『傲慢と善良』を読んで怒っている②
前回の記事では『傲慢と善良』がこれほどまでに私の心を抉った理由と向き合ってみた。
そこから後編を完成させるのに三ヶ月もの時間がかかったのは、私の筆不精と飽きっぽさのせいだけでなく、自分の中で消化し難い問題があったからだ。
『傲慢と善良』を読んで単に傷つくだけに留まらず、激しい怒りを感じたのはなぜなのか。
その理由が分からずに下書きを書いては消してを繰り返したがもうお手上げ、なにか糸口が見つかればと他の方の感想やレビューを拝読することにした。
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インターネット上で見かけたよくある感想を主観だけで乱暴に分類すれば、以下のようなタイプがあるようだった。分かりやすさのために誇張した例文と率直な感想ともに記述していく。
①一度も「真実」だったことがない方々
例文に悪意が滲んでしまっていたら申し訳ないが、実際こうしたレビューは少なくなかった。これは私にとって最も新鮮な読み方である。『傲慢と善良』はスカッとジャパン的な需要にも応えられるのか。「真実」側の人間を自負する自分からは心理的距離が遠すぎるため、こうしたレビューには「素敵な性格にお生まれになってよかったですね~」くらいの感想しか言うことができない。よかったですね無傷で読了できて……。
②かつて「真実」だったが、今は「真実」を乗り越えた方々
このように過去の自分を重ねている方も結構いらっしゃった。「真実」のなかにかつての自分を見出し、懐古するかたちの穏やかな物腰のものが多かったが、中には自己批判なのか厳しく「真実」の未熟さに言及するレビューも見られた。いずれにせよこれらはもうすでに「真実」のフェーズを抜けた方々である。良し悪しの判断は保留するとしても、人間がこれほど変わることができる生きものだということはある種の希望かもしれない。
③現在「真実」であり、かつ自己変革を誓っている方々
「真実」をとりまく描写諸々に刺された……ところまでは私と同じだが、決定的に違うのがそこからの脱却を目指そうと決意している点だ。
なかには「この小説を読んでマッチングアプリを入れました」「早めに婚活を始めました」みたいな人まで見受けられた。エッ、小説としてもあんなに面白かったのに、自己啓発本にもなるんですか!?
──おそらく私の『引っかかり』を明かすには、この層を深堀りすることが鍵になるような気がする。
『傲慢と善良』を読んで傷ついたところまでは私も彼らと似たような過程を辿っていたはず。
しかし私は彼らほど素直には物語のメッセージを受け入れることができなかったのだ。では、それはどうしてだろう?
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受け入れ難さ、といえば真っ先に思い浮かぶのが同作の結末である。
『傲慢と善良』クライマックスにおいて、紆余曲折の末に「真実」は自分の愚かさと向き合い、婚約者に想いを打ち明け、最後はプロポーズに応じる。そしてそのまま二人だけの結婚式をあげる。
この結末を読んだとき私は、それまで時に擁護し、時に憎みながらも自分の分身として伴走してきたつもりの「真実」が、急に得体のしれない存在になったように感じた。
たしかに「真美」も婚約者の「架」もそれぞれ時間をかけて自分と相手を理解しようと奮闘している様子こそ描かれていたが、それはあくまで本人不在の自己内省や推測の域を出ていない。
だからこれからお互い傷つき合いながら近づいていけたらいいね、という展開かと思ったらなんと、プロポーズ即・承諾である。個人的にはそのスピード感にちょっとついていけなかった。
このあたりはきっと感覚の個人差も大きいのだろう。
実際、先の感想やレビューにおいては「色々あったけどちゃんと打ち明けてハッピーエンドになってよかった!」という受け取り方が多かった。
ただ私が疑問に思うのは、二人がそれぞれの想いを打ち明ける終盤のやり取りは果たして「対話」になっていたのかということである。
「実はあの時こう思っていたの……」と真意を打ち明けるのはもちろん勇気がいるし、もちろん重要なことではあるけれど、ただ一方的にぶつけるだけでは告白止まりになってしまうのでは?
ディスコミュニケーションから始まった二人の物語は、結局その範疇から脱却することができたのか──私はこの問いに最後まで自信を持って頷けず、しかしあくまで描写はハッピーエンドめいて幕が下ろされるところが個人的に置き去り感を感じる一因なのだと思う。
さらに身も蓋もないことを言えば、この物語の落としどころは本当に『結婚』でよいのだろうか?というのも個人的な争点である。
無論本作を婚活小説という枠組みで読めば、結末が結婚 or NOTになることは当然かもしれない。
しかし『傲慢と善良』は単なる現代婚活の様相を紹介するだけに留まらず、自意識と共同体、親子関係、地方、学歴、ルッキズムなど様々な要素を散りばめたうえで「結婚」という概念にまつわる感情の機微を生々しいまでに浮き彫りにし、それを再度問い直すポテンシャルを持っている作品だったように思う。
だからこそ終盤で「真実」や「架」の心のベールが剥がされたとき、裸で向き合った彼らにこれからどんな(未知の)ケミストリーが起こるのだろう……と最高潮にわくわくした。しかしそれが結局、所謂従来型の愛の形に着地することが、少し残念に思えた。
別に結婚すること自体が問題なのではない。どうして結婚したいのか、そのひとと家庭を築きたいと思うのか、問い直したうえでそれでも結婚を選ぶのなら、その葛藤の時間を含めて大きな意味を持つ選択だろう。
しかし作品内では「結婚できない理由」に終始する問答が多く、結局根底の価値観に言及することは少なかった。
するとこの結末は単に、「結婚」を未熟な自分からの脱却の象徴として位置づけることになってしまわないか?
少なくとも婚活という題材との呼応が綺麗すぎることも相まって、「ハッピーエンド感」が強く出てしまう。結婚はゴールではなく重要なのはそこまでの過程とそれからの未来なのに(そしてそのことは作中でもかなり強調して描かれているのに)も関わらず、だ。
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──これらを総括すれば、私が『傲慢と善良』を受け入れ難く感じる理由もまた、私の傲慢さにあるのだろう。
作品に対して無意識のうちに「こうあってほしい」と求めるものが膨らんでいたこと、かつそれが主題から逸れていたことに最後のページまで気づかなかったのだ。前節で私が
……などと求めてきたものは、ドキュメンタリーやコミュニケーションハウツー本を漁った方がずっと手軽に見つかるはずである。
それなのに自分が作品に対して勝手に期待し、勝手に失望したことをこうして大声で騒ぎ立ててしまう私はひどく傲慢であり、そして善良でさえなかった。
作品に「刺された」傷を内省的に受け止め、自分を変えていく方向へ素直に舵を切ることができていたレビュー欄の方々(③)を見ていると、自分の邪悪さに嫌気がさしてくる。
しかしそれでも、『傲慢と善良』を読んで焦燥感からマッチングアプリを始めた、とか、自分の市場価値を見極めて身の程に合った相手を早く選ぼうと思った、なんて感想を目にするたびに、私はなんとなく悲しくなってしまうのだ。
誰にも迷惑をかけずにひっそりと隠していた自己矛盾を丸裸にされ、登場人物の言動を通してけちょんけちょんに否定されてもなお、自己研鑽という名の刃を自らに向けようとする彼ら/彼女らの善良さは、なんて健気なのだろう。
平成が生んだスーパー・ウルトラ・スプラッシュ・ひねくれ者の私にはきっと一生辿り着くことができない境地だ。
小説は仮想の物語を通して現実の可能性を広げていける力を持っている、と私は信じている。『傲慢と善良』ももちろん、そのポテンシャルを十二分に備えた作品だった。けれど読者にとってそれが現実を強迫的に押し付け、結果として現実(の選択肢や価値観の多様性)を矮小化させてしまうものだとしたら、やはりそれは今の私が読みたかった物語ではなかったのだろう。
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最後に重ねての記述になるが、作品に対してこれほど身勝手で的外れな要望が膨らんだのも、あらゆる議論の種となり得る要素が散りばめられた同作の重厚さによるものである。
その種の一部が思った通りに咲かなかったことを嘆くだけでは飽き足らず、合計一万字(!)近い長文を綴ってしまったことは自分でも恐ろしいが、これほどまでに読者の感情を揺さぶり、情熱を引き出す『傲慢と善良』という作品と辻村深月先生に心からの敬意を表し、乱文を結びたいと思う。
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【2024年1月17日 追記】
新鮮な感想を求めて『傲慢と善良』を友人に勧めて回っている。そのなかでひとりの友人が「『傲慢と善良』が都市出身者に刺さる理由がわからない、あれは地方の話じゃないのか?」と言っていたのが印象的だった。
友人は地方出身で、特有の空気感や人間関係の描写を高く評価していた。(そして、悲鳴をあげていた。)
これは私にはない視点だったので非常に興味深かった、たしかになぜ……?
軽く考えてみたところ、大都会ではないが都市に暮らしている自分の場合は、地元コミュニティと中学受験後のコミュニティが同作における地方⇔都市と似た役割を果たしている気がする。
受験で地元コミュニティを出てそれなりの偏差値の学校に入ると、所謂”進んでいる”考え方の友人に囲まれた。「多様なセクシュアリティを尊重するし、恋愛/結婚するもしないも自由。」そんな集団のなかにいるのはとても居心地がよかったが、その一方でそれなりに旧来的価値観の根強い地元コミュニティも知っている以上、どこか期限付きの夢を見ているような感覚があった。
だからこそ、あるときは成人式で、あるときは近所のスーパーで感じた”現実”を、『傲慢と善良』読書を通して再び見せつけられた気がしたのだ。
──これが私が(地方出身者ではないという点で「真実」とは異なっていたにもかかわらず)同作に刺された経緯だが、きっと地方出身者にはもっと違った視点からこの作品を読むことができるのだと思う。苦悶する友人には申し訳ないが、やっぱりもっといろいろなひとの感想が聞きたい!
個人的にでも、公にでも(?)、ぜひシェアしてください。
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