見出し画像

こまばアゴラ演出家コンクールを経て

昨日、こまばアゴラ演出家コンクールが終わった。結果は一次審査敗退であった。しかし、私にとってこのコンクールは自身の演劇観、現代で演劇を上演する際、演出家がどのような役割を果たすべきなのかを思索、再考する大変貴重な体験だった。だからフィードバックも兼ねて、私がどういったことを考え俳優とどのようなやりとりを経て上演に至ったかを記しておきたいと思う。

このコンクールの理念やシステムについては公式HPにこまばアゴラ劇場の公式HPに詳しく説明されているので割愛するが(http://www.komaba-agora.com/play/6144)
実際、予想していたよりもタイトなスケジュール、過酷な状況下で行われるものであった。一次審査の講評会で「参加者は、演出という仕事が凝縮された1日を過ごしたかと思います」と言う、劇場芸術総監督で審査員も務める平田オリザ氏の笑顔は、稽古によってやつれおとろえた私には福本伸行の漫画「賭博目次録カイジ」に出てくる黒幕、兵藤会長のそれを思わせた。他の演出家の上演や相対的な審査結果や講評については完全に納得できる結果とは言えないのだが、負けているのでそのあたりは心のうちに留めておくとして、主に私のチームの上演について書く。私の課題戯曲はヘンリック・イプセン作『ヘッダ・ガブラー』(訳:毛利三彌)の第一幕からの抜粋、抽選によって決められた俳優は天明留理子さん/吉田庸さん/石橋亜希子さんの三名であった。最終的には、仕掛けた演出が概ね効果的に働いて、表現が適しているかわからないが大変"ヒリヒリ"する上演となった。短い時間で優れた上演を体現してくれた俳優の方々の能力に驚嘆しつつ、感謝したい。

|ヘッダは「悪女」か?
まずは、稽古で仕掛けた演出の詳細を記す前に『ヘッダ・ガブラー』という戯曲を私がどう読んだか、について論じる。課題戯曲が発表された時点で私は、原千代海氏と毛利三彌氏、二人の訳者が翻訳した『ヘッダ・ガブラー』を読んだ。(原千代海訳の表記は『ヘッダ・ガーブレル』)どちらも優れた翻訳で全セリフに込められた意図や細かいニュアンスまで熟考されており全く異なる戯曲/シーンとまではいかないものの、全く異なるダイアローグになっている箇所が多く見られた。例えば、第二幕でかつて"同志"だったヘッダと久しく再会したレェーヴボルグが、当時の自分への思いを確かめようとするシーン。レェーヴボルグは、興奮した様子で当時のヘッダの感情を夢想する。そのセリフ、原千代海訳では
『ああ、ヘッダ!ヘッダ・ガーブレル!やっとわかったぞ、あの付き合いの背後にかくれていたものが何だったのか!君と僕は──!つまりあれは、君の渇きだったんだ、生命への──』
毛利三彌訳では
『ああ、ヘッダ!ヘッダ・ガブラー!やっとあの絆の底に隠されていたものがわかった!君とおれは──!あれはやはり、君の命の要求だったんだ──』とされている。この二つの言い回しでは、全く印象が異なる。「付き合いの背後」「君の生命への渇き」という言い回しは、自分に向けられたはずのヘッダの欲望の存在を肯定する、レェーヴボルグの虚しくて傲慢な夢想という印象が強い。しかし後者の「絆の底」「命の要求」という翻訳はレェーヴボルグの、ヘッダとの関係に対する不満、それも現在のヘッダとの関係も含めたある種の切実さのような感情が垣間見える。このニュアンスの違いは、些細なことに思えるかもしれないが、もし上演でリアリズムを立ち上げることを目的とした場合、俳優の演じ方や演出の手つきが全く変わってしまう。特殊な演出であったとしてもその影響は大きいだろう。海外戯曲を上演する場合、「どの翻訳を使用するか」は演出家にとって非常に重要な選択になることがわかる。私は、コンクール当日まで訳者が伏せられているという条件によって「二つの訳を照らし合わせながら読み進めていく」という作業を余儀なくされたのだが、その作業は意図せず『ヘッダ・ガブラー』を演出する際の大きなヒントになった。二人の訳者が描こうとしたそれぞれのヘッダが、イプセンが原典で描こうとしたヘッダの心理を浮かび上がらせたのだ。──もっとも、原典を読めばより深く理解できるのだろうが、私には語学力がない。ただの弱点である──浮かび上がってきた心理は、一般に「傲慢で高貴な悪女」とされているヘッダの人格の裏に潜む、「特有の意識」と「極めて小市民的な意識」の混合によって形成された複雑な心理だった。

1.
そもそもヘッダはなぜ、ブラック判事との三角関係を求めたりレェーヴボルグの原稿を焼いたりと、半ば狂気じみた大胆な行動に出られるのか。それは、ヘッダが悪い女だからだろうか。悪い女とはなんだろう。私たちが一般的な感覚で想像する悪女には「罪の意識」が存在する。メロドラマ的悪女ともいうべき悪女はそれが罪だとわかっていながら、男をたぶらかしたり嫉妬に狂ったりライバルに嫌がらせしたりする。中島みゆきの「悪女」という曲の歌詞にも『悪女になるなら 月夜はおよしよ 素直になりすぎる』とあるくらいで、つまりはワルさするなら素直になるなといった、罪の意識が存在するのである。乱暴に罪悪感、背徳感とも言えるかもしれない。メロドラマの観客は、悪女が己の情念のままにしたたかで背徳的な行動をとるのを、ある種の憧れと快感を抱きながら傍観する。しかし、『ヘッダ・ガブラー』において着目すべきは、ヘッダ特有の「罪の意識のなさ」である。ヘッダには悪女が持つべき「罪の意識」がない。自分の取った行動には一度も悪びれたり反省したりしないし、そもそも行為の明確な動機すら描かれないのである。ある論文によると1890年、『ヘッダ・ガブラー』が出版された翌日から出はじめたノルウェーの新聞批評のほどんどは、理解不能な人物を主人公とする作品を非難したという。その、ヘッダの「罪の意識のなさ」が露呈しているシーンは例えば、第四幕でブラック判事がテスマン、ヘッダ、エルヴステードにレェーヴボルグのピストル自殺──厳密には自殺だったのか明記されてはいない──を伝えたシーンだろう。事件の報に皆が愕然とする中、ヘッダは一人、歓天喜地の境地に達する。レェーヴボルグにピストルを渡した張本人であるにも関わらずである。この、戯曲全体を通して見られる通常の倫理観では理解しがたいヘッダの「罪の意識のなさ」については、先にあげた訳者毛利三彌氏の著書「イプセンのリアリズム」にて論じられている。

ヘッダという人物を特殊たらしめている一つの要素は、彼女に罪の意識が完全に欠如していることであろう。イプセン・リアリズム劇でこれはまったくの例外である。イプセンはこれまで罪の意識からの解放を中心主題としてきた。『ヘッダ・ガブラー』のあとも、同じテーマはくり返される。これらの主人公たちの<罪意識>とは、過去に縛られるいわば<過去意識>と言ったものだが、劇は彼らが、過去の結果としての現在から、いかに自己を解き放つかをみせるものである。ヘッダに罪の意識がないのは、現在を縛る過去の意識がないからである。ヘッダの劇中の行為が偶然に成り立ってゆくのも、彼女に過去意識が希薄だからだろう。[ 中略 ]土井健郎は、ニーチェがキリスト教の神は死んだと宣告したのではなく、殺されたと叫ばせていることを指摘しながら、<神喪失>が、フロイトの言う<父殺害>と無縁ではないだろうと推測する。普通に言われるように、神が死ねばもはや罪はない。何ごとも許される。神なき(父なき)社会に罪の意識が消えるのは当然である。おそらく神が殺されたとすれば、殺した本人は名状し難い罪の意識に悩むかもしれない。しかしそれは神のもとでの罪意識とは異なったものに違いない。『ヘッダ・ガブラー』のあとの作品における<罪の意識>はまさしく神殺害の意識である。『ヘッダ・ガブラー』の奥部屋から劇の一部始終を眺めているガブラー将軍の肖像もここに求められよう。

なるほどヘッダの罪の意識のなさは、確かに過去(父)の喪失によって裏付けられているように見える。イプセンは、この戯曲の草稿『ヘッダ』から清書して『ヘッダ・ガブラー』を書き上げた。ガブラーの表記を付け足したのは、テスマンの妻としてではなく、ガブラー将軍の娘としてのヘッダという意味合いを持たせたかったからだという。つまり、ヘッダともっとも深く関係している人物はテスマンではなくレェーヴボルグでもない、背後の父ガブラー将軍なのである。というよりヘッダにとっての身内はガブラー将軍、ただ一人なのである。そしてガブラー将軍がいないヘッダには、神なき社会の住人同様、罪もへったくれもない。それに加えて自らが言うように死ぬほど退屈し、人生の目的を欠如しているとなれば感情に任せた大胆な行動の裏付けや嫉妬、倫理観の欠如した言動の背景としては十分なソースになりうるだろう。することがない子どものようである。しかし、いぜん矛盾は残る。罪の意識がなければ、なぜ執拗にスキャンダルを恐れるのか。子どもはスキャンダルなど気にしない。所構わず泣き叫び、そんなものとは無縁ではないか。

2.
ヘッダが「罪の意識」を持たない人物であれば、なぜ執拗にスキャンダルを恐れるのか。なぜ昔、レェーヴボルグを撃ち殺すことができなかったのか。この矛盾はヘッダの極めて小市民的なある意識に起因している。「恥の意識」だ。繰り返しになるが、ヘッダがもっとも深く関係している人物は父、ガブラー将軍である。亡きガブラー将軍は娘に「罪のなさの意識」という特殊な意識を生み出したが、同時に「恥の意識」という副産物も生み出した。ヘッダは恥ずかしいのだ。何が恥ずかしいか。それは、世間から見た、自分自身に残る「ガブラー将軍の娘」を失うことが、である。──後の創作内のフィードバックで詳しく論ずるが、この「恥の意識」の対象については私自身が戯曲を読解している段階で見出したものではなく、コンクールの稽古内で俳優の演技を見て導き出されたものであることを断っておく──ヘッダには終始、ガブラー将軍の娘として思い描く理想に対する自意識がつきまとう。ヘッダからすれば、ガブラー将軍の娘は名誉のある女でスキャンダルなどとは無縁だし、当然酔いどれのレェーヴボルグとは恋仲にならない。大学教授への道が内定しているテスマンと結婚するし、反面、滑稽で退屈なテスマンを決して愛さない。ガブラー将軍の娘ともあろう者は、ブラック判事との危険な三角関係を欲するべきなのだ。そして、ヘッダは実際にそれらを遂行する。「罪のなさの意識」と「恥の意識」によって危ない橋を、名誉を汚すスキャンダルを華麗に躱しながら渡りきる。二つの意識の働きによって概ね「ガブラー将軍の娘」という条件をクリアしていたヘッダだが、皮肉なことに「恥の意識」は、彼女を破滅へと誘うトリガーとなった。「恥の意識」が生み出したのはヘッダの「孤独」と「臆病」である。唯一の寄る辺を失ったヘッダにはそもそも身内がない。テスマン嬢はもちろん、夫であるテスマンの『もう君も家族の一員なんだし』という呼びかけにも『ふん、そうかしら』と返す始末である。この発言は「テスマン家に取り込まれることでガブラー将軍の娘が失われることへの恥の意識」から出たものに他ならない。それに加え、ヘッダには新しく身内を持つ勇気もない。“エルヴステード夫人のように"夫を捨てて愛する人の元へ走ることも、妊娠して子を産むことでテスマン家の一員になることもできなかった。これもガブラー将軍の娘を失いたくないが故である。段落の冒頭で「罪の意識のなさ」と「スキャンダルへの恐れ」の矛盾の例をあえて「なぜ昔、レェーヴボルグを撃ち殺すことができなかったのか。」としたが、実際は銃で人を撃つことによるスキャンダルを恐れた「恥の意識」よりもレェーヴボルグの思いを受け入れることができなかったこと、つまり、身内を作ることに対する「恥の意識」の方が強かったことはヘッダ自身が「あなたを射ち殺さなかったことが──あれがわたしのいちばんの臆病なことじゃなかった──あの晩の。」と語っていることからも明白だろう。二つの意識の働きを踏まえれば、ノルウェーの新聞批評が避難したヘッダの不可解に思える行動様式の輪郭がはっきりとしてくる。ヘッダは、積極的に「ガブラー将軍の娘」という名誉を勝ち取ろうとしたり気品を高くしようと行動するのではなく「恥の意識」によって消極的に「ガブラー将軍の娘」という名誉を失わないように行動するのだ。

3.
1.2で論じたようなヘッダの心理が存在すると仮定し、メロドラマ的悪女の定義を「罪の意識」に置くとすれば、『ヘッダは「悪女」か?』という命題に偽という結論を出すことは容易だろう。この時点で私は、ヘッダをメロドラマ的悪女として演出する方針を排除した。ヘッダが名誉を失わないようにあるいは、恥をかかないようにしている以上、それらの消極的な心理に沿って「原稿を焼く」「ピストルを渡す」といった一見、大胆に見える行為がアウトプットされることになんら疑問を感じなくなったからだ。この解釈は、私の上演の明確なテーゼとなった。それはこの「恥の意識」が日本人には大変馴染みのある感覚であったからだ。海外古典戯曲を──日本で、日本語で、日本人が──上演するにあたって、これ以上適した材料はない。そんな確信めいた感覚を持って、コンクール当日を迎える。

|創作の流れ
上演審査当日の朝、翻訳者と上演する抜粋箇所の発表がなされた。訳者が毛利三彌氏であるとの発表があった。その後、抜粋箇所が第一幕、テスマン邸にエルヴステード夫人が初めて訪ねてくるあたりのシーンであると明かされた。正直なところ、私は大変困惑した。このシーンのダイアローグの主におかれているのはヘッダとエルヴステード夫人の関係の提示と、後に登場するレェーヴボルグに関する情報の開示であったからだ。ヘッダの深層心理「恥の意識」を手掛かりに上演を立ち上げようとしていた私は戯曲に、ヘッダの「恥の意識」に関する直接的なセリフがほとんどないこと、ヘッダがメロドラマ的悪女という──最も避けるべき──イメージが観客に定着しやすい会話であることに頭を抱えた。イプセン会話劇の醍醐味のようなシーンで、ただ動きをつけてリアリズムを現前させれば、誤解を恐れずにいうとなんの苦労もなく面白くできるシーンである。しかし、私はどうしてもヘッダのメロドラマ的悪女っぷりを顕示するような上演がいまここで求められているとも思わず、またそのような上演に価値があるとも思わなかった。

1.
まずは俳優とのコミュニケーションから創作を始めた。5時間半という稽古時間でどう作っていくか悩んだが私はまず「恥の意識」に関する見解を共有することにした。上記の戯曲解釈を手短に伝えた後、「この20分間は徹底してヘッダが恥ずかしがるっていう時間にしましょう」と演出の方針を伝えた。そして、セリフは一旦置いておいて「恥ずかしがる」という行為について試してみる。客席を「世間」と設定し、ヘッダ演じる天明さんに「人生に退屈して椅子にだらっと座っていたら、明転します。すると世間から見られていることに気がついて、ヘッダ・ガブラーとしての気品を取り戻してください」という指示を出した。さすがは天下の青年団の俳優というべきか、スムーズに意図を理解して、はっきりとアウトプットしてくれた。俳優の演出に対する適応能力の高さに驚愕する。頭で思い描いていたヘッダが実体を持って現れる。当然のことだが、俳優が目の前で演出家のイメージを具現化してくれると、演出のインスピレーションが明確に湧いてくる。すぐに次の指示を出す。「第三幕でレェーヴボルグがヘッダに促されてお酒を飲んでしまいましたが、ヘッダは執拗にぶどうの葉っぱを髪にかざして帰ってくると豪語します。けど、結局帰ってこないんですよね。ヘッダが帰りを待ってる間、どこかでレェーヴボルグが酔いつぶれてる。それに対して、ヘッダが恥じるのとか、可能ですか」みたいなあいまいな指示だったと思う。吉田さんに酩酊したレェーヴボルグの身体を演じてもらい、もう一度天明さんの演技を見る。しかし、今度はうまくいかなかった。本人もやりにくさを訴えてくれて、なぜやりにくいかを話し合いながら検討する。天明さん曰く「恥ずかしいよりも、帰ってくるという予想が外れて悔しいという感じがある。それと、何に対して恥ずかしいのかいまいち掴みきれない」とのことだった。この俳優の疑問がヘッダの「恥の意識」の対象を明確にした。「恥の意識」は自己の問題であったことが判明したのだ。なるほど「悔しい」という感情でもう一度同じことをしてみると自己の発言に対する自己の感情だから、うまくいく。ここでのヘッダは、世間の目に対して「恥の意識」を持っているのではなく「人間の運命を左右できなかった」自己への「恥の意識」を持っているのである。この時点で、客席を「世間」ではなく「理想のヘッダの姿が映し出される鏡」と設定しなおした。それからもう一度「恥ずかしい」という感情でやってみると見事にヘッダの「恥の意識」が体現された。このシーンは上演で使用することを決めた。第三幕から着想を得たしかけであることがわかるよう、レェーヴボルグは酔いつぶれて倒れこむたびに原稿を落とすという演出をつけたあたりで──この演出は俳優の身体に落とし込む時間がなくて残念ながら上演されなかったのだが──稽古場の移動時間であることを知らされる。※各演出家は抽選で決められた7箇所の稽古場をローテーションして稽古を進めていくというシステムだった。

2.
次の稽古場は早くも、実際に上演するこまばアゴラ劇場のホールだった。私は、上演のアイデアとして用意していた椅子取りゲームの演出を試すことにした。ゲームのルールの設定は以下の通りである。舞台上に椅子が10脚ある。1脚にはヘッダが座っていて、あとの9脚は横に倒れた状態でバラバラに置いてある。ブラック判事とレェーヴボルグが、舞台上の椅子の状態が見えないように壁に手をつけ、背面を向けて立っている。また、便宜上はあくまで抜粋箇所の役によってシーンの時間が流れていることを示すためにセリフの応酬は続ける。──つまりこの間、ヘッダ以外の俳優、石橋さんと吉田さんは身体と声でそれぞれ演じている役が異なる。身体はブラック判事とレェーヴボルグ、声はエルヴステード夫人とテスマンをそれぞれ演じている──ヘッダが立ち上がり、倒れている椅子の中から一つを選び、立てる。どの椅子を立てたかは二人にはわからない。ヘッダが椅子に戻り、ピストルを思わせるセリフが発語された際に箱馬と箱馬をぶつけ、銃声のような音を立てる。それをきっかけに背後を向いていた二人が振り返り、一つの立っている椅子の座を奪い合う。座ることができた者は一時的にヘッダと見つめ合うこと(関係すること)が許される。というのを3度繰り返した。この演出には、
①ヘッダが「恥の意識」から大胆な消極的行動に出ることを示す。
②2人の男がヘッダの隣を狙っているという戯曲の構造を示す。
③第四幕のヘッダの死を予期させる。
という狙いがあった。それぞれの詳細はこうだ。
①ヘッダの大胆な消極的行動を表現するために、天明さんは客席(理想のヘッダ)と他の二人を交互に監視しながら椅子をゆっくりと立てる。このゲームは──戯曲もそういう形をとっているのだが──構造上、実質ヘッダが場を支配しているように見えるが、そうではない。あくまで「ガブラー将軍の娘ならこうするはずよ」とも言わんばかりに自分と周りを気にしながら己の隣の席を奪い合わせるのだ。家族構造、男性構造に支配されているのはヘッダの方である。その中での“大胆な消極的行動”(「原稿を焼く」「ピストルを渡す」)を「椅子を立てる」という行為に置き換えて示した。
②第二幕で、ブラック判事とヘッダは、汽車のたとえ話をする。
ヘッダ「ああ──汽車の客室にたった二人で座っているなんて──!」
ブラック「しかし、幸いにして旅はもう終わり──」
ヘッダ「(頭をふる)続くわ。まだまだ長く。ただ途中の駅についたというだけ──」
ブラック「じゃあ、ヘッダさん、ちょっと外に出て、手足を伸ばすことくらい出来るでしょう。」
ヘッダ「私は絶対に外へ出ません。」
ブラック「ほんとうに?」
ヘッダ「ええ、だって、決まってそこにはだれかがいて──」
ブラック「(笑いながら)足元から見上げている?」
ヘッダ「そう。」
ブラック「しかし、いったい──」
ヘッダ「(手を振って拒み)嫌なの。──そんなくらいなら座ってたほうがまし──いったん座ってしまった席に。たった二人きりでも。」
ブラック「まあ、しかしそれなら、第三の男が乗ってきて席に加わりますよ。」
ヘッダ「ああ、そう──それなら話は別!」
この会話から着想を得て、この椅子取りゲームの構造を組み立てた。もはや別の車両に行ってしまっていると言ってよいほど、ヘッダとの関係性が薄れているテスマンは、はけ裏に駐在してもらうことにして舞台上ではヘッダの乗る汽車でヘッダの隣の一席を二人の男が奪い合うというわけである。
③ヘッダの死は、どの抜粋箇所を上演することになっても示唆しなければならないと思っていた。それは、彼女の「恥の意識」が生み出した最大の消極的行動、そしてヘッダ自身の「恥の意識」に対する回答であったからだ。私はそれを3度目のゲームで示すことにした。己の隣の席を一つも用意せずにピストル(箱馬)を撃ち、孤独を選択して自らの席も倒してしまうという演出をとった。紛れもなく、ヘッダの自害をモチーフにした演出だが、この演出は稽古中に偶然天明さんが椅子を立てるのを忘れて
箱馬を鳴らしてしまい、振り返った2人が「座る椅子が、ない……!」と前につんのめるような形になったのを見て、思いついた、というか採用した。私はこういう、段取りのミスで起こる、演じるとか遂行するというところから外れた俳優の姿が垣間見える空気感が好きである。その辺りまで決まった段階で、稽古場の移動時間になった。

3.
次は、映画美学校のスタジオでの稽古だった。そろそろ、抜粋箇所のセリフを使った稽古をしなければならない。まずは、はけ裏に駐在しているテスマンと舞台上のヘッダの会話を立ち上げることにした。この演劇は「ヘッダが恥ずかしがる」という演劇なので、テスマン演じる吉田さんに「一緒にいて恥ずかしいおじさんでやってください」と指示した。吉田さんは、驚くべき一緒にいたくなさで演技してくれた。調子に乗ってもっといけると思い、さらに一緒にいたくなさを増幅させるためテスマンの口癖である「うん?」と「どうだい?」だけで一分くらいヘッダに呼びかけてもらうことにした。「うん↓?どうだい↑?どうだい↑?うん↓?うん↓?うん↓??どうだい↑」といった具合に恐るべきウザさの一分間が立ち上がる。舞台上のヘッダは、テスマンの妻として恥ずかしくて仕方がなかったに違いない。このシーンに味をしめた私は、抜粋箇所のテキストレジを始めた。テキストレジを行う際の指標は「登場人物の関係性を深めていくためのセリフは全てカットする」というものであった。抜粋箇所のドラマというよりも戯曲全体の私の解釈、つまり、ヘッダの深層心理を上演したかったので、いちいち会話で関係性を説明していく必要はなかった。また、この戯曲の知名度を信用して、登場人物の関係性はすでに観客に周知されているという前提で上演を行うべきだとも考えた。カットすると、状況を説明するためのセリフだけが残った。そこで、レェーヴボルグが立ち直ったという説明の最中にレェーヴボルグが酩酊していたり、エルヴステードが狼狽しているセリフの最中にエルヴステードが勇ましく夫から逃げてきたりと、状況を説明するセリフと舞台上で起こっていることの時間のズレを立ち上げていく。そうすれば、こうなるはずなのに実際はこうなった、こうしたいのにできなかった、などのヘッダの「恥の源」が舞台上に現れる。天明さんはそれを材料に恥じればよい。このような手口で石橋さんと吉田さんにはヘッダの「恥の意識」を最大限にまで引き出すことに従事していただいた。他にも無数の細かな指示があったのだが、書ききれないので割愛させていただく。稽古中にメモ書きしていたものを羅列しておくので上演をご覧になった方は想像でこういう意味だったのかな、と想像していただくか、意味の分からなかった部分があれば直接ご連絡いただければ答えようと思っている。

愛想笑い/できたら叔母さんと呼んでくれないかな→身内/どこか悪いの?→妊娠を示唆/エルヴステードはハイヒールを履いている/椅子(レェーヴボルグ)が倒れているのを起こすエルヴステード/エルヴステードが立てた椅子をまた倒すレェーヴボルグ/レェーヴボルグを隠すヘッダ/レェーヴボルグ=ヘッダの自己の恥/死体を隠す/エルヴステードがヘッダの汽車に自分の椅子を持って入ってくる/エルヴステードの勇気に対する驚き、嫉妬、軽蔑、自分ができないことへの恥の意識/エルヴステードを隠す/エルヴステードもレェーヴボルグもそれぞれが人生を全うして自由に生きており、それができない自分を隠す/死体を隠す/恥を隠す/人間の運命を左右したいから椅子を立てる/椅子の時の目線は互いに。ヘッダのみ、客席(理想の自分)への意識/散乱し、倒れた椅子が木の葉を想像させる。枯れ木→死を想像できれば

|上演を経て
そうして、5時間半の稽古が終わった。全ての段取りも付け終わり、2度通した。テキストレジによって組み替えられたセリフが、俳優間で整理しきれていないところはあったが、概ね満足のいく稽古だった。上演順は2番だった。冒頭でも述べたが、上演を見て、私は大変"ヒリヒリ"した。なんていうか、言い知れぬ、やばい空気が流れたのである。そして、そこには上演によって立ち上がったヘッダのある心理が確実にあった、少なくとも私には感じられた。それは完全に狙い通りの『ヘッダが大胆な行動をとる根拠が「恥」であること』を示すものであった。人間の心理に動かされる天明さんを見て具合が悪くなりそうだった。成功したと思う。審査員には、観客にそれらを伝える手立てがもう少しあればよかったという意見(岩井秀人さん)と、言ってしまえば中途半端だからもっと多義性を持たせた方がよいとの意見(平田オリザさん)をいただいた。今後の参考にしたい。また、古典戯曲をほぼ初めて上演したことで演出家として筆舌に尽くし難い、さまざまな大変重要なことを学んだ。最後になるが、コンクールの運営委員の方々、審査員の方々、ご覧いただいた支援会員の方々、他の演出家の方々、そして何よりチームで一緒に創作をしてくれた天明留理子さん、吉田庸さん、石橋亜希子さんに心よりお礼を申し上げたい。

参考文献

原千代海
『ヘッダ・ガーブレル』岩波文庫
『イプセン 作品と生涯』
毛利三彌
『イプセン戯曲選集』東海大学出版会
『イプセンのリアリズム〜中期問題劇の研究〜』白風社

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
note.user.nickname || note.user.urlname

❤︎スキを押したら10分の1の確率でぼくのかんがえたロマンチックな愛の言葉がでますので好きな人に伝えてください(それ以外はぼくの好きなコンビニ飯がでます) ●いただいたお金はぼくの生活費になります。生活が潤うと創作がよりよくなります、これは本当です。

どん兵衛・緑のベーシックのやつ(育ての親)
7
1995年、冬生まれ。演劇作家・映像作家。京都在住。劇団/アーティストグループ『安住の地』に所属してます。       安住の地HP↪︎http://anju-nochi.com/
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。