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全裸監督 第11章 要約

第11章 6人(村西とおると対峙したメリー喜多川副社長が会議室に乱入させた親衛隊人数)

新人AV女優の梶原恭子と田原俊彦が金沢のホテルで一夜を共にしたというスキャンダルの顛末。当時、戦後芸能界史上最大のスキャンダルと言われたらしいが、今では知らない人の方が多いのではないか。撮影中の何気ない雑談から出てきた梶原恭子の告白を村西が面白がり、『ありがとうトシちゃん』というふざけたタイトルのAVを発売。刺激的なパッケージのコピー。当時ジャニーズ事務所最大のアイドルとトシちゃんの追っかけをしていたファンとの金沢の一夜を再現した話に群がるマスコミ。村西が『11PM』で話したことでジャニーズからクレームが入り、番組のディレクター2人がクビになったこと。それに怒った村西が弔い合戦しなきゃと、今度は『週刊ポスト』に掲載したことで、泥仕合の様相に発展。

『週刊ポスト』発行元の小学館の大きな会議室で両者が対峙(ジャニーズ側はメリー喜多川副社長・娘の藤島ジュリー・白波広報部長・田原俊彦、対するは村西とおる・梶原恭子)。当の本人同士が「やった」「やってない」って天下の大出版社で言い争う様は傍から見ると笑い話だが、その渦中にジャニーズ側がトシちゃんの親衛隊を乱入させてまた口論。今でもそうだが、ジャニーズ事務所を批判することは芸能界・マスコミのタブーとされており、そのジャニーズ事務所に堂々と喧嘩を売った村西の男気にはスカッとする。また、この時のジャニーズ事務所の背景を、今の村西がSMAPの独立解散騒動に照らして冷静に分析している部分も秀逸である。

ジャニーズ事務所と対峙する目的で「ジャニーズ事務所マル秘情報探偵局」を開設し、電話によるタレコミ・スキャンダル情報を収集。わずか1ヵ月で千本以上の情報が録音テープに吹き込まれ、その中に信憑性の高い情報が含まれていた。その情報とは、元フォーリーブスの北公次がジャニー喜多川社長と同棲していた、というもの。当時の北公次は芸能界から引退し、故郷和歌山に蟄居していたが、村西とおるが復活させるために東京に呼び寄せた。

芸能界引退後の北公次は、覚せい剤で逮捕されて職を転々としたり、映画「竜二」に出演するも主演の金子正次が胃がんで急逝して最大の支援者を失っていた。その北公次に村西が自叙伝の出版を持ち掛け実現したのが、1988年10月、データハウスから発売された「光GENJIへ 元フォーリーブス北公次の禁断の半生記」。噂が先行して売れたが、内容は2人がショービジネスの極北を目指し労苦を共にする姿であり、良質な青春ストーリーだった。

北公次復活計画のエピソード(村西の勧めでマジシャンの練習をしたり、自叙伝発行元の社長が復活ライブの支援をしたり)。1989年1月、渋谷エッグマンで復活ライブが実現。梶原恭子の何気ない一言から始まったジャニーズ騒動は、巡り巡ってこんな復活劇まで呼び込んだ。

1988年4月、村西とおるが児童福祉法違反容疑で二度目の逮捕。容疑は『吹きすぎてしまった私』に主演した高槻真理子が十七歳という未成年者だったこと。保釈後の記者会見は村西の応酬話法が炸裂、深刻な現実も笑いに変えてしまう。AV監督を休業し臨んだ裁判の結果は、実刑を免れて罰金刑。その舞台裏の話(取り調べをした池袋署少年課の刑事6人が『週刊宝石』に掲載された黒木香のコラムが原因で全員左遷されたりした)。

1989年9月、クリスタル映像と決別し、ダイヤモンド映像を設立。また「全日本ナイス党」を立ち上げて次の総選挙に立候補を表明するなど、裁判で謹慎中の身ながら自己顕示欲はどこまでも強い。クリスタル映像を村西が離れた原因は、今まで事務方として支えてきた西村忠治代表が限界になったこと、村西自身がもっと自由に組織を運営したくなったこと、この2人の思惑が合致したことによるが、逮捕や裁判でこれ以上クリスタル映像に迷惑を掛けたくない思いもあったと推察できる。

当時のAV業界の構図は村西監督VS大手5社(宇宙企画・KUKI・VIPなど)。女優のギャラ(大手5社の相場は20万なのに対して村西は100万出した)、本番SEXの有無など制作方針で悉く対立していた。クリスタル映像の中では、食えればいいんだからという西村代表と、これは業界で生き残れるか残れないかの勝負、闘いなんだという村西の考え方の違いもはっきりしてきたが、業界の頂点に立つかどうかという時期の分裂は、損得を抜きにした気概や意地を感じる。そして、ダイヤモンド映像を創業した矢先、1988年9月、村西とおる児童福祉法違反容疑で三度目の逮捕。


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