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蛇の綱渡り(再録)

 祭の日のことだ、神社の境内に露店がひしめき出した昼下がり、とある物寂しい一画に一人の男が立った。
 男は無言のまま、細いロープを木と木の間に渡し始める。何が始まるのだろう。好奇心旺盛の子供たちが、何人か集まってくる。
「おじさん、何をやってるの?」
 一人の子供が声をかける。男が答えて、
「蛇の綱渡りさ」
 子供が歓声を上げる。その期待に満ちた声音は、新たに別の子供たちを呼び寄せる。
期せずして、張り渡されたロープの回りに子供たちの輪が揺れる。
「蛇はどこにいるの?」
 別な子供が声をかける。
 男はにやりと笑うと、おもむろに頭に巻いていた手ぬぐいをほどくや、両掌で器用に捻るところ……そこに、カッと口を開いた一匹の蛇がトグロを巻いた。
 本物ではないことに、誰もが唖然とする間も与えず、男はついそこにぶら下がっていた赤い紙テープを指先に摘み、あたかも紙捻りのように捻ると、……それは口を開いた蛇の、妖気漂う舌へと姿を変える。まさに、命が吹き込まれた瞬間であった。
 この時、手拭いで作った蛇は、本物に紛う神秘の生き物そのものに違いない。
 子供たちの誰一人、文句を連ねるものはなく、ひたすらに固唾を飲む。

 男は、今にも動き出すかに見える迫真の蛇を、そっとロープの端に止まらせると、
「さて、君たち……蛇の綱渡りは見たいかな?」
「見たーい!」
 子供たちは声を揃えて、歓喜を叫ぶ。

 男しばし間を置く。あたりは……テストの時間みたいに静まり返る。
 一呼吸、二呼吸……、男が再び口を開いて、
「……蛇の綱渡りは、後にしようと思う……」
「えええーっ……」
 あたりがどよめく。男は、人懐こそうに笑うと、
「実はね……蛇の綱渡りより、もっと凄い……素晴らしい覗き眼鏡を持ってきているのさ」
「覗き眼鏡って何?」
一人の子供が、間髪を入れずに質問する。

 男はそれに答えるように、背後の段ボール箱をまさぐると、カメラのフィルムケースほどの黒い円筒形の物体を取り出して、
「なんでも透けて見える……魔法の覗き眼鏡なんだ」
「なんでもって……何が見えるの?」
 先ほどの子供が、すぐにおっかぶせる。
 男は、その小さな覗き眼鏡を片眼にあてがいちょっとしゃがみ込むと、質問した子供の身体に向かって、
「見えるぞ、見える見える。坊やの身体の中の骨が……あれ、胃袋も見える……さっき卵焼きを食べなかったかな?」
 言われた子供は、大げさなほどに身を引いて、
「すごいよ、おじさん! 僕……朝に卵焼きを食べたんだ!」
 
 男はすかさず、背後の段ボールから、同じ覗き眼鏡をいくつも取り出して、
「今日はね、この不思議の覗き眼鏡を、君たちに格安で譲りたい。一万円でどーかな?」
「高ーい!」
 子供たちが声を揃える。
「なら、五千円」
「高ーい」
「えい、千円……」
「高ーい!」
 
 実は、子供の僕も、この輪の中でワクワクしていたのだ。結局、いくらまで値下げされたかは定かではないが……少なくとも、子供達のポケットの有り金は叩かねばならぬ金額ではあった。
 もちろん、僕も、有り金叩いて魔法の覗き眼鏡を手に入れた。

 家に辿り着くまでの興奮は、尋常ではなかったはず。そう。一番見たかったはずの「蛇の綱渡り」のことなど、全く忘れ去って……

 もとより、冷静に考えてみれば身体が透けて見える魔法の覗き眼鏡なんか存在するはずもない。よし見えたとしても、すでに消化されているはずの卵焼きを識別できる道理もない。「さくら」らしい子供の、大げさな演技も、いかにも取ってつけたふぜいであった。

 そして、当の覗き眼鏡はと言えば、対物レンズに当たるガラスの端にもっともらしく何かの毛みたいのが数本張り付いているばかりのバッタもんにすぎなかったのだ。

 しかし、僕は今に至るまで、自分が騙されたとも、詐欺にあったとも思ったことはない。
 そう。対価としての代金を払っまでのことである。
 観客を一時とはいえ異世界に巻き込んだ、正真正銘の「芸」を確かに、そこに見たのだから……

貧乏人です。創作費用に充てたいので……よろしくお願いいたします。