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生きていく。【chapter35】

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「弁当わすれた」「助かる」

たすかる。たすかる。ソノコは弁当の入った濃紺色の保冷バッグを見つめ小さく一人呟く。

タカシの葬式から数日後の晩夏、立秋。初めて訪ねたリョウの部屋の玄関で、「ベッドで寝てると身体がかゆくなる」と悲しげにうったえたリョウの、シーツを洗濯した。散らかった、くしゃみが出そうに埃まみれの部屋の、掃除をするかとソノコが問うと、

「助かる」

と微かな安堵を浮かべリョウは答えた。

「助かる」はリョウの口癖だとソノコは思う。

自分は一体リョウの何を助けているのだろうかとソノコは振り返り考える。自分がそばにいることで助けるどころか苦しめてきたのではないだろうか。

濃紺色がとてもよく似合った人。助かるの「た」と一文字打つと予測変換には「たかし」と出てくるのではないだろうか。その度に苦しく、タカシを思い出にできない、するつもりのないリョウを自責に追い込むのは、自分なのではないのだろうか。ソノコは深く息を吐くとベランダへ出た。干している途中だった、リョウのティシャツを干す。

干し終わると、いくら片づけてもいたちごっこで散らかすリョウの部屋を、病院に弁当を届ける時間まで、掃除に費やした。一通りの家事をおおかた済ませ、ふと時計を見ると指定された時間に近づいていた。慌てて戸締まりをし、鍵と携帯を握る。

玄関に向かって歩きかけ、肝心の弁当を忘れていることに気づくと引き返し、弁当を掴んだ。視界に入った仏壇を数秒見つめ玄関に向かう。ソノコは仏壇の前で手をあわせることをしない。線香を手向けることをしない。祈りを捧げることも。自分はそれをしてはならないのだと強く思っている。

病院へ向かう道々、タカシのことを考える。春の日射しのように初々しく暖かい、タカシとの大切な思い出。

日曜日。夕暮れ、夜の前。テレビのアニメ。タカシは日曜日のその時間、よくアニメを見ていた。大きな身体の白髪のまざる頭髪の男が、妙に真剣な眼差しでテレビを見つめる姿に「楽しい?」ソノコがたずねると「うん。安心する。平和で幸せで温かくて正しい大家族。これを見るとあまりにも自分とは違って遠いから安心する。自分の幸せは自分が決めて良いんだなって勇気が湧く」朗らかに清々しく、潔く笑っていた。

ダイニングテーブルに並んで座り、ソノコが作った夕食を食べる。ソノコの前の席に、まるでその家の主かのように大きな態度で、当たり前のようにソノコの作った物をあれこれ言いながらそれでもいつも、苦手な木綿豆腐以外は完食する、手の焼ける男は珍しく不在だった夜。

ソノコは料理が好きだと思う。他人からは「意外だ」と言われるが食事でも菓子でも食べるものを作るのは、全く苦痛ではなく大切な趣味と言えると思っている。自分がつくる料理はきっと愛情表現なのだと思っている。そしてその細い体のどこに入っていくのか、と思うほどソノコはよく食べる。

料理が苦手、というより家事全般が苦手であるソノコの母親が作る料理では、胃も気持ちも満たされないのがソノコのささやかな悩みであった。

あらゆる分野の買い物が趣味であり、ストレスの解消法でもあるその母親は、食材や高価な調味料を嬉々として定期的に買い込む。買うことで欲求は満たされ、ふんだんに買い込まれたそれらは母の手で料理に使われることは少なく、長らく冷蔵庫や食品庫で出番を待つ。見かねたソノコがその豊富な食品を惜しみ無くそして余すことなく丁寧に利用し、ソノコの料理の腕は上がり、食材がみごとな料理になることで母親の気分も上がる。

「美味しい!お店で買ってきたみたいね。これまた作って」

とあながちおだてではなさそうに喜ぶ母親は、

「ソノコも私もハッピー。こういうのウィンウィンて言うんでしょ。会社の女の子が言ってたわ」

両手でピースをつくって、臆面もなく堂々と朗らかに笑う。自分のためと思って作るものを、他の誰かが純粋に喜んでくれることは事実嬉しくソノコは、

「オッケ」

と両手でピースをつくる。

「これってさ」

鱈の粕漬けをひとかけらほぐすとホワリ、と湯気が溢れた。そのかけらを口に運んでから、タカシは皿の上の魚をじっと見つめ呟く。

「あ、苦手?ごめんなさい。先に聞けば良かったわ」

ソノコが慌てて謝ると、

「いや違う。粕漬けってさすごく甘いよね。でもこれ甘すぎないし、すごく旨いね。どこで買ってきてくれたの?」

タカシが真剣な面持ちでたずねる。

「あ、それはー……」

魚の粕漬け、はソノコの密かな得意料理だった。

鮭でもイカでも鯖でも美味しいが、淡白な鱈は格別粕漬けに向く。あれこれ調味料を試し、配合を熟考し行き着いたそれを食べると粕漬けが大好物である母親は「これ食べると、既製品を食べたくなくなっちゃうのよね~」と幸せそうに眉間にシワを寄せる。

「え。作ったの?こういうのって買うものじゃないの?」

作ったのか。とタカシは一人言のように呟くと、ひとかけらの鱈を口にいれ、「うまい」と小さく呟き、続けて茶碗からご飯をほおばる。そのあとも無言で魚を口に運び続けるタカシの横顔を見つめ、ソノコはその大きな身体を今すぐ抱きしめたいと思った。

「この前さ、突然、リョウくんがね」

テーブルにひじをついてあごを支え、食べ終わって空になった食器を見つめながらタカシは呟く。まだ夕食を食べ終わらないソノコは口を動かしたまま、話の先を促すようにタカシの横顔を見た。

「昼に食堂のカレー食べるの、飽きたな~。って」

やっぱさあ、いくら好きでも食べ続けると飽きんのな。って。

「そのうちカレーの文句言い始めてさ。言ってるうちに興奮してきちゃったらしくて止まらないの。人参の固さがどうとか、ルーのゆるさがどうとか。そもそも毎度毎度、人参じゃがいも玉ねぎって。三種の神器かよ…って真剣に頭抱えてんの。

挙げ句、つけあわせがピクルスだぞ?人参のピクルスなんだぞ。って。人参はカレーでお腹いっぱいだろ?って。甘くも酸っぱくもないボヤけた味でさ、それで箸休めって。箸も舌も気持ちも休まらない。俺は真っ赤な着色料がたっぷりの、親の仇のごとく甘ったるい福神漬けを、あれほど愛しいと思ったことはない。って。怒りがつけあわせにまで飛び火してさ。もう、カレーが気の毒になってさ。おかしくて。

食堂って、日替わりの定食とかカレー以外にも色々あるよね?って聞いたら、まあな。って。それで、今日は何食べたの?って聞いたらムッとした顔して、カレーって」

ムッとした顔でカレー、を頬張るリョウを思い浮かべソノコもひとしきり笑った。

苦笑いを浮かべ、

「好きなんだか、嫌いなんだか」

首をかしげるタカシの表情にはこんこんと湧き続ける弟への渇れない思慕がにじんでいた。ソノコはこの兄弟の絆の強さに小さな、胸の痛みを感じた。

「これから作れるときはお弁当、作るわね。二人分」

はしを置き、ソノコがタカシの目をのぞきこむ

「いいの?」

タカシは遠慮がちに、ソノコを見つめ返す。

「腕によりをかけるわ。これ以上カレーが憎まれないように」

ソノコが笑うとタカシはしばらくソノコを見つめてから、空になった食器に視線を落とした。

「母はさ多分料理が好きじゃなかったんだろうな。って。でも、当時は子供だしさ、こういうものだろうって食べてたよ。でもね、この年になって色々分かってさ。こうやってソノコが作ってくれるごはんを食べてるとね」

食器に視線を落としたままタカシは、ゆっくりと話し続ける。

「リョウくんがね、」

お袋の味って言うじゃん。あなたのお袋の味は何ですかー?って。俺さこの前ふと考えたんだよね、なんだろって。んで母さんには悪いけど俺ねえな、って。でさ思ったんだよ。それ聞かれて真っ先に浮かぶの多分、ソノコの手料理だなって。

「って言ってたよ」

すぐには言葉が見つからなかった。なんとか気持ちを落ち着かせ、ソノコは、

「ああだこうだ言うのにね」

と震える声で明るさをつとめ答えた。しかし何にも形容しがたい気持ちは涙となってソノコのほほをこぼれた。

タカシは涙をぬぐうと、

「ありがとね。本当に。ソノコ、どうもありがとう」

と、頬を撫で、ソノコを抱きしめた。

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