、そしてそれを基にして生まれたブラック・ミュージックにあると言っていいだろう。

またラップというボーカルスタイルにも強く黒人文化との結びつきがあるということがヒップホップアーティスト、KRS Oneの発言からも見て取れる。

“昔はMCバトルを“ダズン”と呼んでいた。問題がある奴隷はまとめ売りをされた。手足をケガしていたり精神的に問題があると12セット、つまり1ダースで売られたんだ。その12人の奴隷たちはお互いをけなし合った。
バトルの概念はこの“ダズン”と呼ばれる風習からきている。攻撃的な言葉の応酬で相手と競い合うんだ。ダズンという風習を利用し、“撃ち合ったり殴りあわなくても戦える”言葉のスキルを競うアートへと変貌を遂げた”
とのことであり、ラップは抗争を無血に終わらせるために用いられた(割合)平和的な競技であることが分かる(ブレイクダンスなども同様の理由からバンバータによって競技化された)。
 他にもヒップホップミュージック内に散見される黒人独自の言葉使いも奴隷時代から受け継がれてきた文化の一つである。
 その例の一つとしてbadという単語がある。ウェルズ恵子の著書では、“黒人英語の辞書を引くと、“bad”は「好ましい、ひじょうに素晴らしい」を意味する形容詞とあります。そして「白人の価値観の単純な逆転、いちばんいい、よいの意味」ともあります”と記されている。そしてそうした逆転の発想より生まれる言葉の意味の二重性の起源は奴隷制度時代にあるとしている。“どんなに働いても利益は主人が得てしまい、彼らは死ぬまで働かされるだけなのです。(中略)つまり主人側の価値観で「よい」ことは、奴隷側には「悪い」ことです。”とあり、こういった社会背景こそが黒人独自の言語体系を作り出したと唱えている。
 他にも、ヒップホップミュージックにおける大きな特徴である一つのモチーフの反復性や、即興的なボーカリゼーションもまた、奴隷制度時代のブラック・ミュージックに既にあった。奴隷が知性を磨き連帯、反発することを奴隷主たちが恐れていたため、黒人奴隷は“奴隷制度下では、南部の法律で奴隷に読み書きを教えることが禁じられて”おり、言語を使えない黒人たちにとってはそのかわりに歌うことや話すことを“想像的な表現手段として発達させ”ることによって仲間間での連帯感を築き上げた。こうした試みは想像を絶する苦境にあった黒人が“主人や白人社会を批判すれば危険な目にあう“という状態の中でうまく”気持ちを歌や物語に上手にカモフラージュさせる“必要があったため生まれた。また、他にも”逃げる奴隷を隠れ場所へ導くため暗号のように歌が使われていた”とも言われており、歌や言語の発達は黒人にとって単なる娯楽では片付けられないほどに生活に重要な要素であったと言える。
 
 “アフリカの伝統のうちアメリカの黒人文化にだいじな要素は、「歌と物語で相互にコミュニケーションする」ということと、「集団の記憶を歌と物語にきざむ」こと、それによって「連帯を強めていく」ということ”
であり、作業の能率性向上のために歌うことを許された黒人奴隷たちはその文化をアフリカから継承し、発展させていくこととなる。今日のヒップホップでは最早お約束といっていいほどに日常的に散見される「コール・アンド・レスポンス」なども奴隷文化時代に確立されたものであるし、また歌詞内容も当時作業中にその場面ごとに合わせて即興的に作られ、歌われたようだ。
 また、黒人の音楽を中心とした独自の文化が、一般的な大衆文化にさほど取り込まれることなく成立、発展していったのは、当時の黒人への止むことのない差別に依るところが大きい。確かに“1865年、南北戦争は北軍の勝利に終わり奴隷制度は廃止されましたが、その後も黒人に対する差別は終わらないばかりか、「ジム・クロウ法」と呼ばれる一連の人種差別法のもと、黒人をアメリカ社会に参入させまいとする排他行為があらゆる場面で存在”し続け、黒人は大衆とは切り離された存在としてあり続けた。「ジム・クロウ」とは、先に述べたミンストレル・ショウの舞台に登場する白人役者が顔を黒く塗り扮する黒人のキャラクターである。ミンストレル・ショウの流行と共に「ジム・クロウ」という言葉は“あからさまな軽蔑と差別意識をこめてアフリカ系アメリカ人を名指しすることば”となっていく。
“黒人たちは、道を歩いていて白人と目が合った、食べ物を盗んだ、夜にうろうろしていた、無礼だったなどの理由でつかまり、圧倒的に不利な裁判で刑に処せられ”たという状況に置かれた。加えて“黒人の多くが罪の重さにつりあわない10年や20年という長期の刑を受け”、更に”なんとか頑張っても、刑期が終わる前に「遡行が悪い」「反抗的」「怠慢」などの理由で刑期を延ばされ“多くの黒人達が刑務所内でその生涯を終えるという状況に見舞われることとなる。こうした形で刑務所には黒人が溢れることとなり、それと同時に外界、あるいは大衆とは隔絶された空間での独自文化の形成が刑務所内にて行われることとなる。
 1930年代に黒人奴隷の刑務所内での扱いの悲惨さを物語る「囚人貸し出し制度」は廃止されるものの、それ以後も刑務所内外における差別の悲惨さは続き1940年代後半になってようやく改善されたと言える状況となっていく。実際に数字で見てみるとその悲惨さは手に取るように理解できるが、
“『隷属の刑車—奴隷制度後の黒人強制労働』(Novac 1978)という研究書によれば、1877年から1879年までに鉄道建設会社に対して「貸し出された」囚人のうち、刑期中の死亡者はミシシッピ州で16パーセント、アーカンソー州で25パーセント、サウス・カロライナ州では実に45パーセント”にのぼっているとの記録がある.
 このような形で黒人音楽は世に出ることなく監獄の中で脈々と生存し続けるわけであるが、ある出来事をきっかけに奴隷制度下における黒人音楽が大衆社会に送り込まれることとなる。“1933年から34年にかけて刑務所で黒人の歌を最初に録音したのは、ジョン・ロマックスです。彼は待遇の悪さで悪名高いルイジアナ州のアンゴラ州立重犯罪矯正刑務所を息子のアラン・ロマックスとともに訪れ、ハディ・レッドベターという受刑者の歌を録音しました”とあるように、刑務所内での音楽に注目が傾くようになる。この後レッドベターは歌手となり、レッドベリ名義で活動を展開していく。レッドベリ以外にも刑務所内での歌の録音が行われたことにより次第に刑務所内での黒人の状況は黒人の歌を通して伝わるとともに、当時のアメリカ社会とは離れた位置で存在し続けたブラック・ミュージックに白人、黒人ともに少なからずの影響を受けることとなる。
 歌唱という行為に込められた社会、環境、制度、白人、看守への反抗心、敵対心、憎しみ、それと同時にそういった苦境の中でも歌唱という行為を通して喜びを感じようという精神性、自由への希求心が黒人音楽独特の叙情性を生み、奴隷制度の廃止、黒人への対応の改善と共に人々の耳にブラック・ミュージックが次第に浸透していくこととなる。黒人の音楽的行為はゴスペル、ジャズ、ブルーズなどと多様な形態へと発展し、次第にアメリカ社会は黒人の創造性を認めていくこととなる。
 ヒップホップは上記のブラック・ミュージックとは異なる時代に生まれつつも、差別というアメリカ社会の実態、そして自由の剥奪という状況への反抗のために、その場に応じる形で柔軟に歌詞やリズムを変動させる音楽として生まれており、それは奴隷制度下において形成されてきたブラック・ミュージックのインディビジュアリティを実に受け継いでいるものと言える。前述したミンストレル・ショウなどから見て取れる黒人への悪辣な差別態度、黒人をある種のキャラクター化して商業的に利用する態度の元に成立したアメリカ大衆文化とは極めて異なった文脈に存在した黒人音楽文化の文脈にこそヒップホップは存在しているのだ。
 しかしながらそのヒップホップはこれまでのブラック・ミュージックを遥かに上回る影響力と発信力を持ち合わせたことにより白人が大量にヒップホップに参入することとなり、幸か不幸かその形態、様相を大きく変容させることとなる。その流れについては次の章で説明していく。

二章 ヒップホップの流通、ならびに商業化

 クール・ハークがブレイク・ビーツを武器にバンバータを魅了したのと同様に、ジョセフ・サドラー、通称グランドマスター・フラッシュもまたハークのプレイに魅了された。しかしただハークを尊敬するだけでなく、そのプレイの欠点なども見抜くまでにハークを観察した彼はその後三年間自宅の寝室に閉じこもりDJテクニックに磨きをかけ、独自の音楽性とテクニックを確立した。その結果今日に至るまでプレイされているDJテクニックの基礎的部分の多くやDJ用語に至るまでを彼が編み出すこととなる。
 このフラッシュや前章にて述べたバンバータ、ハークなどのDJ界のパイオニア達はその斬新な発想もさることながら、機材面においても類稀なる発明をしている。楽器用のミキサーを改造してDJミキサーを作り、廃車からスピーカーを取り外し、捨ててあったステレオを使うなどと四苦八苦してストリートライフに音楽を持ち込んだ。当然ながら全ての人がこうしたストリートに根ざした発想を駆使しつつヒップホップに携わっていたわけではない。当時は現在よりも遥かに高価であるサンプラーを親からプレゼントされていたアーティストもいたようであることから、安易にヒップホップをストリートと結びつけることは難しい。しかし著名なアーティストが前章にて述べたようなストリートカルチャーがもたらす思想や発想に基づき行動を示したからこそ多くの若者がヒップホップというカルチャーに飛び込むことができたのであり、その結果ヒップホップの場は広がり、ある白人の目に止まることとなる。
 ヒップホップが全国に流通し、徐々にアメリカ、並びに世界が黒人の新たなる創造性を認知していくも、黒人への差別的風潮は止むどころかむしろ過激化の一途を辿っていく。そうした差別的背景への対抗手段としてヒップホップは新たなる属性をより強固に付与することとなるが、そうした反抗的態度をメディアが祭り上げた結果ヒップホップを野蛮な音楽とするイメージもより一層強固となってしまうこととなる。その流れを本章にて追っていきたい。

ⅰ.初の流通とその影響

 彼女自身も歌手としてヒットレコードを生み出していた音楽プロデューサーのシルヴィア・ロビンソンはヒップホップが徐々に盛り上がりを見せている頃からヒップホップの楽曲をリリースしたいと考えていた。息子であるジョーイ・ロビンソンにスカウトできそうなラッパーを探すよう頼んではいたが、スカウティングは当初あまり上手くはいかなかった。彼女が最初に契約しようとしたラッパーは、ロビンソン家が経営するオール・プラチナ・レコードが他社との間で訴訟問題が起きそうになったため逃亡してしまったのである。
 しかしある時息子のジョーイがピザ屋で働くラッパーであるヘンリー・ジャクソン(ビッグ・バンク・ハンク)に目をつけ、シルヴィアはジョーイと共に彼をスカウトするために彼が働く店へと出向いた。彼のオーディションを店先の路上にて行っていると騒ぎに便乗する形で二人のラッパーが集まった。その三人のスキルに聞き惚れたシルヴィアはその晩新しいレーベル、「シュガーヒル・レコード“の設立と彼ら三人を要するレーベル初の所属アーティスト「シュガーヒル・ギャング」の結成を決意する。その翌週にシュガーヒル・ギャングは1日でレコーディングを行い初のラップソングである『Rapper’s Delight』を1979年に完成させる。
 シルヴィアと夫のジョーは数々のレーベルを経営していたものの、レーベルの経営悪化を前にしてラップという大手レーベルもまだ手をつけていない未踏領域にいち早く手をつけ、いずれ音楽業界に大きく台頭するであろうと予測したヒップホップの世界にて基盤を作るためにこうした活動を展開した。ヒップホップミュージックがそれまでレコーディングされるに至らなかったのは、ヒップホップに当時携わっていたアーティストの多くがあくまで場の支持を獲得するためにヒップホップというフィールドに参加し、またそのために技術を磨いていたのでそれが商業に結びつくと考えていなかったのだ。
 しかし徐々にリスナーがヒップホップの音源化、並びに流通を求めていることを嗅ぎつけたシルヴィアは1979に大ヒットしたChicのディスコナンバー『Good Time』をサンプリングし、当時ダンスビートにラップを乗せるという独創的かつ物珍しい楽曲を世に知らしめた。厳密に言えば『Rapper’s Delight」は初のスタジオ録音されたヒップホップミュージックではないが、初めて世に広く知られたヒップホップミュージックとして現在もヒップホップの歴史に残っている。
 当時最も効果的であった宣伝媒体であるラジオにてオンエアされるようシルヴィアが奔走した甲斐もあり、ラジオで放映直後に流通会社から3万枚レコードを注文したいとの声が上がるまでに『Rapper’s Delight』は注目を集めた。“最初のラジオオンエアから三ヶ月も経たずに、『Rapper’s Delight』は200万枚を売る大ヒットとなった。”

 しかし実はこの時点で既に世間に広く知られたヒップホップはヒップホップ本来の形から歪曲してしまっている。というのもシュガーヒル・ギャングのメンバー達はニュージャージー州出身であり、ヒップホップ誕生の地、ブロンクスでアーティストとしては活動していなかったからだ。そうした背景もあって、ヒップホップはその拡大とともにどこにそのオリジナリティを見出すかが非常に困難になってしまうこととなる。こうして大きく流通し、世間に知られることとなったラップソングをレコーディングしたロビンソン夫婦が金儲けのためにヒップホップを利用し、ブロンクスとは異なった地域に住む若者にラップをさせたことにより“「ヒップホップとはそもそも何なのか、そして誰のものか」“という問題が色濃く浮上してくる。
 『Rapper’s Delight』の商業的成功に伴い、多くのインディーレーベルなどがヒップホップミュージックに商業的価値を見出し、リリースに乗り出すようになる。その中でまたもやシュガーヒル・レコードが更なる追い打ちをかけたことによってヒップホップはより一層その内実を複雑化させることとなる。
 それが『The Message」のリリースだ。1982年にリリースされたこの楽曲は“1980年代アメリカの大都市が抱えた悲惨な荒廃状態を鋭く訴えた曲“であり、ヒップホップに政治的、社会的なメッセージ性を有することを示した最初の楽曲として知られる。
 しかしながら前章にて述べた通り当初は快楽志向的側面が強く前面に推し出されていたヒップホップに携わる者達は『The Message』には否定的な見解を示していた。ヒップホップには政治的、社会的な意識のみに留まらない多様な意識が存在しており、そういった多様性が抑圧されてしまうことを嫌ったのだ。加えて、Grandmaster Flash & the Furious Fiveの政治性がダウンタウンのパンク・バンドとの交流の中で培われたこともあり、ヒップホップの政治性にまで白人由来の思想が介入することを拒んだのである。
 しかしながら『The Message』はヒップホップが社会的意識を持ったことを決定づける一作として世間の認知を得たため、ヒップホップは更に白人の欲望と深い接触を持つこととなる。1987年から94年にかけて“メッセージ・ラップ、ポリティカル・ラップと呼ばれるジャンルが次々と登場”し、白人由来の社会的意識を基盤とした政治的ヒップホップは広がっていくのだ。

ⅱ. 西海岸における差別状況、ならびにヒップホップの全国化

 こうしたポリティカルな内容に重きを置いたヒップホップが躍進した背景には黒人を覆い囲む悲惨な状況が収まるどころか過激化の一途を辿っていたという背景がある。ヒップホップという社会に黒人の声を伝えるメディアを得た黒人達は黒人を抑圧する社会の構造に言葉を投げかけ、立ち向かうこととなる。 
 当初ブロンクスに始まり東海岸を中心に広がっていったヒップホップであるが、1980年代の後半から西海岸においてもヒップホップは盛り上がりを見せることとなる。西海岸のヒップホップはそれまでのヒップホップよりもノリを重視したサウンドと露骨に社会批判を加える歌詞を併せ持つという特徴を有する。そればかりでなく、ヒップホップ界においての全体的なサンプリング技術の向上と上記の要素が絡み合った結果、西海岸は爆発的な人気を得てアメリカのポップス界に鮮烈な刻印を残すこととなる。1990年代、“カリフォルニアはヒップホップの中心地として大いに注目を浴びていたが、その一方で、ヒップホップの潜在的な政治力を具体的に形にしようと地道に模索している土地でもあった”という。果たしてそれは具体的に何を指すのかを述べていきたい。
 カリフォルニアは多種多様な地域社会を擁する州としても知られており、1980年代後半には人種や宗教の違いを超えて多くの若者がヒップホップに親しみ始めていた。また、そういった土地柄もあってかヒップホップは若者の日常生活の一部として存在しており、ヒップホップに多様な人種が関わっていることを疑問視する声はほぼなかったという。またヒップホップは単なる消費活動を越え若者の人生観にまで深い影響を及ぼしており、自らの主張を世間に発信するメディアとしての位置付けが深く定着していた。
 90年代のカリフォルニアは“全米で服役囚の数が最も多い州”でもあり、この背景には“司法制度に関する人種差別”の存在がある。
 “カリフォルニア州刑務所服役囚の人口は、1980年の5万4300人から2000年は24万8516人に急増、80年代だけでもその数は四倍になり、1980年から2000年に投獄された人数は40パーセントも増え、1990年代終わりにはカリフォルニアの刑務所人口は、フランスと同一の服役者数の合計を超えてしまった。
 こうした逮捕率の増加の原因は麻薬問題の深刻化や、仮釈放中の違反行為件数の増加などもあるが、当時カリフォルニアの活動家達はこの増加率を人種構成の変化に結びつけて考えていた。“1970年頃、カリフォルニア州全人口の約80%は白人であったが、2000年には60%を下回るほどに黒人やヒスパニック系がカリフォルニアに増加したからだ。加えて2000年においては全人口の37%が25歳未満であり、また非白人層の比率が増加していることもあり黒人やヒスパニック系の若者こそがカリフォルニアの治安悪化の原因であるとする風潮が強くなる。
 結果的にカリフォルニア州は犯罪者を投獄、収容する予算を増加し、治安対策に乗り出すがその結果教育費は削減され低所得層の若者たちは犯罪行為に手を染めざるを得ない状況に送り込まれるという悪循環構造がカリフォルニアに生まれる。黒人とヒスパニック系の逮捕率が全逮捕率の過半数を超過するなど黒人、ヒスパニック系は実に無残な状況に暮らしていたのだ。
 だからこそ西海岸に暮らす若者はヒップホップに人生の活路を見出し、ヒップホップというメディアを通してラップで主張を訴えかけるようになる。また、当時ヒップホップは徐々にその商業価値が認められ初めていたため、多くの若者が自分たちを蹴落とした資本主義社会への抵抗と同時に参画を目指してヒップホップに携わり、成功を目指すようになる。そうした目標を多くの若者が掲げた結果、カリフォルニアではポリティカル・ラップをより一層過激、かつ乱雑にしたようなジャンルのヒップホップである「ギャングスタラップ」が生まれることとなる…。

三章 N.W.A.

 今日においてのヒップホップの印象を決定づけることとなったギャングスタラップ。それまでのヒップホップと比較して一層社会、体制批判的な思想や態度を前面的に押し出し、銃や麻薬にあふれたストリートギャングの日常をリアルに、露骨に、かつ暴力的に描写した歌詞が特徴とされるギャングスタラップ。その創始者はアイスTと呼ばれる一人のラッパーであり、彼はニュージャージー州に生まれた後、高校時代にサウスセントラルへと移り住んでくることとなり、カリフォルニアにてヒップホップと出会った。その後「クリップス」という構成員三万人を越すとされるギャング団と関わることとなった経験から、ギャングの生活を題材としたラップソングを製作することとなる。
 しかしながら2016年現在、ギャングスタラップの代表的アーティストとして一般に認知されているアーティストといえば、本章にて中心的に扱うことになるN.W.A.ではないだろうか。N.W.Aはその存在自体がある意味で本論の主題ともいうべき程に様々な文化的、社会的、政治的要素とヒップホップが戦い続けた歴史の模様を象徴している。またメンバーたちが若くして打ち立てた利益や功績が白人の資本主義、商業主義的思想によって翻弄され、剥奪されてきたという点においても彼らの存在はヒップホップが歩んできた苦難の道を象徴しているかのようだ。
 西海岸コンプトンを中心地とし、爆発的にその存在を世界へととどろかせることとなるN.W.A.、そしてギャングスタラップは一体どういった形で生まれ、成長し、今へと続いているのか。また、いかにN.W.A.が引き起こした様々な動乱の渦がヒップホップの勢力図を大きく塗り替えられ、そしていかにヒップホップという黒人文化に端を発したカルチャーがその本質を見事なまでに隠蔽されたのかを本章では考察していきたい。

ⅰ.N.W.A.とは何か

 本章冒頭で述べた通りギャングスタラップとはアイスTが創始者であるとされるヒップホップの派生ジャンルの一つである。彼はギャングの日常を面白おかしく語るスタイルの歌詞を書くことで人気を博し、彼の活躍の辺りからヒップホップの語りに徐々にフィクション要素が含まれることとなる。しかしながら基本的な思想背景はこれまでのヒップホップと大きく異なるものではなく、自分や家族、友人を取り巻く社会的軋轢に対しての批判、提言などを自分の生活状況と交えて語っているのだ。しかしながら前章にて述べた通り、ことカリフォルニアの特定地域においては彼らを取り巻く状況が余りに悲惨であり、かつそれらの状況への批判はそのまま社会、警察などといった明確な対象への批判へと繋がることから大きな注目を集めることとなる。
 では何故アイスTがギャングスタラップの源流として認識されるに至ることはなかったのか。1987年にリリースされた『ライム・ペイズ』はデビュー作ながらおよそ30万枚売れるなど中々に好調なセールスを飛ばしたが、アイスTはカリフォルニアのヒップホップリスナーの心を掴むには至っていなかった。“その原因のひとつは、少なくともこのファースト・アルバムがあまりにもニューヨーク寄りなものになっていたからである。たとえば『ライム・ペイズ』のプロデュースを指導したのは、アイスTの親友でアフリカ・バンバータのズールー・ネイションのオリジナル・メンバーでもあったアフリカ・イスラーム”であったなど、ニューヨークのヒップホップシーンに多分に影響を受けたサウンドを有するこのアルバムは西海岸を代表する作品である、と位置付けることはできなかったのである。

 そうした中で

“NWAをぶちあげたとき、要はこういうことだったんだよね。つまり。ニューヨークにはすげえグループが全部揃ってる。ヒップホップの地図じゃニューヨークはしっかり認知されてて、俺たちはみんなでこう考えてたんだ(中略)俺たちはみんなでね、コンプトンとLAをしっかりした名前にしなくちゃならないって考えてたんだと思うんだ”

とMCレンがソース誌に語ったように、コンプトンという地域性に根ざした音楽を武器にして世界に羽ばたいていくことを目指したN.W.A.がその活動を始めることとなる。
 N.W.A.が台頭した80年代中盤、西海岸にて流行していた音楽は主にロックとエレクトロであったが、新進の音楽として注目を集めていたのは後者であることは疑いようもない。事実N.W.A.の構成員であるDr.Dre(本名アンドレ・ヤング)とDJイェラもまた「World Wrecking Crew」というカリフォルニア、コンプトン内にあるナイトクラブ「The Eve After Dark」の経営者であるアロンゾ・ウィリアムズと結成していたグループにて精力的に活動していた。
 しかしその後Dr.Dreはイージー・E(本名エリック・ライト)という同郷、コンプトンにてギャング生活を送っている一人の男性に誘われる形でN.W.A.を1986年に結成する。イージー・Eがドラッグディーリングなどで貯蓄した財産を基にルースレス・レコードというレーベルを設立し、レコードをリリースすることとなる。結成メンバーはイージー・E、Dr.Dre、アイス・キューブ、MCレン、DJイェラ、アラビアン・プリンセス(1988年に脱退)の六人であり、N.W.A.とは「Niggaz Wit Attitude」の略である。Niggaz wit Attitudeは直訳すれば「態度を持ち合わせた黒人」であるがこのグループ名の意味は「態度、あるいは主張を示す黒人」として捉えられるケースが多い。
 しかしその強烈なグループ名や、ギャングの日常を赤裸々に語った歌詞とは裏腹にメンバー六人の内実際にギャングとして生活し、生計を立てていたのはイージー・Eのみであり、驚くべきことに彼はN.W.A.においてはメインのリリックライターではなかった。このグループにおいて主にリリックを担当していたとされるのはアイス・キューブというサウスセントラル出身でありながらフェニックス工科大学に所属していた比較的インテリ層に属するMCであり、彼はギャングの友人やイージー・Eの体験談に自らの想像と脚色を加えリリックを作り上げていったのである。
 後に俳優、脚本家として活躍するなど多面的な才能を持ち合わせたアイス・キューブと、後に超一流プロデューサーとしてその名を轟かせることとなるDr.Dreのトラックの才が上手く絡み合った結果、N.W.A.はその悪名を広げていくこととなる。“彼らの過激な歌詞と冒涜的な態度は世間の注目を浴び、反体制的な曲「Fuck The Police」などはFBIから警告を受けたほど”であったが、“ストリートの若者の本音を語り、ゲットーの世界を体現した彼らは、全国にファンを増やし、やがてプラチナ・ディスクという大ヒットを飛ば”すほどの人気グループとなる。
 ヒップホップが政治や社会的な要素へと言及する歌詞を書く事自体はさほど珍しいことではない。まさしく一章で述べた通りヒップホップとは社会の荒波の中で生まれた音楽であるからして、その要素は多分に各アーティストの詩の中に織り込まれている。また、二章にて述べた通り『The Message』などを起源としたポリティカルなメッセージを含んだラップソングは一定以上の支持を確かに得ていたのだ。しかしN.W.A. 程露骨に、かつ荒々しい言葉を社会のみならず警察という明確な対象へと投げかけたグループはそれまでにはいなかったこともまた事実である。その鮮烈な作品群は社会問題と化し、ヒップホップにより一層悪名高いイメージを付与することとなるのだ。

ⅱ.サウンドスキャンの普及により表層化したヒップホップの白人リスナー層

 それまでヒップホップは黒人の若者だけが聞く音楽と信じられていた。しかし事実と反し、ヒップホップの購買層が白人であることが発覚する日が訪れる。それは1991年6月15日、N.W.A.の2ndアルバム『Niggaz4Life』がビルボード200に初登場二位を飾ったのだ。インディー系のレーベルのアルバムがここまでの売り上げを記録するのは1970年代後半以来であり、一位との差もわずか2000枚とその存在が確実に黒人に留まらない幅広いティーンに需要されていることが世界に行き届いた。
 彼らの歌詞は野蛮であり、かつ暴力的であるが故に、N.W.A.メンバー達自身もこの爆発的な売り上げに驚きを隠せなかったようである。イージー・ Eは“「せいぜい50位くらいがいいとこだと思っていた」”と語りMCレンに至っては“「正直、150位くらいだと思っていた」”とのことだ。果たしてなぜここまでの快進撃を彼らは遂げたのか。1stアルバムである『Straight Outta Compton』はプラチナディスクを獲得していながらも37位とランク的に見ればそれほどの大ヒットには思えないような記録を残しており、また1stアルバムにてメインのリリックライターであるアイス・キューブが脱退しても尚彼らの2ndアルバムが爆発的に売れたことが世間的に認知された裏にはある革新的な技術が音楽業界に導入されたことが大きな要因となっている。
 N.W.A.の2ndアルバムのリリースより四週前に導入された新技術、それはサウンドスキャンである。レコード業界の大物、マイケル・シャレットはそれまで「ビルボード」が使用していた売り上げデータ収集システムが信憑性に乏しいことに気付き、ジョージ・ファイン・リサーチの社長であるマイケル・ファインと手を組む。彼らが手を組んでから二年後、彼らはサウンドスキャンという科学的信憑性の伴ったシステムを発案し、レコード会社や小売店へシステム導入の説得へと赴く。
 それまで「ビルボード」のチャートは“レコード店の店員の主観、好み、勘に頼った報告書をもとにしていた。‥‥店員の主観でデータはいかようにもなっていた。だから、レコード会社は小売店にコンサートのチケットや景品を配って、自社のミュージシャンに有利な水増し報告をしてもらうこともたびたびだった。”こういった背景もあって従来のいい加減な売り上げ調査の恩恵を受けていたレコード会社や小売店はサウンドシステム導入を拒んだ。
 しかし転機は訪れる。長年音楽産業での成功を図る重要な判断基準として機能し続けている「ビルボード」がサウンドスキャン導入に乗り出したのだ。サウンドスキャンの導入によってそれまでの音楽業界とは異なった形の音楽業界が形成されていくであろうことは誰の目にも明らかではあったがその変化に臆することなく1991年の5月25日、ビルボード200とカントリー・ミュージックのチャートにサウンドスキャンが導入される。サウンドスキャンによりチャートの変化は導入直後より顕著に表れた。ロックやポップスはそれまで通りチャートの上位にあり続けたが、カントリー・ミュージックとヒップホップがチャートに食い込んだことからこれらの音楽ジャンルが商業的価値を有することが広く世間に浸透した。
 アメリカにおいて長きに渡って続いた人種差別、そしてそれに伴う文化的認識によってヒップホップ、ラップは軽視され続けてきたが、ヒップホップはサウンドスキャン導入時既にアメリカのポップスの一部となっていたのである。この革新的技術がもたらしたものはチャートに消費者の思考や傾向などを正確に反映するという点のみならず、アメリカのポップス文化をも変容させた。“かつてポップスとは、甘いメロディ、保守的なスタイル、優しい歌詞が特徴の音楽を指した。ところがサウンドスキャン以降、経済や市場の動きー毎週の売り上げ、どれだけ売れたかーがポップスを決めるようになった”のである。
 こうした音楽業界を揺るがす激動が起きた直後にその圧倒的なセールスで注目を集めたのがN.W.A.であったことが良くも悪くもヒップホップという音楽のパブリックイメージと、ヒップホップに携わる人々の未来を大きく左右することとなる。『Niggaz4life』に収録されている『One Less Bitch』や、『Findrum,Fuckrum & Flee』といった楽曲が持ち合わせている激しい女性蔑視傾向や、現実的すぎるゲットーさはそれまでラジオ局などに当然の事ながら敬遠されてきた。また、それまでのプラチナディスク獲得の定石としてヒットシングルが収録されていることや、ミュージックビデオ付きであるといった要素を排していたことからもN.W.A.の2ndアルバムはアンダーグラウンドに存在していたハードコアラップのファンを起点として幅広い人種、層の若者の支持を獲得していることが周知の事実となった。黒人のアメリカでの総人口は12〜13%であることから、白人の支持層を得ていなければ全国的なヒットは見込めないのである。それまで明かされることのなかったその事実によってヒップホップはより白人の若者を意識して作られることとなるがその点については後述する。
 何故白人の若者がギャングスタラップにそれほどまでに魅力を感じ、大きなムーブメントとなるまでに購買層を増やしたかという点を考察すると、その当時のアメリカの政治的、社会的側面の問題に触れざるを得なくなってくる。当然ながらその当時も反体制的音楽としてロックは存在し続けていたが、何故まるでロックの代替としてヒップホップは受け入れられたのか。その理由を単純に明言することは難しいが、「危険な黒人像」(それが真実に根ざしていなくとも)が白人の日常とはどこか程遠く、ある意味ではファンタジックでありつつもそのスリリングかつ力強いライフ・スタイルに白人の若者が憧れを抱いたからではないかと思われる。それまでのロックが表象していた「反抗」のスタンスをより明確に、かつ大胆に表したギャングスタラップは更なる刺激を求める若者にはうってつけの存在であったのだろう。

ⅲ.ヒップホップが喪失するリアリティ
 
 前述した通りN.W.A.のメインのリリックライターであるアイス・キューブはギャングではなく、むしろ劣悪な環境下において大学にまで進学した比較的インテリ層に部類される黒人の青年であった。このことからギャングスタラップに対してはその歌詞の暴力性への批判もあったが、それと同じくしてギャング的な態度を過度に美化した歌詞であるとの批判も存在した。
 一般にギャングスタラップは東海岸のヒップホップが持ち合わせたポジティブなレトリックを剥ぎ取り、巧みなストーリーテリング能力を用い野蛮な、かつ白人の日常には存在しない危険な生活を歌詞に盛り込み社会現象にまで発展したヒップホップの主要なサブジャンルとして知られるまでに至るが、果たしてその見解は正当であったのだろうか。そのサウンドや態度ばかりがメディアに取り沙汰されることにより、つまりは印象的な楽曲のタイトル(例えば『Fuck Tha Police』)や威丈高な態度ばかりが露骨にピックアップされたことによりその歌詞を重点的に注視されることが当時あまりなかったのではないかと疑問視してしまうほどにN.W.A.の思想は歪められてしまっている。
 当時コンプトンにおいて黒人が並んで歩いているだけでギャング集団と見なされ、態度が悪かっただけで、不当に逮捕される、あるいは警官から集団暴行を受けていたという社会的背景(まるで二章にて述べたような黒人奴隷時代とほぼ変わらないかのような暴圧)から、彼らはあえて自らをNiggaz Wit Attitudeと名乗った。態度の悪い黒人とも受け取ることの出来るこのグループ名は何変哲なく地元を歩いていても黒人というだけで態度が悪いとみなされた上で警官から暴行を受けてしまう状況への皮肉でもあったのである。そして彼らの歌詞を見てみるとわかるのだが、彼らは警官や社会によって不当に扱われる状況下においてもユーモアを忘れることなく黒人の生の正当性を訴え、前向きな方向へと自分たちが向かうばかりでなく、若い黒人が前へと進んでいけるようにこうした態度を表明している。
 結果として若い黒人の抑圧された声や創造性を解放する契機を作ることになり、真摯にN.W.A.の歌詞を受け止めた層は彼らに影響されて主張する必要性を理解し始める。意図的なストリート性の誇示や、コンプトンという地元の存在を主張したのは、“町の人々に政治家の動きを教えるということ。そして政治家に町の声を届ける”ためであり、ストリートにて抑圧されている若者に発言の手段を与えるためであったのだ。
 つまり要約するのであれば彼らはただの「スタジオ・ギャングスタ」でしかないが、ストリートの悲惨な現状を世間に知らしめるためにあえて象徴的に描き、個人の枠を飛び越えコンプトンの代弁者として楽曲を世に送り出したのである。彼らにとっては暴力的かつ高圧的な態度はあくまで副次的なものでしかなく、行動の中核を成すのは彼らを取り巻く環境への批判にこそあったが次節にて述べる様々な動乱がN.W.A.並びにギャングスタラップそしてヒップホップのイメージを決定付けることになる。

Ⅳ.N.W.A.解散以降拡散するN.W.A.の余波

 N.W.A.は結果的に見れば二枚のオリジナルアルバムのみをリリースした後に解散することとなる。イージー・Eのマネージャー兼プロデューサーのジュリー・ヘラーがイージーと共謀しN.W.A.の利益金を不当に搾取し続け、そのことに不満を抱いたアイス・キューブが真っ先に脱退。後にDr.Dreもイージーと仲違いしたことにより脱退し、この三勢力は各々の楽曲でお互いをこき下ろした。彼らはグループが空中分解した以降も各々の輝かしいキャリアを築き上げ、N.W.A.に匹敵するかのようなセールスを記録するアルバムを次々とリリースした。そう、N.W.A.とはギャングスタ・ラップとそれによりもたらされたヒップホップの多様性の隠蔽の単なる始まりに過ぎず、彼らの才能は個々人のソロ活動の中結実することとなる。
 
 1992年にN.W.A.を脱退したDr.Dreがリリースした『The Chronic』が三百万枚を超す大ヒットを記録したが、Dr.Dreはそのキャリアの爆進を微塵も緩めることなくスヌープ・ドッグという彼の腹違いの弟であるウォーレン・Gが連れてきたラッパーのプロデュースをする。結果的にスヌープ・ドッグの1stアルバムである『Doggystyle』も爆発的な売り上げを記録するが、『The Chronic』、並びに『Doggystyle』にはある類似点がある。それはこのアルバムに収録されたMVでは過激なギャングスタ的な歌詞に相反して若いビキニ姿の女性がパーティに集う様子や、黒人男性がヴィンテージのキャデラックを乗り回すシーンが前面に映し出され独自の虚構の世界が展開されているのだ。
 彼らの MVが生み出したイメージは“現実のクリップスが社会問題になっていたカリフォルニアというよりは、ビーチ・ボーイズの時代のカリフォルニアのイメージを思わせる楽しさに溢れたていた。”こうした虚構のイメージが溢れるMVの企画背景には、Dr.DreがN.W.A.脱退以降手を組んだマリオン・シュグ・ナイトというプロデューサーの存在がある。彼は“派手なギャング抗争を思わせるイメージ、カリスマ性をふりまくスター、そして俺たち対全世界という見てくれでヒップホップ的な雰囲気”をMVにて漂わせることに重きを置いていたのだ。
 こうしたヒップホップアーティストを実物以上の存在感で照らし出すMVは楽曲内で語られている内容を良く理解していないものの、ヒップホップのビート感に魅入られた若者には大変受け入れられた。結果的に東西を問わずこういったスタイルを模倣したMVが様々なアーティスト、レーベルから放たれることとなり、ヒップホップの擬装的なギャングスタ然とした態度は画一化、一般化されていきヒップホップ・アーティスト=ギャング、ストリート出身などといった固定観念が生まれてしまう。


 加えてこれらのMVが女性を“軽いお飾り的な存在”として描き、“セクシーな雰囲気を作るための背景の一部”として描かれていたためヒップホップの女性蔑視的態度はより広く認められたものとなってしまった。ヒップホップのMVはまさに“究極の資本主義と消費主義の世界であり、そこでは女性は買えるもの、いらなくなれば捨てられるもの”として描かれていたのだ。
 こうした形でヒップホップに野蛮かつ反社会的な属性が続々と付与され画一化されていくなかであのロサンゼルス暴動が起きる。

“黒人男性ロドニー・キングに暴行を加えた白人警官の無罪判決をきっかけにロサンゼルスのアフリカ系アメリカ人が暴動を起こし、放火や略奪を繰り返した。五十人以上の死者と3600件以上の放火を引き起こした事件は全世界に報道され、ギャングスタラップもその理想的なサウンドトラックとして隆盛を極めるのだ。”“ロス暴動は突然起きたわけではない。…1970年代の不況がブロンクスに決定的に影響を及ぼしたように、八十年代のロサンゼルスではアフリカ系アメリカ人の不満がくすぶっていた。ハイテク産業の誘致に成功した都市は未曾有の発展を享受したにもかかわらず、ロサンゼルス南部のワッツ地区やコンプトン市では地元の工場が撤退してスラム化が進んだのだ。とくにロサンゼルスの黒人若年層をめぐる環境は深刻であり、1980年代後半に失業率が45%に達しただけでなく未成年の40%が貧困線以下の生活を余儀なくされた。”

 こうした背景が堆積した結果としてあの暴動が起きたにも関わらず、当時ギャングスタラップが爆発的に世界に広がっていたためロサンゼルス暴動の原因の一端にギャングスタラップがあるとする声も広がった。まさしく白人が黒人を凶暴な人物像として描き金儲けに利用しようという欲望や、黒人への差別的態度との衝突によってヒップホップにギャング的な印象論が広まり、ヒップホップは画一化していくのである。
 ヒップホップカルチャー自体には興味のない白人プロデューサーなどが関わる中でより過激な生活の描写や女性蔑視的態度が求められるようになり、MVなどでもそういった反社会的な要素をふんだんに盛り込んだ作品がヒットを飛ばし続けた結果ヒップホップの「野蛮な、ストリートに端を発する若者が聞く危険な音楽」というイメージは固着していってしまう。そしてそのイメージ先行型のヒップホップはある悲惨な結末へと至ることとなる。

Ⅴ.ヒップホップ東西抗争

 ヒップホップというフィールドにおいてニューヨーク出身のアーティストがそうでないアーティストを軽蔑するというある種の伝統の起源は前章にて述べた通りシュガーヒル・ギャングがニュージャージー州出身であり、マンハッタン出身のアーティストたちに軽んじられていたという歴史にまで遡れる。“やがて、クイーンズ区出身出身のMCシャンとブロンクス区出身のブギ・ダウン・プロダクションズとの間で、ヒップホップ発祥の血はどこなのかという論戦が戦われることと”なるほどにヒップホップ文化を正当に受け継いでいるか否か、という問題はヒップホップが全国流通するようになって以降過激化していった。
 著名なヒップホップアーティストが全国規模のライブツアーを敢行できるようになるにつれてヒップホップにフィールドは東に端を発し徐々に西海岸にまで及ぶようになり、結果として西海岸がN.W.A.というそれまでのヒップホップシーンを揺るがすほどのセールスを記録するグループを輩出することとなる。
 “1988年の『ストレイト・アウタ・コンプトン』のリリースから1990年の年末までの間に、年犯罪について赤裸々に綴る西海岸の「リアルな」ラッパーが続々とメジャーとの契約にこぎつけ注目されることとなったが…その一方でアメリカ南西部や中西部のインディで活動するアーティストたちの表現のどぎつさはますます度を増していった。こうしたラッパーたちは、ニューヨークのアーティストやラジオ局、さらにニューヨークを中心とする東海岸のオーディエンスが自分たちに対して好意的でないことを知ると、やがてニューヨークへの敵意と憎悪を明確に作品のなかで表現するようになり、その一方でニューヨーク側からのこうした地方のラッパーへの憎悪も歴然としたものになっていった。“
 そういった事態は深刻化の一途を辿り、伝説的なラップグループとまで言われるウルトラマグネティックMCsのメンバーでもあったティム・ドッグが『Fuck Compton』を1991年にリリースすることとなるが、“実はこのシングルは、ヒップホップ発祥の地で活動するアーティストがNWAというもぐりの勢力に対してどれだけ畏れをなし、妬みを感じていたかをはっきりと形にしてしまっただけだった。”
 こうした東西の抗争は二人の偉大なる若き才能の死という最悪の結末に終着することとなる。(当初より虚構性が認められていたにも関わらず)リアルであり続けることが一つのモットーとなり始めたギャングスタラップはストリートのリアルさをアピールするために実際に犯罪を犯したエピソードを語ったりするなど本物のマフィアとヒップホップアーティストとの境界線が次第に視聴者、当事者双方にとって曖昧になり始めた。そうした状況でイップホップへの暴力的なイメージが膨れ上がり、
“東海岸のバッド・ボーイと西海岸のデス・ロウというレコード・レーベルの間で生じた対立は96年に西海岸を代表するラッパー、2パックが射殺され、翌年に東海岸のラッパー、ノトーリアスB.I.G.が殺されたことで頂点に達し、ヒップホップという音楽ジャンル全体に暴力的なイメージが定着する。”
 ヒップホップは本来黒人の若者が楽しく音楽を享受するところからはじまり、そして黒人の若者が白人により剥奪された権力を取り戻すために発展し、N.W.A.もまた悲惨な状況の中でも声を発信することの重要性を訴えるために活動していたにも関わらず彼らが起こしたギャングスタラップという波は最悪の結末と同時に最悪なイメージを国民に植え付けた上で終わりを迎える。ギャングスタラップが終わりを迎えても尚、ヒップホップは野蛮な音楽であるといるレッテルを貼られている背景にはこういった経緯があるのだ。

Ⅵ.映画『Straight Outta Compton』

 余談ではあるが、2015年にN.W.A.の伝記映画である『Straight Outta Compton』が上映され全米興行収入3週連続のNo.1を記録し、トム・クルーズ主演の『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』のオープニング興行収入を抜き去り、さらには3連覇を阻止した。ヒップホップ映画の金字塔を打ち立てたとまで言われていたエミネム主演映画『8mile』の全米での累計興行収入を三週間で抜き去るなど圧倒的な興行収入を記録したこの映画は何故今になってこれほどまでに注目されたのか。
 アイス・キューブの実子であるオシェイ・ジャクソンJr.がアイス・キューブ役を演じているなど話題性も十分であったし、制作にDr.Dreやアイス・キューブが名を連ね、撮影は徹底してカリフォルニアで行われるなどリアリティの追求にも余念がなかった。しかしこの作品のヒットはそれだけによってもたらされたのではないと私は考える。
 2014年、ミズーリ州ファーガソンにてマイケル・ブラウン氏が、そしてニューヨークではエリック・ガーナー氏が警官によって殺害された。しかしながら彼らを死においやった白人警官は相次いで不起訴となったことから全米規模の抗議運動が起きた事件は記憶に新しい。そしてこの事件はN.W.A.が結成された当時のアメリカの実情を思い起こさせる。初の黒人大統領であるバラク・オバマがいかに奮闘しようとも、N.W.A.が反旗を翻した当時のアメリカと同じような惨い事件が今尚起きているのだ。こうした歴史の連続性を意識すればこそ、ヒップホップアーティスト達が投げかけた言葉は風化することなく今も尚そこに脈々と生きた血が流れていることに気づかされる。そして黒人の立場が向上すればするほど、その言葉はより真摯に、誠実に受け止められ、2010年年代はまさしくヒップホップ、そして黒人がその立場を大きく回復し始めている時代である(この点については後の章にて説明する)からこそここまでこの映画は話題となったのだ。
 アイス・キューブがヒップホップアーティストとしてだけではなく俳優や脚本家として活動している中で当然彼も、そしてそれ以外の人々もN.W.A.の伝記映画の製作を構想していた。N.W.A.というグループは実にこの上ないタイミングで世間に警鐘を鳴らすグループであると言える。レーガノミクスに始まる黒人という世間的弱者への暴圧の余波が蔓延っていたからこそ彼らはアメリカ社会の体制に向き合うために決起したし、サウンドスキャンが導入されるタイミングでアルバムをリリースしたからこそ彼らの音楽、そして言葉が幅広い層に受け入れられていることが認知され、そしてヒップホップへの誤解が解消されつつありながらも、今尚差別の風潮が歴然と残っているということが広く世界に可視化された今というタイミングにてこの映画が発表され大ヒットしたという流れは見事と言う他ない。今この世界の情勢だからこそN.W.A.が本来掲げた思想と行動はその価値をよりアクチュアルなものとして我々の前に存在するのだ。

四章 インターネット時代のヒップホップ

 N.W.A.よりも一足先に社会的、政治的な思想を背景とした歌詞を武器に東海岸より躍り出たグループがいる。それがパブリック・エネミーだ。ヒップホップ界でも屈指の思想家とされるチャックDの鋭い言葉はN.W.A.と同じようにそれまでのヒップホップよりも音楽的にも、また歌詞内容的にもロックに接近したサウンドをもって大衆にその言葉を届けた。ヒップホップに商業的価値があることが加速度的に音楽界において認められると共に流れ込む商業主義的価値観を持った白人がヒップホップに流れ込んだ。しかしながらそうした一連の流れに対してチャックDは様々な手段を駆使して抵抗する。

ⅰ.インターネットにて巻き起こるレーベルへの離反

 タイム誌にて“「NWAやパブリック・エネミーのようなラッパーは、最悪の人種差別を現実化し、米国白人社会を脅かした上に大量のレコードを売って稼いでいる」”と書かれた通り、パブリック・エネミーはN.W.A.と共に反体制のシンボル的存在となっている。2000年代、ヒップホップの商業的価値は周知の事実として音楽界に知れ渡り、様々なレーベルがギャングスタラップの影響を受けた、つまりは派手でギャング礼賛的であり、かつ女性を極端に矮小化したMVなどを用いてマーケティングを行うヒップホップの量産に乗り出していた。しかし2000年代はヒップホップ界のみならず音楽界全体に大きな影響を与える変革が起きていた。
 それこそが音楽のデジタル化である。音楽のデジタル化によりそれまでのマーケティングシステムは大きく変更せざるを得ない状況に追いやられ、違法ダウンロードシステムなどに対しての対策も設けなくてはならなくなった。当初インターネットによって音楽界の雲行きは怪しくなるだろうと予測されていたが、音楽のダウンロードが経済に与える影響について米議会小委員会が開いた聴聞会にも出席するほどに信頼を獲得しているチャックDは音楽界にインターネットが参入してくることに大賛成であった。彼はナップスターが「新世代のラジオ」ともなり得る存在であり、インターネットによって国民は本来の権力を取り戻せることを信じていたのである。
 “1990年代終盤にインターネットが出現した時、チャックDはこれこそ大手レコード会社による経済的・イデオロギー的支配に反撃する最大の希望の星だ“と確信したそうだ。チャックDはN.W.A.のアイス・キューブと同じく、ゲットー出身ではないが、ストリートに由来する思想、価値観を武器とした歌詞を描くラッパーである。パブリック・エネミーはニューヨークのアデルフィ大学にて結成されており、チャックDはそこでグラフィックデザインを専攻していた。彼もまた、1980年代のレーガン政権がもたらした「弱者に厳しい時代」に対抗するためにヒップホップの魅力に取り憑かれ音楽的技術を磨いていった。
 レーベルと契約を結んだヒップホップアーティストが使い捨てにされる様子を見ていたチャックDは当初自分がレコードを出すことから距離を置いていたが、やがて年齢を重ね人種問題や社会的意識が成熟してくると自らもレコードをリリースするようになる。

“「自分の知っていることを訴えるだけのラッパーが多い。俺はこうだ、ああだっていう自己顕示欲ばかりのラップじゃ、俺はいやなんだ」”
という彼の発言からも見て取れるように、チャック Dもまた個人の領域を超越し、ストリート全体の様子を代弁するラッパーとしてのスタイルを築き上げ、黒人の状況を改善するように努めた。
 パブリック・エネミーは独自のサンプルを多用する楽曲を作りあげたが、そのスタイル故にサンプリングが著作権問題に引っかかるようになり、やがて楽曲内にて使われたサンプルには使用料が求められるようになる。また、教育制度や人種差別問題など多面的な社会問題に対して言及する楽曲を続々と発表したパブリック・エネミーの発言は常に賛否にさらされるほどの注目を集め、“彼らは、ヒップホップが社会の現状や政治問題について世間に訴える力があることを証明した“。
 しかしながらこうした痛烈な社会批判を武器にした「リアリティ・ラップ」はやがて多くのアーティストに模倣され、かつ“暴力的な荒っぽさばかりが目立つようになる”。こうして1990年代には前章でも述べたようにリアリティ・ラップの代替物的存在としてギャングスタラップが台頭し、政治的なメッセージよりも市場での売れ行きを重視するようになる。その結果パブリック・エネミーの影響力は次第に薄れていってしまうのだ。
 それまでヒップホップ界、並びに所属レーベルに多大なる貢献をしてきたにも関わらず、パブリック・エネミーが所属していたデフ・ジャム・レコードが1994年に買収された折、デフ・ジャムから一切の取り分が与えられなかったためパブリック・エネミーは徐々に音楽レーベルやレコード会社への不信感を募らせるようになる。1998年にリリースされる予定であった『Bring The Noise 2000』内の楽曲をアルバムがリリースされる前にパブリック・エネミーのホームページにアップロードするなどその当時から音楽レーベルへの敵対装置としてインターネットを活用し始める。
 原盤所有権がデフ・ジャム側にあったため結果的にパブリック・エネミーはホームページ上の楽曲を削除することとなるが、チャックDはそこで食い下がることはなかった。今度は新しく楽曲『Swindler’s Lust』をダウンロード可能にした状態でホームページにアップロード。加えて

“「重役、弁護士、会計士など、ここ最近音楽業界で儲けている奴らは、ダウンロードという科学技術にビビってる。創造性のある人間がこの技術で本来の権利を取り戻したら、奴らはもう汚い金儲けができなくなるからだ…俺はこの爆弾を投下できて満足だ。」”

というメッセージを書き添え明確にレーベルなどへの批判精神を示した。
 1991年にデフ・ジャムとパブリック・エネミーは袂を別つこととなるが“チャックDは、ヒップホップが次第にメインストリーム市場に迎合してくだろうと予測していた”ため更にインターネット上での音楽活動を展開していく。1999年にアルバム『There’s a Poison Goin’ On』をインターネット上でリリースしたり、ヒップホップのレーベル、ラジオ、そして楽曲の販売をインターネット上で行ったり、そして2002年には世界初のインタラクティブ・アルバムである『Revolverlution』を発表するなどそれまでの画一的なポップスのあり方やイメージ統合がなされてしまったヒップホップへと次々と爆弾を投下していく。
 ヒップホップという地域やコミュニティを重視する音楽において、インターネットが新たなる大きなヒップホップの「場」となることを予測したチャックDはこうしてインターネット時代においてのアーティスト活動の形を提示し、レーベルに搾取されることなく自由に個人の意思を表明するアーティスト本来の権利を取り戻したのだ。

ⅱ. サンプリングの地平の先に何が見えるか

 パブリック・エネミーはその歌詞の内容のみが評価されたわけではない。その態度、主張と同時にヒップホップという音楽のジャンルをそれまで以上にクリエイティブなもとへと拡張することを試み、ヒップホップという音楽の更なる発展を目指した。その結果彼らはより高度なサンプリング技術を駆使し、それまで以上に複数の楽曲の要素をサンプリングし、当時まだ垣間みえていなかったサンプリングの可能性を開示した。
 一説にはパブリック・エネミーはラップを主体としたヒップホップの完成形を示し、可能性を極限まで押し広げる役割を果たしたとまで言われる。その結果ヒップホップは思わぬ展開を迎えることとなる。

 “パブリック・エナミー以後、ヒップホップの二極化が加速し、結果的に80年代とは、ヒップホップの分離作業が進行した時代として捉えることができるだろう。その過程で、そもそも異なる出自をもつラップは切り離され、よりインストゥルメンタル的な傾向を強め、サンプリングを重視した方向へと向かう(その背景には、さまざまなテクニックを可能にする機材の開発・普及がある)。”

 とあるように、ヒップホップのポリティカル・メッセージ的側面を極限まで高めたパブリック・エネミーが同時にインストゥルメンタル的な側面においてもヒップホップを次のレベルにまで推し進めようと試みた結果、ヒップホップのその両方の側面が注目され次第にその二つは分離するようになる。ラップという行為はヒップホップという枠組みを超えてさまざまなジャンルの音楽と絡み合い、音楽的な意見表明の象徴と言えるほどに我々のポップカルチャーに組み込まれた。
 一方サンプリングはどうだろうか。ここで一度サンプリングについて簡単に説明しておくと、サンプリングとは既に流布している楽曲の一部を抽出、再構築することによって新たなる楽曲を創作する表現技法である。サンプリングという表現技法がヒップホップと結びついたのは言うまでもなくブレイク・ビーツの誕生の経緯を参照していただければ理解できると思うが、ヒップホップの音楽的特徴の誕生がまさしく楽曲の抽出作業によってなされたからであり、それ以降もサンプラーの普及、発展などとともにヒップホップとサンプリングは分かち難い関係性を結んできた。
 ヒップホップは当初快楽主義的傾向を持ち合わせていたが、そういった傾向を持ち合わせていながらも言論的な部分においては時に政治的、社会的、人道的な側面を語るなど様々な要素を獲得していったように、当初は快楽目的と自分の音楽的知識をひけらかす目的で行われていたサンプリングも新たなる意味性を獲得することとなる。そしてサンプリングの意味を理解することがヒップホップの真相と深層を理解するには何よりも欠かせないのである。
 ブレイク・ビーツという言葉がそのまま明示しているように、ヒップホップという領域において楽曲は前後の文脈を関係なく分断、あるいは「破壊」され、使用されることとなった。そしてパブリック・エネミーなどがより多くの楽曲からサンプリングしたように、時代という文脈も破壊され、またサンプリング対象もビートに限らずメロディやボーカルなど多岐に渡ることとなる。  
 当然ながらサンプリングという「作曲技法」は従来のそれとは異なり楽器経験のない人物であってもある程度の機材環境と音楽視聴環境さえ揃えていれば作曲という行為に踏み入ることを可能とした。作曲という行為の拡張によって当然ながら作曲の敷居はある意味では下がり、それに伴いサンプリングは大きな著作権問題へと発展した。しかしながらそうした著作権問題をクリアするためにサンプルをより細かく「カット」する技法や、逆回転、高速回転するなどといった様々なクリエイティブな技法がDJによって編み出されていった結果サンプリングは今ではヒップホップシーン以外の音楽領域にも用いられる作曲行為の一つとなった。
 そしてインターネット時代の到来によって、我々は実に安易に過去の膨大なデータベースへとアクセスすることが可能になった今日においては、過去のいかなる楽曲も時代の順序も背景も関係なく、この世に新たなる形態を付与する形で蘇らせることが可能になった。そうした傾向はYoutubeの浸透やApple Musicなどの音楽ストリーミングサービスの浸透によってこれまで以上に顕著になっていくであろう。この世に溢れる全ての楽曲がリサイクル対象であり、楽曲は忘れ去られることなくいつどのタイミングで新たなる血肉を流し込まれるかが分からない状況にあるのだ。
 リッキー・ラッカーというDJが語る通り、
“さまざまなレコードのさまざまなサンプルを混ぜることによって、伝統的な作曲方法では絶対に予想もつかないメロディの組み合わせやテクスチャーを生み出せるんだ。多くの楽器奏者は他人の曲に影響されたり、他人の曲の要素を自分の曲に取り入れたりする。僕らはインスピレーションを受けるのではなく、文字通り影響を受けた他人のレコードをそのまま使う”
ことができる。この発言から見て取れる通り、サンプリングに必要な機材だけ揃えれば、好きに好きな時代の好きな音楽を自分の楽曲として利用出来る上に、他人のビートやメロディだけではなく他人が楽曲内に込めたメッセージなども同時に「再生」することができるようになるのだ。
 こうして音楽の世界においても歴史の連続性が生まれることとなった。ハークが編み出したブレイク・ビーツはサンプリングへと結びつき、それまでの楽曲の構造を破壊するのみならず、音楽全般のそれまでのフローをも破壊することとなったのだ(破壊は当然ながらネガティブなニュアンスでの破壊を意味してはいない。ただそれまでの音楽、楽曲の構造が破壊され新しいものとなったということを意味する)。ヒップホップの「言葉」であるラップが歴史の連続性によっていつまでもその言葉に血が流し込まれているのと同様に、ヒップホップの音楽的部分の根幹を担う「ビート」もまたサンプリング技術が産み出した膨大な楽曲群の円環構造によって常に再生産され、再反復され得る立場に立たされている。
 ロラン・バルトの『作者の死』(1967)、そしてミシェル・フーコーの『作者とは何か?』(1969)にて提示されたように、作者の権威低下が巻き起こり、ポストモダン的なカルチャーの特質を受け継いだサンプリングはコラージュ的に聴衆、ならびに作曲者のニーズに応える形で楽曲の形を変え、流動的に楽曲内の内実を描くことを可能とした。そう、まさしく一章のグランドマスター・カズの発言にもあるようにヒップホップは「蘇生」なのである。


五章 ヒップホップの現在 

 今日においてビルボードチャートには当然のごとくヒップホップミュージック、並びにヒップホップ的な楽曲の特徴(サンプリングの使用、ビートの反復など)を備えた楽曲が並んでいる。よもやヒップホップがポップスの大きな一部を成していることを疑うなどということはないだろう。しかしそれでも尚映画『Art Of Rap』を監督したアイスTの頭には今(撮影された2012年当時)もヒップホップは尊重されていないという悩みが駆け巡っていた。彼は

“「ラップは新世代に詩を浸透させ、人種を超えて影響を与えた。だがジャズやブルースと違いなぜか尊重されない」”

と彼は語っており、ヒップホップが人々の理解を得られていない状況が今尚続くことに疑問と悲しみを覚えた様子で語ると共にその原因を突き止めるべくヒップホップアーティストたちにその疑問を投げかける。
 彼の疑問に対してMarley Marlは

“「ジャズやブルースのアーティストのような結束がなかったからだ。最近はやっと変わってきたがな。ブルースの世界には互いへの愛がある。俺たちも受賞の挨拶でこう言えるようになるべきだ。フラッシュやハークに感謝します。“彼らが始めたから今の自分がいるのです“と。こんなリスペクトがもてたら世から認められるはずだ」”

と語り、Nasは

“「世間は恐れているんだ。俺たちの活躍をさ。ブロークン・イングリッシュでなぜ詩が書ける? 単なる街角の会話はお呼びじゃない。スボンも帽子もちゃんとしろ。お前らはスラムに戻れ。なぜ子供らはお前らの音楽を聴く。どうなってる?まったく気に入らない。そういうことさ」“

と語る。最後にDJ Premier は

"理解できない奴にはよさが分からないからだ。聞き方が分からなければDJがやるスクラッチも単なる騒音さ"
"80歳のお袋にはヒップホップは無理だ。フレッシュ(新しい)、ドープ(ハマる)、フライ(かっこいい)といったヒップホップ特有の用語を考えるよりも前に理解できることが大切なんだ"

と語っている。1章にて述べた通りヒップホップには独特の言語(黒人独特の意味性を付与された言語と若者英語とが混ざり合った独特の言語)が歴然と存在し、またそれに伴いヒップホップを聞くにはヒップホップ全体の場の雰囲気や慣習を少なからず理解していなければならないことは歴然とした事実だろう。
 こういった具合に三者三様にヒップホップが今も尚大衆に尊重されない音楽である原因を語っている。しかしこうしたヒップホップアーティスト達の言葉とは裏腹にヒップホップは今急速にその信頼感を増して世界に迫っている。本章ではこれまで幾度となく様々な社会的な障害と衝突を起こしてきたヒップホップが遂に黒人の手によって再獲得される流れを追っていく。

ⅰ.社会的地位を獲得するヒップホップ

 “「ポピュラー音楽とは主に20世紀以降、すなわち複製技術の発展によって大量配給が可能であり商品化された音楽である」”

東谷護が彼の著書である『拡散する音楽文化をどうとらえるか』の序文にて述べているポピュラーミュージックの定義は1979年以降、つまり『Rapper’s Delight』がリリースされた以降のヒップホップに当てはまるものであると言える。
 そうして一つのポピュラーミュージックとして実に35年以上音楽シーンに存在し続けてきたヒップホップであるが、多くのポップカルチャーがただの大衆文化、あるいは労働者階級の文化というレッテルを貼られ、クラシックやハイアートとは分断されていたようにヒップホップもまた長らく多くのポップカルチャー同様軽んじられ続けてきた。ある意味では大衆からの支持と軽視を並列的に浴びせられるのはポップカルチャーの宿命とも言えるが、こうして一定期間ポップカルチャーの最前線に存在し続けたヒップホップは次第にリスペクトを得ている音楽と並んだ扱いを受けることとなる。
 一つの例としてはヒップホップがアカデミズムの中に存在し始めているという事実に見て取れる。ボストン、バックベイにその拠点を構えるバークリー音楽大学、そこでは高度かる斬新な音楽教育が今も行われている。非常に著名な音楽大学として知られるバークリーは、現代音楽の教育や研究にも熱心であることが知られており、1940年代には学問的価値がないとみなされていたジャズをカリキュラムに導入するなどといった具合保守的なクラシック音楽重視の音楽教育方針を打ち破ってきた。
 黒人音楽として生まれたジャズがこうして音楽の名門の中で学問的価値が見出されたのと同様に、ヒップホップにおいての器楽、つまりターンテーブルも教育的価値があると考えた人物がバークリーにいる。それが音楽制作と音楽工学の教授であるスティーブン・ウェバーである。彼は“ターンテーブリズムの講座—ヒップホップDJのターンテーブル使いのスキルや技術という、ラップ音楽独特の創造性を教える講座—を作りたいと提案した。”サンプリングという作曲技法が盗作扱いされていることからヒップホップは洗練されていたに音楽であるという見方も強かったが、ウェバーはDJにミュージシャンシップを感じ、“ヒップホップの型破りなビート、グルーヴ、構成など、いずれをとってもラップは現代音楽の重要な一部であると確信していたのだった。”
 ウェバーはヒップホップに見出した技術の革新性とターンテーブルの扱いに求められる芸術性や美学、独創性や黒人文化を背景とした主張、表現などは現代の名門学校においても教えるべきであると考え、熱烈にオファーした結果ターンテーブルの講義は正式に大学側に認められ、2006年に開講されることとなる。そしてまたハーバード大学にて「ヒップホップ文書館」が2003年に設立されていることなども、アカデミックなフィールドにおいてもヒップホップはその価値を認められ、社会的意義を見出されていることを端的に示す例の一つとなっている。

また、50セントと壮絶なラップバトルを繰り広げていた有名ラッパーのジャ・ルールが2003年10月29日にネーション・オブ・イスラムのルイス・ファラカン師と対談を行ったことなどもヒップホップがより社会的な文化として認知されていることを示す例の一つであると言えるかもしれない。2パックとノトーリアスB.I.G.の死後にエミネムのプロデュースによってデビューした50セントはかつてラッグ・ディーラーとして生計を立てており、母親も麻薬中毒で亡くなるなどまさしく典型的なギャングスタ・ラッパーであると言える。対照的にR&Bなど比較的大人しめの音楽を取り入れた音楽が女性に人気を博していたジャ・ルールは「ストリート」性に欠いているとのことで50セントの批判を受けることとなる。
 しかしながらギャングスタは企業やレーベルなどがヒップホップをより営利目的に利用するために売り出した虚構的なイメージ、キャラクターであることは3章にて述べた通りである。ゲットー生活の悲惨さ、深刻さを身にしみて理解しているからこそ音楽という武器を通してそういった状況から脱却することを目指したラッパーたちは、ヒップホップのイメージ保持のためにあえてストリート性を誇張した生活、態度を取るという矛盾を抱えたままアーティスト活動を展開した。
 ヒップホップがそうした矛盾を抱えていることに対しての疑念を抱いたジャ・ルールは50セントに対して「ストリートの掟」に従い反撃したものの、そうした行為が自分自身の本義ではないという旨を訴えるかのようにファラカン師に経緯などを告白した。

“この対談はMTV、 BET、クリア・チャンネルなどのラジオ局などで全国放送されたが、それはいかにヒップホップが現代社会と密接に結びつき、ポップカルチャー、社会、政治を変化させたかを象徴していたと言える。”

とあるようにヒップホップの一つの転換点ともなり得るほどの衝撃をこの対談は残したが、それと同時にヒップホップが抱える矛盾がいかに黒人を冒涜しているかを多くのヒップホップ・アーティスト達に理解させた。企業のイメージ戦略に乗せられてゲットーに生きることは黒人が暮らす悲惨な状況からの抵抗の声として勃興したヒップホップとは対照的に黒人の生を軽んじており、現実として死者が出るまでに至っている状況を鑑みるに、こうしたイメージ戦略を横行させている企業から反発しなくてはならないという意識を喚起させたのだ。
 ヒップホップは白人が作り出した社会、システムによって苦しい生活を送ることを余儀なくされた黒人たちの抵抗の意思と音楽への愛によって生まれ、時代によってその抵抗の対象は変わり、とうとうヒップホップの闘争の対象がヒップホップそのものへと移り変わる。白人の干渉によって遂には黒人に牙を剥くようになってしまったヒップホップとは果たして何か、そしてヒップホップが本来掲げた思想、目的とは何かを理解する必要性を黒人たちはこうした対談やヒップホップアーティストたちの死を契機として思索するようになった。

ⅱ.黒人の声を象徴する音楽、ヒップホップ

 確かにヒップホップは前節にて見てきた通り、ヒップホップに致命的に損なわれていた社会的地位を増進させるに至るが、そうした作業には黒人以外の人種が関わっていることもまた事実である。とりわけアカデミズムへのヒップホップ参入などはストリートとはまるで関係のない場所でヒップホップが勝手に規定され、教育の一部に組み込まれているなど安易なヒップホップの理解に繋がりかねないとヒップホップアーティスト達からは批判の声が上がったそうだ。前節の最終段落で述べた通り、ヒップホップとは何かという本質的な課題と直面していたヒップホップはヒップホップを生み出した黒人の手によって規定されるべきであるという見方が強まっていたのだ。

ⅱ-1.ケンドリック・ラマー

 そんな中、とあるラッパーがカリフォルニア州、コンプトンというヒップホップの「名門の地」より台頭することとなる。彼の名はケンドリック・ラマー。1987年に生まれ、2011年にインディーズデビューを果たした新進気鋭のヒップホップアーティストである。非常に若くしてデビューした彼であるが、彼がこれまでにリリースしてきた作品は音楽誌などでいずれも大変な高評価を得ており、その出自なども相まって次世代を担うアーティストの一人であるとされている。
 ケンドリックの最新アルバムである『To Pimp A Butterfly』はジャケットの画像をご覧になって頂ければ分かる通り、ホワイトハウス前に酒瓶と札束を持った黒人がホワイトハウス前に集う様子を描いたアートワークが特徴となっている。そして黒人を中心とした人種問題に深く言及した歌詞、つまりは

“近年相次ぐ白人警官や民間人による黒人への蛮行〜不起訴処分によってつまびらかにされた、アメリカ社会・政府の“相変わらず”の腐敗ぶりへの怒りと溜息、ひいては「Black Lives Matter」のスローガンと共にブラック・コミュニティをここから先導していくがためのある種の覚悟に満ちた、そんな言葉の欄間に溢れかえっている。”

またその内容面ばかりでなくプロデューサーでありサックス奏者であるテラス・マーティンがきっかけとなり、黒人のジャズミュージシャンを多数起用したそのサウンドでも注目を集めた。
 テラス・マーティンによるとこの作品の背景には、アフリカの地を訪れその精神面に大きな変化が起きたケンドリックが“自身の経験のサウンドトラックとなるべきものをブラック・ミュージックと呼ぶほかない音楽として作りたがった」”という意思の存在を語っているが、このアルバムは結果的にヒップホップとジャズの結びつきをより強固なものとするばかりでなく、ブラック・ミュージックの文脈から乖離していたジャズを再びブラック・ミュージックのフィールドへと巻き込んでもいる。
 また、タイトルである『To Pimp A Butterfly』は本来『To Pimp A Caterpillar』(略すとTo PACつまり2パック)と銘打たれていることや、現代ジャズミュージシャンとスヌープ・ドッグのような西海岸で古くから活躍しているヒップホップアーティストが共演していること、そしてアルバムの最後の楽曲である『Mortal Man』にて2パックの生前の会話音声をサンプリングし、ケンドリックと2パックによる擬似的な会話が繰り広げられていることにも注目したい。これらのことから、このアルバムにてケンドリックは歴史の連続性、反復性、連鎖性、そして改善されることなく続く黒人への差別の現状、加えてそれらの現状を鑑みた上で黒人が世代やジャンルを超えて「黒人性」を黒人の手によって獲得し、団結する必要性があることを訴えているのであると分かるだろう。
 ヒップホップ世代の誕生によってヒップホップが黒人にとってそれまでのブラック・ミュージックの多くと分け隔てなく親しまれるようになった結果、ジャズミュージシャン側からのヒップホップへの蔑視傾向は軽減されていく。事実『To Pimp A Butterfly』にも出演している黒人ジャズピアニストであるロバート・グラスパーもそれまでのジャズの境界を超え、彼自身のアルバムにて大胆に様々なラッパーを起用し、インタラクティブにお互いのジャンルを刺激し、時に補完し合い、より「黒人性」に溢れたブラック・ミュージックを創生することを目指している。
 ケンドリックは2016年初頭に話題になったように、ホワイトハウスの執務室に招待され、オバマ大統領と意見を交わしたそうだ。 この事実は、ヒップホップアーティストの地位向上、そしてヒップホップカルチャーに携わる人が今や軽視の対象ではないことを如実に表していることは言うまでもない。 
 ケンドリックはコンプトンにて暮らしていたものの家族の支えなどもあってギャング活動や麻薬に手を染めることはなかった上にそれを公言してもいる。実際彼の暮らしは貧しかったそうだが他者の支えがあれば道を外すことはないと考えた彼は黒人が無闇に野蛮さをプッシュすることの無意味さと、黒人の生を冒涜する社会の仕組みへの批判の声を上げる重要さを改めて提示している。彼が様々な場面において述べているメンターの対象は親などに限らず、地域の人々、はては多くのヒップホップアーティストも含まれるだろう。黒人がお互いに支え合い、黒人の正当な権利を訴えるということはこれまでにも見られた現象ではあるものの、ケンドリックほど説得性を帯びた形でこうした発言を社会に投げかけるアーティストはそうはいない。彼はヒップホップの文脈を言語面において、そして楽曲面においても入念に理解し、それを打ち出したアルバムを製作しているからこそ人々は彼の言葉に価値を見出しているのだ。

ⅱ-2.ジャズとヒップホップ

 サンプリングなどの手法もジャズの領域において使われるようになり、サンプリングが提示した過去の楽曲が持ち合わせた感性、空気、そして思想を蘇生すること、そしてラップが提示した黒人の権利を主張するメディアというヒップホップの両要素がジャズ、そして様々なブラック・ミュージックのジャンルに溶け込み始めた。しかし果たしてなぜジャズはここまでヒップホップと強い結びつきを得るに至ったのか。

“ビバップといわれるジャズは、音楽にとどまらず、ひとつの姿勢や視点であり、ライフ・スタイルであり、人々、特に黒人が芸術的に知的に自己表現する手段であり、同時にそうしたすべてを可能にする沈着さを維持する術でもあった。ビバップは、表現形式というよりも感じかた、つまり全世界に及ぶ支持者のネットワークだった。…私たちには、常に公民権を奪われた人々が心理的・精神的・創造的に生き残る支えになるためのサブカルチャー、そして私たち自身の社会を生み出す必要があった。私たちはスラング、ボディ・ランゲージ、イデオロギー、感性、音楽と共存する生き方をみつけた。ビバップはカルチャーをもたらしたが、ヒップホップはカルチャーそのものになった。…私にとってビバップとラップの関連性は、知識で培われるという点にある。“

 こう往年の名プロデューサーであるクインシー・ジョーンズが語る通り、ジャズ、とりわけビバップはヒップホップと浅からぬ関係性を持っている。その繋がりは音楽特徴に見られる反復性や即興性のみならず、その思想的側面にまで見て取ることが可能だ。ある種のジャズとヒップホップとの連関性、連続性を意識することで、ヒップホップが黒人にとって何を意味するかがより鮮明に理解できるはずだ。
 例えば先ほどクインシーの言葉にもあったように、ヒップホップにはビバップとの類似点がこれでもかというほどに散見され、その結果一部のジャズミュージシャンはヒップホップにこそジャズの失われた「黒人性」があると捉え、ヒップホップへの接近を試みるようになった。代表的な例としては以下の二つがある。

“1985年、ブルース・スプリングスティーンの伴奏グループ、Eストリート・バンドのギタリスト、スティーブ・ヴァン・ザントは南アフリカにおける人種隔離政策(アパルトヘイト)に対する抗議活動を起こす。趣旨に賛同したミュージシャンを集め、キャンペーンソングとして<サン・シティ>という曲を録音する(のちにアルバム『サン・シティ』へと発展)。
このプロジェクトにはジャンルを超えて多くの著名なミュージシャンが集まり、そのなかにはヒップホップの人気ラッパー(Run.D.M.C.、グランドマスター・メリー・メル、アフリカ・バンバータ等)も含まれていた。”

とあるようにヒップホップが持つブラックプロテストミュージックととしての性質にジャズとの近似性を見出し、接近したケースもあれば、もう一つの例としてクインシーが彼のアルバム『フューチャー・ショック』にてスクラッチサウンドを導入し大反響を呼ぶなどヒップホップが持つ技術的な先進性、開拓精神に単純な共鳴を覚え接近したケースもある。 
 しかし当然ジャズミュージシャン側からはヒップホップへの批判の声も上がった。1961年生まれのウィントン・マルサリス等は“ヒップホップを「堕落の音楽」と決めつけ”,
ジャズのようにスーツを着てステージに立ち、政治的な発言も辞さないような態度をもったアーティストたちが築き上げてきた伝統を若い黒人に伝えるべきだと主張した。しかしこのウィントンの批判は極めてヒップホップの内実に対して無頓着であるが故に生まれた発言であると言える。これまでにも度々述べてきた通り、黒人は黒人の地位を上げ、発言権、市民権、そして人権を正当に与えられるためにヒップホップというツールを用い、戦ってきた。ウィントンが推測していたよりもはるかにヒップホップは若者文化の枠を飛び出て、様々な要素をその母体に吸収していき、ジャズと近しい要素を備えるようになっていたのだ。
 ジャズは、ヒップホップの思想的側面と同時に、サンプリング技法の高度化によってインストゥルメンタルミュージック的側面としての可能性を暗示していたヒップホップの双方と結びつき、前節にて述べた通りロバート・グラスパーやケンドリック・ラマーの活躍によってその分かち難い結びつきを一般層にまで提示した。これまでにもヒップホップはロックなどといった「反抗」のモチーフを共有する音楽と結びついてきた。しかしながらジャズとヒップホップがこうして完全に結びついたことの重大性はロックとのそれよりも遥かに多面的かつ重大な意味を持つ。
 その成立の流れや、アカデミックな分野において当初は忌避され、後に白人の介入によって発展を遂げることとなった(遂げてしまったと言い換えることも可能かもしれない)、などといった具合に様々な面においてヒップホップとの近似性が認められるジャズが失った黒人音楽としての未来をヒップホップは再獲得し、ヒップホップがジャズとある意味では一括りに「ブラック・ミュージック」として存在しているという事実は、ヒップホップがこれまで以上に黒人からの支持を得ており、かつ黒人文化の未来を開拓する精神を持ち合わせていることが黒人全体のカルチャーの中で認められたということを意味する。
 一度は黒人が発見し、白人がその発見を搾取するというジャズにて起きた現象が確かにヒップホップにおいても起きたことはこれまでの流れを読んでいただければ明確であるが、しかしながら反抗の精神を絶やすことなく、時に自己批判的な思考を兼ね備えたアーティストたちの活躍によって自浄作用を働かせ、再度黒人性の獲得へとヒップホップが向かった結果ジャズというフィールドにヒップホップが「黒人の声の象徴」、そして「黒人文化の再生」という両義的側面を持ち合わせたまま参画することとなったのだ。
 こうした確かなる支持を得たヒップホップ、ならびにヒップホップ・アーティストは、2000年代のそれとは異なり無闇にギャング的態度を押し出すことも野蛮な言葉を吐き捨てることも減り、よりポジティブな方向へとヒップホップを動かしていることからもヒップホップを取り巻く状況が大きく変わったことは一目瞭然だろう。

終章

 資本主義、差別文化からの脱却を目指したヒップホップは時を経ると共に資本主義や差別への反抗のみならず自由の再獲得を目指す文化として発展し、その反抗の対象を黒人の安易なキャラ化、そしてそれまでのブラック・ミュージックの黒人性を剥奪した商業主義文化へと向けることとなる。更には安易な利益主義、ゲットー性の賛美に乗せられた黒人たちをもその反抗の射程へと組み込み、ストリートに端を発した黒人の声としての側面を超越し、黒人文化の黒人性と黒人の正当な権利を明確に主張する信頼性のあるメディアとして発展した。
 序論で述べたような形で、つまりヒップホップが極めて単一的に一種の若者文化、反抗の文化、そして野蛮な文化としてしか見なされないという状況に対する不満を抱いていたのは当然ながら私だけではなく、本国のヒップホップの多様性を文化的背景から見出していたアーティストも同様に感じていたからこそヒップホップは時に白人主導の大衆文化の波に飲み込まれそうになりつつも黒人性を完全に喪失することなく発展することができたのだろう。
 ヒップホップという領域は、他の音楽ジャンル同様完全にその歴史をまとめ上げるには膨大な事例とその音楽文化全体への十全なる理解が要される。故に本稿にて扱ってきた事例の多くはヒップホップと黒人文化との深い結びつきを示すもの、あるいは白人がヒップホップに与えてきた影響に限定したものとなっている。そのことから本稿にて行ってきた研究はヒップホップを過度に黒人性に結びつけるきらいが強すぎるという見方、あるいは批判も想定される。
 しかしながら本稿にて述べてきた通り、白人がヒップホップを商業的音楽へと変容させるためにヒップホップ並びに黒人に付与してきたイメージや風潮は、黒人個人個人の多様性を暴力的に隠蔽、あるいは無視し、黒人の生の尊厳を冒涜するかのようなものであることが往々にして認められるがため、そうした文化に文化性を認め、ヒップホップの一つのスタイルとして存続させる行為は間接的にではあるが人権侵害的であり、かつ非倫理的であるという考えから黒人文化としてのヒップホップに焦点を当てて研究を行った。
 サンプリングという行為によってシームレスに過去のいついかなる時代の音楽に内包されるメロディ、ビート、そしてその思想を現代に甦らせることが可能となり、ヒップホップミュージックが有する自己発信能力の射程はさらに広がった。サンプリングによって古いブラック・ミュージックの楽曲は今もこの世に確かな価値と主張を持ち再生されることとなったのだ。N.W.A.の伝記映画である『Straight Outta Compton』もまさしく思想の再生という面においてはその一例に分類されるであろうし思想の再生の必要性を端的に示した一例でもあった。ヒップホップ・ミュージックのビートのごとく、歴史もまた延々と止めどなく反復し続け、迫害の対象を限定することなく差別、迫害の歴史を繰り返してきたしこれからも繰り返すだろう。だからこそ過去の思想をこうしていつ如何なる時も参照する必要性があるのだ。 
 ヒップホップは黒人が始めたが、今では世界各国で演奏されている音楽ジャンルの一つだ。誰しもが社会的弱者になり得るこの世の中、あるいは社会の中に生きねばならないからこそ、時に過去の音楽家の言葉やメロディを引用、蘇生しつつ、それに乗せて自分の態度を表明する必要性をヒップホップは教えてくれた。
 ヒップホップとは時代、人種、分野を縦断して個人の権利の上に立ち個人の態度、主張、言葉を表明するメディアなのである。そうした行為は何らかの利益の上に立つものではなく、個人の権利を剥奪されることへの憤りや個人の自由を獲得する喜びを人々が普遍的に理解しているからこそ行われる。そうした至極当たり前でありつつも人々がどこか忘れてしまっているような事実をヒップホップは今もこうして我々に語りかけているのだ…。

謝辞

 堀茂樹研究会に二年の秋に所属してから二年半、実に学生生活の半分以上もの期間を堀先生の元で過ごさせて頂きました。研究会に所属したばかりの二年の秋、堀先生が私に投げかけた問いに曖昧な返答を残したことを非常に心悔しく思ったのを今でも思い出します。そうした思いもあってこうして二年半研究会に所属してきたわけでありますが、その過程で先生、並びに同輩や先輩方と沢山の会話を交わし、沢山の助言を頂いた結果こうして卒業論文を完成に漕ぎ着けることができました。ありがとうございます。ひとまずの安堵と共にこうして書き終えてみて一つ思うのは私にとっての堀研はどうしようもなく楽しく、素晴らしい経験の連続であったということです(どうしようもなく稚拙な表現であることがまたもや非常に心悔しいですが)。
 二年半という期間を先生の研究会で過ごす中で自分が欠落していた思考の態度や持ち合わせていなかった視座を今では少しばかりかは獲得できたように思います。そして何よりも本と音楽、そして周囲の人を心から愛せるようになりました。こうした機会、そしてその機会を得られる場を作ってくださった堀先生に改めて感謝いたします。本当にお世話になりました。また、私の大学生活を様々な面で支えてくれた青木望氏、小塚啓介氏、吉野浩平氏、そして両親と祖母にも感謝を表したいと思います。かけがえのない大学生活を与えてくださり、本当にありがとうございました。

参考文献

・『Jazz The New Chapter』ロバートグラスパーから広がる現代ジャズの地平(柳樂光隆監修、株式会社シンコー・ミュージック・エンタテイメント、2014年)
・『Jazz The New Chapter2』(柳樂光隆監修、株式会社シンコー・ミュージック・エンタテイメント、2014年)
・『Jazz The New Chapter3』(柳樂光隆監修、株式会社シンコー・ミュージック・エンタテイメント、2015年)
・大和田俊之著『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、プルースからヒップホップまで』 (講談社選書メチエ,2011年)
・中山康樹著『ジャズ・ヒップホップ・マイルズ』(NTT出版、2011年)
・毛利嘉孝著『ストリートの思想-転換期としての1990年代』(NHKブックス、2009年)
・ネルソン・ジョージ著 高見展訳『ヒップホップ・アメリカ』(ロッキングオン、2002年)
・長谷川町蔵、大和田俊之著『文化系のためのヒップホップ入門』(いりぐちアルテス、2011年)
・原雅明著『音楽から解き放たれるために-21世紀のサウンドリサイクル』(フィルムアート社、2009年)
・ウェルズ恵子著『魂をゆさぶる歌に出会う-アメリカ黒人文化のルーツへ-』(岩波ジュニア新書、2014年)
・S・クレイグ・ワトキンス著 菊池淳子訳 『ヒップホップはアメリカを変えたか もう一つのカルチュラルスタディーズ』(フィルムアート社、2011年)

参考映画

・『 Art of Rap』
・『 Straight Outta Compton 』

参考Web

・ 町山智浩 映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』を語るhttp://miyearnzzlabo.com/archives/29322
・RO69 ケンドリック・ラマー、オバマ大統領とホワイトハウス執務室で話し込んだことを明かす「http://ro69.jp/news/detail/137136」


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