〈天使と煙草〉

 夕焼けの空の上。電柱の上に屈み、背中の白い翼を広げる青年がいた。その下の通行人は、誰もその姿に気がつかない。人間ではないものを除いては。
「おい」
 呼び掛けの声を聞いて、青年は下を見下ろす。黒い人影を見つけ、笑って電柱を飛び降りた。コンバースをはいた足が、音もなく着地する。
「どくろさんこんばんは」
「まだ夜じゃない」
「もうほとんど夜だよ。ほら、日が沈みそう」
 青年は沈みかけの太陽へ視線をやる。白い肌も、白い髪も、白い服も、白い翼も、彼のどれもを茜色に染め上げる。ただひとつ、空色の瞳だけが他の色を受け入れない。その双眸は黒い男へと向けられる。
「いつもの?」
「早くしろ」
「はあい」
 胸ポケットから、青年は小箱を取り出す。それを手渡された男は、早速その箱から煙草を取り出して咥えた。その煙草に青年が火をつける。
 青年にどくろと呼ばれたその男は、青白い顔で煙を吐いた。光沢のない髪は、葬式の正装と言うべき服装に合わせて撫で付けられている。疲れたような覇気のない表情をしていながら、切れ長の目付きだけは鋭い。その顔の全てが、闇が深まるのと共に消え失せた。
「終わりか」
 肉も皮も無くなった、どくろだけがそこにある。彼は煙草を握り潰して捨てた。青年はそれを拾い上げて、小さな袋へ入れる。
「ポイ捨てはいけません」
「お前が拾うからいいだろ」
「じゃあ直接渡してよ」
「ほら」
 どくろは煙草の箱を青年に渡した。青年はそれを見つめ、ポケットへとしまう。
「大変だね、死神って。自分のものを何も持てないなんて」
「所持欲は人間特有のものなんじゃないのか。でもまあ、もはや何の意味もないのにそいつを吸いたくなるのは、俺が人間だったからなんだろうな」
「なんだか、それも大変」
「天使様には何も分からないだろうよ」
 青年はムッとして、しまった煙草を取り出して咥え、自分で火をつけた。そのまま固まってしまった青年を、どくろはしばらく何も言わず眺めた。
「……吸わないのか」
 言われてやっと青年は小さく煙草を吸う。煙草を手に持ってわずかな煙を吐く。
「……うん……わかんないや」
「一本無駄にしやがって」
「ごめんね」
 煙草を片付けて、青年はどくろを見た。街灯に照らされたその頭蓋骨に両手を添える。
「きれいだなあ」
「ただの骨だ」
「だからいいんだよ。皮も肉もないあなたそのものだ」
 添えられた手を払い、どくろが歩き出す。青年はその後を追うことはない。これからが彼の仕事なのだと知っている。
 両の手に残る骨の冷たさを見つめる。その手のひらを合わせる。
 人間を愛した天使は、その成れの果てまで愛していた。

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