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8センチの彼

8センチの彼

※お立ち寄り時間…5分

もしいつも通りのくつを履いて出かけていたら
君には出会わなかったのかな

もしいつも通りの帰り道を通っていたら
君には出会わなかったのかな

少しの勇気と好奇心

空想の中で立ち止まった物語が音もなく動き出す

いつか王子様が
やなぎの木の下で出会ってみたくて

赤い果実をかじったイヴは、神の怒りと引き換えに「知恵」という秘密を盗んだ
しなやかに、繊細に、そして大胆に

私にもできるかしら

イヴがしたように、しなやかに、繊細に、そして大胆に
魔法の秘密に触れて

ガラスの靴を脱いで、あなたのもとへ

 きっと彼は、私のことを憶えていない。
 いや、絶対に私の事なんて覚えている訳がないのだ。そんな考えが、頭の中でぐるぐると終わりのない迷路の様にあっちこっちと手招きをしているにも関わらず、つい彼の所へ向かってしまう。  
 あの彼が自分の住むアパートの近くでアルバイトをしていた、という夢にも思わない事態が発生したのは、ほんの3週間前である。
 手に持ったかばんの中でブーっと短く音が鳴る。画面を見ると友人からであった。

『白馬の王子さま、シフトみたいよ。たまたま見かけた。』

 とっさに手に持った携帯を隠し、きょろきょろとあたりを見回した。もしかして、こいつ私をつけてるのか。何で、私が彼に会いに行ってること知ってんのよ。
 心の中で悪態付き、いざ返信しようとすると続けて、画面にメッセージが表示された。

『ちなみに、つけてないよ。それより、今日こそは話しかけなさいよ。』
『大人の女性らしく、しなやかに、繊細に、そして大胆に。』

 そうなのだ。
 悔しいけれど、この小賢しい友人の言う通りなのだ。
 私が彼に初めて出会ったのは、冬の終わりで、ひどく前の恋人にフラれた時だった。このときもこの小賢しい友人と遅くまで飲み歩き、早く新しい恋をするぞと慰められていたのである。
 ふらつく体で朝方に帰宅し、目覚めたときには、とうに正午を回っていた。鏡を見ると、お酒で顔がむくみ、泣き疲れたせいで目の下にはクマが居座った、疲れた私がそこにあった。   
 あれ、最後にキスしてもらったのいつだったかな。ふとそんなことが思い出された。縦じわが増えたカサカサになった唇にそっと触れると、ピリッと鈍痛が走った。
 こんなにだらしのない顔をしていたとは。惨めだった。3つも年下の彼に引き留めてもらう要素など、今の鏡の中の自分には、これっぽっちもない。

確信した。
哀れだった。

 彼が好きだと言った短い髪も似合ってなかった。急にこんな自分に腹がたった私は、何故かその日、とびきりの良い服を着て、いつもは絶対に履かないハイヒールを履いて、新しい口紅を買いに街に繰り出したのである。

『もういい加減に彼に話しかけないと、ストーカーだよ。』
『いい女なんだから、頑張んなよ。』 

 容赦なく照り付ける日差しにぼーっとしていたら、次々に画面が明るくなっていた。こないだまで寒かったのに、もう初夏か。
 首筋に温い汗がつたった。肩越しまで伸びた髪を慣れない手つきで束ねる。それから『ありがと、頑張ります』とだけ送り、鞄にしまった。
 いつもは履かないハイヒールを履いて、今日は彼に会いに行っている。そう、紛れもなく今日こそは、今日こそは彼に話しかけようと思って。
 このハイヒールを見たら、思いだしてくれるのではないかと思ったのだ。初夏には似合わない、深紫のスエードの8センチのハイヒール。
 きっと友人に伝えたら、笑うだろう、健気ねと。彼から見た私は、友人の友人でもなく、ただの常連客でしかない。毎日同じ飲み物を買う常連客。あの日みたいに、あの角から彼が飛び出してきてくれたらいいのに。

「すみません、だいじょうぶですか。」
「え、あ、はい。大丈夫です。」 

 あの時の彼の深い心地の良い声が耳元に蘇ってくる。

 あ、落ちた。

 そう思った。
 彼と話したたった一言。たった一瞬の出来事。転びそうになった私の背中に咄嗟に彼の大きな手が触れて。真冬の澄み切った空気の中に見えた、すっと伸びる鼻筋に、左の頬の小さなえくぼ、うっすら浮かぶ涙袋。
 いつの間にか、春が遊びに来て、夏が迎えに来た今でもしっかりと残っている彼と初めて会った記憶。彼女もきっといて、たぶんとびっきり可愛くて。私なんか敵わないと思うけれども。
 でも、やっぱり触れてみたくて。私だけのために笑って欲しくて、できたら名前も呼んでほしいな、なんて。
 唯一自慢だった謙虚な性格が、どんどん欲張りになっていった。これを一目ぼれと呼ぶなら、そうなのかもしれない。もう、彼女がいるとかいないとか一切合切いいや。うん、恋なので仕方がない。

どうしようもなく好きなんです。

 今日こそは、今日こそは話しかけるんだ。ガラスに映った自分に言い聞かせる。頭上には、吸い込んだら胸の奥深くまで青く染まってしまうような高い青空が広がっている。
 うん、出来る気がする。履きなれないハイヒールは私を大胆にさせる。女の子は誰でも魔法使いに向いてるとイヤフォンから彼女がささやく。
 いつか王子様がなんて言ってたら、あっという間に人生ひとりぼっちだ。王子様を迎えに行くのも悪くないはず。さあ、ガラスの靴は脱ぎ捨てて、しなやかに、繊細に、そして大胆に彼の心を奪いに行くのだ。


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