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ラーメン二郎を食べていたら哲学が始まった

ラーメン二郎という有名なラーメン店がある。熱狂的なファンは「ジロリアン」と呼ばれ、いまや二郎は一つのブランドとして確立している感すらある。

とりわけ有名なラーメン二郎は、テレビのニュースで報じられたことのある「神田神保町店」だろう。
テレビの取材に対してある青年が「割とレベルの高い、合格点を超えてくるような二郎を、オールウェイズ出してくれる」と論評したことでその質の高さが我々一般人にも知られることになった。

私はラーメン二郎の神田神保町店に一度行ったことがある。小ラーメンを食べたのだが常軌を逸した量で味もかなり濃い。食べながら徐々にきつくなっていったのだが、この過程でふと「なんで俺はラーメン二郎を食べているのだろう」という疑問が浮かんだ。

ラーメン二郎の味はあまりにも濃いし、量も多すぎるし、おまけに店員のサービスは良くない。
友人からの「ラーメン二郎は亜流やインスパイア系ではなく、直系の店に行くべし」といわれたことこそあり実際に何度か行ってみての感想は「お世辞にも美味しくはない」である。
実際に神保町で二郎を食べてみて「これが『割とレベルの高い、合格点を超えてくるような二郎』なのであれば、二郎なんてありがたがって食べるほどではない。というか二郎の合格点ってなんだよ」と感じてしまった私に、ラーメン二郎に行く理由などどこにもなかったのだ。

とはいえ神保町の二郎は極めて量が多いため、あれこれ文句を言ってもなお麺は4分の1くらい残っている。二郎への不満と共に箸を進めていた時,ふとこの世界には二郎よろしく味の濃いものが多すぎることに気付いた。

コンビニに売っている適当な食べ物でもいい。そこら辺に売っているドーナツとかアイスとかも基本的に味が濃すぎる。この間市販の「からあげ粉」なるものを使って唐揚げを作ったけれども、その味の濃さたるやなかった。もはや自炊をするでもなければ味の薄いものに出会うのが難しい現代社会である。

もしかすると、二郎をはじめ市販の大味なものをありがたがって食べるような私たちの味覚は、すでにかなりおかしくなってしまったのではないか。

味の濃いものではないと「おいしい」と感じることのできないあまりにも鈍感すぎる味覚を、私たちは日々の食事の中で知らず知らずのうちに獲得してしまったのではないか。その果てに現代社会はラーメン二郎を「うまいうまい」と食べ続ける、ジロリアンという怪物を生み出しているのではあるまいかーー横で野菜などがもりもりとトッピングされた大ラーメンにをかっ喰らうジロリアンを横目に、私は小ラーメンを息も絶え絶え食べ切り、そそくさと二郎を後にした。

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