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「調子」を考える

パリオリンピック・パラリンピックが終わった。
選手のインタビューなんかを聞いていると「いい調子で臨めた」といったコメントなんかをよく聞く。この「調子」というのはなんとも不思議なものだ。

「パワプロ」なんかでは選手の調子が悪いときにひどくミートが小さくなったり、投手であれば変化球の曲がり具合がショボくなったりと様々な弊害が起きたりする。それだけにパワプロの選手育成モード「サクセス」では、彼女やチームメイトと遊びつつ調子を高め、練習に身が入らないこともしばしばであった。

水泳をしていたころ、試合前には負荷の高い練習をするのではなく試合を想定して一本一本集中して泳いでいた記憶がある。調子を良くしようとしていたというよりは試合を想定した「感覚をつかもうとしていた」というほうが適切かもしれないが、結果的にそれが調子を整えることにつながっていたような気がする。

私は一度だけ、明らかに良いパフォーマンスができなかったレースがあった。別に体調が悪いわけでもなかったのだが200m自由形でなぜか全く集中できないまま単に泳ぎ切っただけということがあった。記録も実に平凡でレース後にはコーチに「無になれませんでした」と言うと笑われたものである。

あれこれ話をしてしまったが、単なるサラリーマンである我々一般人は、この「調子」というものをあまり意識しなくなっている気がする。
というより、普通の仕事は「調子がよかろうがよくなかろうがやらないといけない」ので、調子を考えるというより能力を高めることに意識が行っている。
言うなればパワプロで調子の良しあしを度外視して練習をしまくって、能力を高め続けているような状態、ともいえる。

となると、わたしたちはもしかしたら「調子がよかろうがよくなかろうがやらないといけない」仕事において、最大限の能力は出していない、ということもできる(もちろん見方を変えれば余力をもって仕事をしているということでもあるので一概に良し悪しは言えないが)。
もっといえば、仕事においてスポーツのように「調子の良しあしが仕事の結果を決定的に左右する」ほど極限の状態が訪れることがほとんどないともいえる。

逆に言えば、スポーツは「調子がよくないとできない」パフォーマンスが時にはある。それができずに思うような結果が残せないこともあるわけだが、パリ五輪のような大きな大会のパフォーマンスを切り取って見ただけの我々サラリーマンがスポーツ選手の不調をあれこれ批判している様子は実に滑稽だ。選手の方々には心より労いの言葉を送りたいものである。

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