『思考の整理学』を寝かせたので読む

きっかけ

大学の頃(もう8年ほど前だが)に買って「わかるなあ」と思いながら読むだけ読んでいた『思考の整理学』だが、去る7月30日に著者の外山滋比古氏が亡くなった。
「未だ存命だった」ことにも驚きつつ、訃報を受けてものの考え方・捉え方の指針の1つを与えてくれた先生に感謝の念をもって、読み直すことにした。
出版は1986年。今から34年前の著作である。1980年はもう40年前だという事実は、人によっては大きな衝撃であろうか。
30年も時間が経てば、社会は変わる。科学は進む。技術は進化する。
そうした中で『思考の整理学』がロングセラーたり得たのは「知的生産」を抽象化し、著者本人の経験や体験を合わせてシンプルに記述されているからであろう。
本稿は読書感想文みたいなもので、2020年を生きる自分が、34年前の知の巨人に挑んだ記録だと思ってくれればよい。
改めて読んでみると、当時は読み流して理解した気になった部分を納得できる形で消化できる部分があった。
最近は「エンジニアの知的生産」めいた本も多く出版されるようになり、私も読むが、この本の著者は人文学の研究者なので、バックグラウンドの異なる人たちの思考の方法がどのように異なるのかも楽しみながら読んでいた。
実際のところ、方法論としては共通点も多いようだ。
底本はちくま文庫。
以降の章立てはそれに準拠している。基本感想文なので適宜引用・参照はしている。

「グライダー」
 「独学で知識を得る方法を知らないまま教育を修めた人」を「グライダー人間」と呼んでいる。この本は「自ら考え、知識を獲得できる人」としての「飛行機人間」になるための本で、1986年当時から筆者はコンピューターという「グライダー」の存在を脅威として捉えている。
 「新しいことをするためには学校に通おう」という学校信仰は、2020年においても存在する。当時と比べて学校は多角化し、例えばオンラインサロンやセミナーという形になっているが、本質的に「グライダー人間訓練所」の様相を呈しているように、私には世の中が見えている。
 以下の記事を過去に書いたが、書いた当時はあまり意識していなかったが、おそらくは「グライダー」どまりの人たちに呆れていたのだと思う。

「不幸な逆説」
 職人や道場での指導方針を例に、現代教育「無条件に教える受身な姿勢」と「あえて教えず、本人の好奇心を掻き立てる」ことの対比である。
 社会の変革で、「はじめのうちは教えるべきことを教えない」ような、古い職人や道場の指導方針は「好ましくないもの」という価値観が醸成されつつある。これからこの本を読む人によっては嫌悪感を抱くかも知れない。
 だが、この説の本質は「自発的に学ぶ」意識をいかに醸成するかという点にあると、私は考える。
 その点においては現代でも多くの取り組みがある。いわゆる「アクティブラーニング」も、知的好奇心や自発性を刺激する試みという点では、著者の主張に近い結果を得ようとする学習指針であろう。
 「受身教育」がある側面で望ましい在り方ではない(グライダー人間を養成する手段にすぎない)という課題感は変わらないようだ。
 
「朝飯前」
 習慣づけに関する記述だが、こればかりは人による部分もある。
 だが、夜にやったことを朝見直したり、昨夜わからなかったことを朝見直すと解けるようになる、というような経験はあるので、そういう意味では同意できる部分は少なくない。

「醗酵」
 「卒論で何を書けばいいかわからない」という学生は多くいた。先輩にも同期にも部下にもいた。もはや風物詩と言ってもいいんだろうな。
 研究におけるテーマ設定について、著者は文学研究を例に挙げている。ここは研究領域で、きっかけが異なるだろう。例えば自然科学では観測であったり、事象の幾何学的イメージであったりするかも知れない。データサイエンスであれば、得られた数値に対する違和感かも知れない。しかし、これらの目的の違いはあまり大きな問題ではない。
 上記で得られた「きっかけ」を起点にアイデアやヒントを得ることで、オリジナリティのあるテーマを設定できると述べている。ではアイデア・ヒントを「酵素」に喩えている。きっかけを「醗酵」させて、研究に昇華する。
 こうしたヒントは、研究対象とは関係ないところからもたらされると筆者は述べている。そして「寝かせる」ことで、成果が得られるということらしい。
 比喩的な表現で抽象的な思考の話なので、なんとも掴みどころのない印象があった。
 こういったことが「常にある」とは考えないほうが良いかも知れないが、特に専門性の高い職種――研究者やエンジニアなど――で最前線を走る人たちは、様々な事象に興味を向ける人たちが多いように、経験上感じる。
 これはおそらく「飛行機人間」だからなのだろう。あらゆる情報に好奇心を働かせているからこそ、とも言える。意外と章立ては独立していなかったのだなと、今さら思うわけだが。
「寝させる」
 様々な事象に興味を持ち、それらを組み合わせるだけでは、知的生産には結びつかない。あえて時間をおいて「寝させる」ということが重要らしい。
 湯川秀樹がノーベル賞を受賞するきっかけとなった中間子理論の構想は、(自伝『旅人』にも記述があったと思うが)眠りにつく間際に思いつき、それを枕元に書き留めたという。後述の「三上」とは中国の故事で「アイデアが思いつく場所は、馬の上、寝床、トイレである」という意味があるようだ。
 ここでは「寝る前に思いついたことはメモして朝検討する」ということを奨励している。「一晩寝ずに考えた」ということがあるようだが、著者は
大局を見失うような結果になりがちだと批判している。
 このあたりは心当たりがあって、現職での取引先はこの「一晩寝ずに考える」とか「寝かせずに考え続ける」といったことが行われている。努力する姿を見せる美徳かも知れないが、それによって出来上がるものは、見栄えがいいだけの、何を伝えたいのかわからないスライドであったりする。なまじ見栄えが良いので見過ごされがちだが「それで何を説得するつもりなのか」と思うようなスライドも少なくない。
 少なくとも著者の批判に限って言えば、現代でもある程度「あるある」なのかも知れない。
「カクテル」
 上記までで作りあげたテーマを「酒」という。問いを「醗酵」させた結果であるがゆえであろう。著者はこれを複数持つことを述べている。そうすることで、あるテーマがうまく「醗酵」できずとも、他の醗酵を待てば良い、ということである。
 修士の時代、私は「貧困」をテーマに研究していたが、貧困にばかり焦点を絞っていて、この本を読む余裕すらなかった。あの頃読んでいたら、多少は気も楽に研究ができていたのかも知れない。
 そうしたテーマに対して研究を進めると、先行研究に出会う。様々な説や実験結果が記述されている。それらを程よく参照することで独創性を生み出すのだという。まさに「カクテル」というわけだが、この部分は難解だ。
 言っていることは分かる。データサイエンス領域で言えば、単純な先行手法の批判と新手法の提案だけの論文は「カクテル」としては十分ではないという筋だろう。実際、人文学領域でも似たようなことがあり、著者がそういった研究を嘆いている。
 ではどうしたら旨いカクテルをつくれようか。「ここまでを読む」だけでは分からない。
「エディターシップ」
 この節では「小説家」と「編集者」が対比される。編纂ものを例にとり、1つ1つは平凡な作品でも、順序を考え編集をうまく行うことで、魅力のある作品に仕上がることもある、という例示がある。私にはあまりピンとこないたとえであったが、読み進めることによって意図は把握できる。
 つまるところ「発想とその順序」である。著者は前者を原稿、後者を編集と対応付ける。独立した小さなアイデアなどが前者で、それを組み合わせるときの具体的な構造(順序だったり積み上げ方だったり)が後者だということである。
 発想の組み合わせ、それを「エディターシップ」と呼んでいるようだ。
 発想というと、その場を瞬時に解決してしまうような、ただ1つのアイデアを絞り出す力のように思われるが、実際のところそうとも限らない。1つでは目を見張るものとは言えないアイデアでも、それを複数持ち、組み合わせることで大きな価値を生むこともどうやら少なくないらしい。
 その絶妙な組み合わせを見つけ出すのは、いわゆる「第二次的」な発想力なのだろう。
「触媒」
 触媒とは、化学反応を早めるために使われる物質を指す。比喩的にも、こうした役割を担う概念・存在を表現することも多い。ここでは詩や俳句そのものと、詩人・俳人を例に触媒の役割を説明している。この例での触媒は、詩人・俳人の「個性」らしい。
 俳句の例は非常にわかりやすく感じた。情景からくる心象を17文字で表現するわけだが、基本的に俳句は「これを見てこう思いました」と直接的に心理を言葉にしない。自然の風景や音、光の描写などを通して、作者の心情を「間接的に」表現する。
 こうした間接的な描写をうまく選び取る感性が「触媒」であるという。
 先の「編集者」も同様に取り上げられる。編集者個人が面白いと思う短編の順序もあろうが、それを抑えて、広く受け入れられるような順序を模索する。短編集が広く評価されるような順番を探し出す感性が「触媒」である。
 ここで繰り返し述べられていることは「主観的になることを抑える」ということにある。「没個性化」とも呼んでいる。詩や俳句という、作者の主観的な感情の表出のように思われる作品の創作においてもそうで、主観的な出発点をうまく自然や情景に結びつけることで、広く受け入れられる作品に仕上がる。研究においてはなおさらである。
 「主観」とは、例えば2つのアイデアがあったときに、それらを無理やり結びつけようという試みのように思われる。いわゆる「こじつけ」だが、これに自覚的になれる人・場面は多くはない。マーケティングにおいてはなおさらだ。「この2つのキーワードで無理やり売りに行こう」みたいなことはザラにある。失敗するわけだが。
「アナロジー」
 和訳すれば「類推」や「類比」と呼ばれる思考で、著者は「言葉には切れ目があるのに、並べることでひとつらなりのものとして意味を捉えられるのはなぜなのか」という言語学的な問いを、「慣性の法則」という物理学的な答えに似た構造だと着想し、類比している。
 知り合いにとても物事の理解が早い人がいて、その人はよくたとえ話で物事を説明する。アナロジーを組む能力に長けているのだと思う。私はある物事を理解しようとするときは、あくまでその物事の適用しうる範囲で理解しようとしてしまうが、すでに理解できている構造と類比することは、確かに理解のスピードは違うだろう。
 私はこの本ではなく、理解の早いその人の思考を真似ることで、難しいと感じたことに対してはアナロジーをもって理解できないか試みるようになった。
「セレンディピティ」
 2020年の今となっては比較的人口に膾炙した単語にも思われる。あるものをなくして、探しているときに、以前なくした別のものを見つけるアレである。
 ソナーの研究をしていたら、イルカのエコーロケーションを発見したという逸話からの導入で、セレンディピティを紹介している。心理的な側面でいうと、試験勉強中に何気なく見かけた哲学書を読みふけってしまう例を挙げている。
 修士の頃良くしてもらった博士の先輩は非常に優秀で、多くのアイデアを着想して、論文を書いていた。もちろんその全てが採用されるわけでは無いのだが、アウトプットの質・量が多く、どうしてそんなに引き出しがあるのかとずっと疑問だった。
 その人は研究以外の様々なノンフィクションを読んでいて、研究領域以外の話にも明るかった。どのように思考回路がつながっているかは分からないものの、おそらくあれがセレンディピティなのかも知れない。

「情報の"メタ"化」
 ここでの「メタ」とは情報の収集・要約による高次化を指す。「メタ哲学」とか「メタ認知」など、それそのものを高次化して考察する対象にするものとは近いが、ニュアンスが異なるように解釈している。
 「思考の整理」という意味では、様々な情報を抽象化して収集・整理することで、言語や具体的な事象として表現できない抽象度で保持することで、先に述べたような醗酵やセレンディピティを「待つ」のだという。
 必要に応じて、保持された情報を具体化(本では「第一次情報化」とも呼んでいる)したり、さらなる抽象化を行ったりできると、伝えるという目的にも有用であったりする。
「スクラップ」
 いわゆる「新聞の切り抜き」の話である。2020年ではあまり見られなくなったが、小学・中学校ではまだ行われているのだろうか。
 私は新聞というよりは、もっぱらWebのニュース記事を中心に読むことが多い。時事は基本的にTwitterで流れてくるニュース記事だ。
 すでに「切り抜き済み」といっても過言ではない。LikeしたりRTしたりすることで追って参照できるが、どちらも私の場合機能しないので、あまり意味はない。
 データサイエンス周りの情報を集める上でも、例えばarXivのアカウントをフォローしておくことで切り抜きが勝手に手元にやってくる、みたいなことはある。
 正直ここから移行のHow toは、インターネットの発達によって大きく変わってきているように思われる。うまく補完しながらインプットを進めよう。
「カード・ノート」
 調べ物についてのHow toである。1986年当時は「百科事典」だが、2020年であれば「ググる」あるいは百科事典を指すのであればWikipediaなどだろうか。
 手っ取り早く要領を得る、という意味であれば(出典元が怪しい場合もあるが)Wikipediaは有用だと思われる。記事によっては非常に詳細に書かれていることも多いため一概には言えないが、本格的に調べるならWikipediaで足りない場面も出てくるだろう。
 著者は「断片的に情報を集めるのではなく、系統的に集めることが重要だ」とする。こちらも現代においては比較的楽かも知れない。
 百科事典でも関連項目はあるが、ページを前後する必要がある。ブラウザであればクリック一つ。戻るときもクリックひとつだ。
 調べる時の情報収集に、著者は「カードとノート」を挙げている。カードに近いのはEvernoteかも知れない。別にOneNoteでもいいが。物理から電子になったことで、カードを多く取ることの弊害や、見出しを作る手間などは大きく減っている。カードっぽい、というのであれば、Google Keepなどもありかもしれない。
 ノートの方法は、今でもノートに「書く」という活動は重要視されるかも知れない。電子ペーパーやiPadなど、書き込める電子媒体も普及しているため、電子化する分には問題にはならないかも知れない。
 ノートという機能だけを代替するならまさにnoteというサービスであったり、ブログであったりは有用な媒体かも知れない。公開の是非は別だが、現代の価値観としては公開は悪いことではないだろう。こちらも見出しなどはよしなにつけられる場面が多く、物理媒体での弊害は解決されているところも多い。
 いずれにせよ、紙媒体で工夫していたことを、電子媒体でより効率よく代替できる時代にはなっていると思われる。この点が時代を越えて大きく変化した部分かも知れない。
「つんどく法」
 世間一般に言われる「積ん読」であるが、著者は「ただ本を積んで放置する」という意味では使っていない。研究関心に関連する本を平積みし、片っ端から一気に読み進めるというのが「つんどく法」である。
 上記のようなメモをとる行為は最小限にし、詰め込めるだけ脳の記憶領域に突っ込む。私はどちらかというとこっち派だった。メモを取ると文字を書くことに演算領域を取られて、内容をすぐ忘れてしまう。「メモを取ることができない」という状況になると、記憶する気が沸く。
 記憶が曖昧になっても、表紙や目次で思い出せたので、これまで苦にはしていないが、こういう読み方でやっていけるのは概念やバーバルな議論に関する本だけで、数式の書かれた学術書・技術書に関しては、まさに「写経」とも言われる方法論が向いている場面もある。「何が書いているのか」を記憶するだけでなく「なぜそれが正しいのか」をも理解する必要がある場合には、写経やギャップを埋める作業なしには進めないと感じる。ここが、技術者との大きな違いなのかも知れない。
「手帖とノート」
 アイデアや思いついたことをメモする媒体についての節だが、現代ではスマートフォンがあり、メモ機能がある。日付は自動的に記録されるし、タグをつければ整理も問題ない。上記のEvernoteやnote、ブログもスマートフォンで連携される。
 ここで重要なのはこの節が不要となったというわけではないということで、なにか思いついたら即座にメモを取り「忘れてしまっても思い出せる」状態にする習慣づけについて説いている。その方法が、誰でも取りやすくなったということなので、それなら実際に取っていこう。
 思いつきを垂れ流すだけならTwitterでも良いだろう。人によってはその思いつきについて有益な情報をくれる場合もある。そういうフォロワーをふやしていくことは重要だ。
「メタ・ノート」
 この節はツールの代替ではなく、運用の仕方という側面になる。様々な媒体で情報を収集し、その結果を要約して高次元にするための場を用意しておく、ということになる。これはEvernoteでもOnenoteでもできるし、ブログなどでまとめ記事を書くことでも実現できる。
 それまでまとめていたものを改めてまとめ直すと、理解が進んだり、思いもよらない情報間の結びつきが見つけられたりする。そういうことを実現するための場を用意することが肝要である、ということになる。

「整理」
 冒頭の「学校」の機能の話に戻る。学校では「忘れる」と怒られる。少なくとも私の幼少期まではそうだった。学校は「教える」ところで、教えたことを「忘れる」ことは良くないことであったから。
 私は忘れなかったので「優秀」と言われた。教科書も何度か読めばある期間は暗記できてしまった。忘れないことが「優秀」の証左でないことは、労働を始めてから実感するのだが。
 1986年の段階で「コンピュータにできないことをやらないと」という論調があったようだ。現代では「AIにできないことをやらないと」という論調がある。これらができる人間は共通して「創造力のある人間」と言われるようだが。
 よい知的生産のためにはただ「忘れない」ことが良いこととは限らない。記憶した知識をうまく統合・抽象化し、新しいアイデアに昇華することこそが重要である。
 一方で多くのことが記憶できても、それをうまく整理できていなければ意味がない。そのためにはある種の「忘却」を受け入れる必要がある。スイッチに「睡眠」がある。
 つまるところちゃんと寝ると、記憶が整理され、良い「忘却」がもたらされることで、知的生産性が上がるという話。まあ、結局記録しておけば、必要になったらいつでも参照できる。現代においては特にそれが技術的に可能なので、良い忘却を受け入れよう、という話である。
 そうやって買い物帰りに買いそこねたものを思い出す。今日も私はサラダ油を買い忘れた。
「忘却のさまざま」
 良い忘却のためにはどんな方法があるだろう。意外と2020年では取り入れられている内容は多い。当時はなんだかんだ机に向かいっぱなし、というような価値観が支配されていたのだろうか。
 気分転換に作業場をはなれてお茶とかを飲むというのも、一つの良い忘却をもたらす方法のようである。別にお茶を飲むだけでではない。散歩も一つの方法だ。
 意外と実践されている方法かも知れない。実践が受け入れられるようになっただけとも言えるかも知れない。実際、時間を決めずに1つのことに没頭するのは、当時からしてもやはり非効率的なようである。
「時の試練」
 導入では2人の小説家、島田清次郎と夏目漱石を対比している。どうやら若干時代のズレはあるようだ。島田清次郎を知る者は多くないかも知れない(かくいう私も知らなかった)が、夏目漱石を知らない者は、少なくとも島田を知らない者より少ないだろう。
 著者いわく、島田清次郎は、彼自身が生きた時代には高く評価されていた小説家だったようだ。一方で夏目漱石は、その存命中は評価が高いとは言えず、批判・批評も多く残っている。だが、後世たる現代で、夏目漱石の文学は高い評価を受けている。この事実は、それぞれの小説家が生きていた当時には「予測ができなかったこと」であると著者は述べる。
 いわゆる「歴史が評価する」ということとも言えよう。自己の内部で完結する忘却ではなく、社会からの忘却を指す。これを「時の試練」と著者は呼んでいる。
 「時の試練」を経ることで作品は風化・乾燥する。このあたりを生木と建材として乾燥・加工された木との対比で表現する。
 時間を経ることで、過去にメモをしたアイデアが面白くなったり、逆に面白くなくなったりする。「なんでこんなつまらないことをメモしていたんだろう」と思ったり「こんなことをメモっていた過去の自分天才では?」と思ったりするためには、良くも悪くも時間をおいて見返すことが重要なようだ。
 
「すてる」
 この章はどうやら情報の取捨選択をまとめているようだ。データサイエンスにおけるLASSOっぽい手法での次元集約に近い。この前の章は、PCAやクラスタリングの「アナロジー」で評価できそうである。
 学び始めは、学ぶことが山ほどあるが、一定水準以上の知識を得ると、相当の努力なしには新たな知識を獲得すること・それらを活かすことが難しくなる。いわゆる「頭でっかち」になってしまうことを意図しているように解釈している。このためには、必要な知識を取捨選択して削り、捨てる勇気が必要らしい。
 Evernoteやブログにメモるだけメモってもかさばることはないが、いざ見返そうとすれば見返すべき情報が多すぎる。それだけでモチベーションにも影響しよう。集めた情報を改めて吟味し、必要のない情報を削除する、ということが定期的に必要なのだと思う。
「とにかく書いてみる」
 動画サイトでは「Just do it」と叫ぶ男性の動画が有名だったりする。そういう話。
 卒論を書く時、書き始めがなかなか進まない、ということがあった。私だけでなく、同期・後輩も似たような経験をしていた。そのときに「謝辞から書いたらどうか」というアドバイスをうけて、謝辞を先にかきあげた記憶がある。なぜかはしらないが、本論をとりあえず書き上げることができた。
 思い出せば、初っ端から論文を書こうとしていたのが良くなかったのかもしれない。いまのこの記事も、とりあえず書いてみようと思って5時間位で書いている。推敲は公開してから考える。
 とにかく、思うままに書いてみるというのは、媒体が変わるだけで、今も昔もアウトプットの初手として、健在なようである。
「テーマと題名」
 この節の最後に「テーマとタイトルは簡単に書け」という走り書きがされてあった。そういうことなのだろう。
 卒業論文や修士論文の場合、ここに苦慮した記憶があるし、就活のときも「研究していること」を述べる時はまず一言で述べろ、と言われた記憶がある。
 いわゆる「今北産業」だろう。端的に自身のアウトプットを表現できるというのは、究極の「すてる」の結果とも言えそうだ。
「ホメテヤラネバ」
 「仕事なら、どんどん片付いていくが、……」という一文を見ても、仕事が意味するものが時代を越えて大きく変化しているな、と感じる。2020年ではおそらくこうしたものは「作業」と呼ばれるだろう。「仕事」におけるものを考える比重が大きくなっていることが示唆されるかも知れない。
 いわゆるピグマリオン効果の話。結果に対してポジティブなフィードバックを受けると、思考のキレが良くなりがちである、ということである。
 ネガティブに考えてしまうことで、この思考を鈍らせてしまう。人と話したり、悩みを言語化したりすることで、うまくネガティブを転換するとよい、というのは、2020年でも共通して納得できることに思われる。

「しゃべる」
 エンジニアの間でも「ラバーダック・デバッグ」という方法論がある。プログラムについて、ラバーダック(これがテディベアでも推しのフィギュアでも何でも良いのだろうが)1つ1つ説明していくことで、デバッグを進めるという方法である。半分ジョークだが、半分マジで効く。
 私もたまに壁に向かって状況を説明する。私の場合は壁が効く。それはそれでヤバイやつだが。
 『思考の整理学』ではそんなことは書いておらず、専門領域の異なる友人との会話が良いと述べている。私がずっと壁に向かって話しているわけではなく、学生時代は専攻の異なる人と今やってる研究の話を良くやったし、図書館にこもって全く関係のない領域の話についてホワイトボードで議論したこともあった。
 この経験は本当に良い。その当時なにも生まなくとも、今こそあの経験が価値のあるものだったと思える時がある。
「談笑の間」
 「しゃべる」に強くつながるが、専門領域外の人との議論は大きな意味をもっている、と述べている。著者は友人2人と議論を交わす会を定期的に開いていたようだ。当時は実際にもっぱら都合をつけて、会って話すことが基本のようだ。
 これも今となってはWeb会議などで十分実現ができるだろう。時間の調整もある程度は楽にでき、物理的に顔を合わせることの難しい遠方の友人とも、夜通し話はできる。
 ……まあ、なんだかんだ実際に会って話をしたいと思うのが常だが。
「垣根を越えて」
 このあたりは「領域の異なる人との議論」というものが、セレンディピティや触媒効果を期待できる要素であるということが、繰り返し述べられている。この節ではさらに、ブレインストーミングのような、2020年でも使われる方法論も挙げられている。当時としては「最先端」だったようだ。
 私自身学際領域に身をおいていたこともあり、こうした領域を越えた交流や知的生産の価値はなんとなく理解しているつもりではある。とりわけデータサイエンス領域は、それでなくても様々なバックボーンをもった人たちが「データ分析」という共通点をもって集まるので、話すと意外と多様で面白かったりする。
「三上・三中」
 アイデアを思いつく3つの「上」の話である。馬、寝床、トイレ。
 さらに「三多」というものもあり、多く本を読み、多く文を書き、多く推敲することを指す。今でいう「やっていき」を突き詰めるとこうなるのだろうか。
 著者は三上に合わせて「三中」を提唱している。すなわち「入浴中」「散歩中」「無我夢中」とのこと。
 確かにシャワーを浴びている間にアイデアが思いつくこともあるし、散歩中に検証していない内容を思いつくことがある。無我夢中でいるときは、往々にしてそれらを実装しているときだろうか。
 「三上」「三多」に関しては中国の故事からの引用であるため、かなり古くから経験則として言われているようだ。
「知恵」
 著者は「本に書いていない知識」を「知恵」と呼んでいる。革鞄も革靴と同様の手入れを行えば長く使えるようになることや、包丁のサビが浮きにくくなる方法などを例に挙げている。いわゆる「耳学問」で、科学的根拠などには疑問の余地こそあるが、記録しておくことで、将来的に活きるときが来よう、というわけだ。
 身近にこうしたことを感じることはあまりないが、多分ショートカットキーやらコマンドやらの話が近い、のかも知れない。ググれば出てくるが、意外と知られていない。
「ことわざの世界」
 身の回りで経験した物事を、効率よく記憶するために、ことわざと関連付けることを提案している。人によるが、昔から類似の出来事やシチュエーションがある場合に、ことわざをうまく適用できれば良さそうではある。

「第一次的現実」
 著者は物理的な世界を「第一次的現実」、人の頭の中に構築される現実を「第二次的現実」と呼んでいる。1986年当初は、テレビの台頭により、この第二次的現実が更に「活字による第二次的現実」と「映像による第二次的現実」というものが現れたという。第一次的現実と第二次的現実の違いを、著者は「汗のにおいの有無」の喩えで区別する。
 当時のテレビの存在は、第一次的現実だけが可能にしていたであろう視覚的な体験を、間接的に共有できていたことに注目しているのだろう。2020年ではそれが更に進み、例えばVR技術などによる、第一次的現実により近い第二次的現実が得られるわけである。
 著者は第一次的現実から得られる発想や思考に注目するべきで、それの最たる例がことわざであると述べている。おそらくは経験則などの「耳学問」の領域であろうが、2020年においてこの現実の境界は曖昧になっているように思われる。いわゆるインターネット・ミームのように、第二次的現実からあたかも第一次的現実で見られるような、型にはまらない、システム化しづらいものが生まれてきているからである。このあたりは別に思考を割く時間を設けても良いかも知れない。
「既知・未知」
 著者は知的活動を3つに大別する。
  ① 既知の再認: 例えば平均の定義など、過去の知識から分かる内容
  ② 未知の理解: 下地の無い知識との遭遇。想像力が鍵。
  ③ 新たな世界への挑戦: ②よりも難しい未知
 読書によってこれら3つのための読み方はそれぞれ異なる。①のために必要なのは「文字が読めること」で、その文字の「意味」を理解することは必ずしも必要ない。それ(解釈)が必要となるのが②以降である。とはいえ、学校教育において、これらが明確に区別される場面は多くはない。②の読み型を学ぶところが、知的活動において重要な素養であるらしい。
「拡散と収斂」
 人の思考パターンには「拡散」パターンと「収斂」パターンが存在すると著者は述べる。いわゆる「伝言ゲームを面白くする思考」が「拡散」であり、「試験の模範解答を書く思考」が「収斂」であるようだ。収斂に特化した思考は、答えのない問いに応えることが難しい。一方で拡散的な思考は、こうした答えのない問いに対して、何かしらのアウトプットが得られる。
 いわゆる「ビジネスに求められる思考」というのは、どちらかといえば拡散パターンなのかも知れないが、うまく収斂する筋道を立てないと、とっちらかった議論になりかねない。工夫が必要かも知れない。
「コンピューター」
 ここは「AI」に置き換えても良いのかも知れない。コンピュータが事務的な業務を代替できるようになったことで「グライダー人間」の価値が大きく下がったということにある。
 一方で、懸念されている主張はそこまで変わっていない。実際、AIが人間から「奪った」仕事は、ここでいうコンピュータが代替する仕事とそう変わらない。いわゆる「グライダー人間」が行う仕事である。それが、これまでコンピュータに扱えなかった情報(例えば異常検知やレコメンドなど)領域に拡張されてきた、というお話に過ぎない。少なくとも2020年においては。
 AIを脅威と認識する人間は、自ら考える機会を得てこなかった「グライダー人間」であるのだと思われる。「飛行機人間」であれば、AIという「未知」を解釈し、うまく使う方法を考え、実践するための創造力を得ているはずである。
 教育の側面でもこうした「飛行機人間」を如何に育てるかが重要であるし、AIやコンピュータが発達している世界で、如何に人間の創造性を活かす場を見出していくかというのも、人間の重要な役割であろう。

なんだか

現代版『思考の整理学』っぽく書いてしまったが、全くもって文面に深みがない。二番煎じにはあまり価値が無いが、文学者というバックボーンの著者が書いたことを、データアナリストやらエンジニアやら曖昧なバックボーンの自分の理解できる世界で解釈したり、時代による変化を補完したりすることで、多少は実践のめども立った気がしている。
誰も読まないだろうが、もし何らかの意味で参考になったようならそれは良いと思う。
つか長かった。note史上最長かも知れない。推敲は寝かせて書く。

この記事が参加している募集

読書感想文

無料で記事は読めますが恩を回して欲しい人はここに奉納ください。