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書籍解説No.24「定本 想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行」

こちらのnoteでは、毎週土曜日に「書籍解説」を更新しています。

今回取り上げるのは「定本 想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行」です。

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本著は1987年に日本語訳版が出版され、その後1990年代にはヨーロッパを中心に10か国以上、改定された2006年版は更に広い地域で出版された、ナショナリズム論における古典とも呼べる著書です。


【「国民(nation)」とは】

著者であるB.アンダーソンは「国民(nation)」を「想像の共同体(imagined community)」として捉え、いかにして「想像の共同体」が人々の心のなかに生まれ、世界中へと普及するに至ったのかが歴史的背景を基に綴られています。

「国民(以下、ネーション)」とはイメージとして心のなかに想像されたものであり、為政者が民族的・国民的な優越性つまりはナショナリズムを扇動するなかで、国民は誰もが同士であると思い描きます。

【ナショナリズム】
一般的には、あるネーション(nation:民族、国民)が他のネーションに対して、自らの一体性や自立性あるいは優越性を主張・誇示する感情・思想・イデオロギー・運動などの総称。

(参照:社会学小辞典)

ネーションやナショナリズムは、国家が発展するなかで出現した近代特有の現象です。
近代的に創られたネーションは、互いのことを知らない不特定多数のメンバーによって構成されており、その意味でアンダーソンはネーションを「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体」としています。

国民を構成している人々は、他のほとんどの国民にあったこともなければ存在を意識することすらもないでしょう。
それでは、いかにしてネーションは想像されていったのでしょうか。いかにして「日本人」という国民意識が育まれたのでしょうか。それは自発的に醸成していったのか、それとも意図的に育て上げられたのでしょうか。

以下で述べているように、ネーション、そしてナショナリズムはヨーロッパで起きた「活版印刷技術」「出版資本主義」などを背景に醸成されていきました。


【国民意識の起源】

1500年前後はヨーロッパ繁栄の時代でした。
出版業もこの好景気に乗じ、1500年までに少なくとも2000万冊もの本が出版され「複製技術の時代」が始まり、更に1600年までには2億冊もの本が製造されたといいます。

当時、読者として対象とされたのがラテン語習得者でした。
いま全世界で使用されている英語も当時は俗語であり、ラテン語がテキストとして用いられていたのです。また、ラテン語を習得しているのは何らかの権力を有した者、あるいは教育を受けた者、すなわちエリートであり、彼らのみがラテン語を読み、扱うことができていました。生まれながらにしてラテン語を話す人は少なく、ほとんどの人は一言語か俗語のみを扱っていました。
ファーブルとマルタンによれば、1500年以前に出版された本の77%がラテン語だったとされており、俗語で書かれたものはわずか23%に過ぎませんでした。

ところが、大きな契機が訪れます。
1517年、ルターが起こした宗教改革によって、当時ラテン語で書かれていた聖書がドイツ語に翻訳・印刷され、世に出回っていきます。これを機に、俗語出版市場が大幅に拡大していくことになりました。
つまり、プロテズタンティズムと出版資本主義の連合が、新たな読者を急速に創出し、彼らを政治宗教目的に動員したというわけです。

以降、俗語(パリのフランス語、ロンドンの(初期)英語)が権力の言語へとのし上がっていき、当時の主流であったラテン語への競争相手となっていきます。フランス語、英語、スペイン語といった俗語は極めて多様で、会話を通じて相互理解することは難しかったものの、それが印刷と紙によって相互のコミュニケーションが可能となりました。

出版によって結びつけられたこれらの読者同胞は、こうして、その世俗的で、特定で、可視的な不可視性において、国民的なものと想像される共同体の胚を形成したのである。(84頁)

これら「活版印刷技術」「出版資本主義」のほか、「中産階級の増加」「大衆教育の浸透」「識字率の向上」といった要因もネーションの醸成に貢献しました。

ナショナリズムの成立には、同時性の観念(「いま」「ここ」)が決定的な重要性をもちます。
たとえ行為者同士がその存在を知らなくても、場所が離れていたとしても、新聞や小説といった出版物を通じて共通の文字を同じタイミングで読むという同時性の経験や観念が「想像の共同体」を生み出し、かくして特定の連帯を構築してきました。

つまり、ナショナリズムの起源は「出版語」ということになります。


【創出される「国民意識」】

為政者が一つの社会をネーションへと作り替えていくにあたっては、言い換えれば千差万別の群衆を「国民」へと変えていくためには、技術や制度だけではなく、身分・階級・性別・人種・民族・宗教に基づく社会的分化を超えて一つのネーションへと包摂し、幅広く民衆を巻き込むような過程があります。
それゆえ、中産階級の増加、俗語出版の活性化、学校教育の浸透などはいずれもナショナリズムを高める作用となります。言語は「どこでも誰でも学べる」という包摂性をもつためです。

また「社会学(新版)」では、日本のネーション創出の起源の一つとなったものとして「祝日(national holiday)」を例に挙げています。日本の祝日の多くは天皇制と深い関与があり、日本のネーションの創出の起源として活用されたのが「天皇」という存在だったとされています。
「日本」の立ち上げにおいて天皇を共通の起源とすることで国民国家の正統性を民衆的なレベルで確立することが求められ、また祝日を通じた同時性の体験により人々は無意識のうちに「国家的なもの」を身体化させていきました。

この例に限らず「伝統」や「制度」というものは、自然発生的なものではなくむしろ政治的意図があって創り出されたものが少なくありません。ネーションが近代の産物として理解されるように、あたかも自然発生したかのように思える「伝統」も近代の構築物であることを、ホブズボウムは指摘しています。
このように意図的に創設された「伝統」が、人々の身体と意識のなかに「国家的なもの」として刻み込まれていく過程の一部となっていきます。


【同時性の観念】

ナショナリズムの成立には、同時性の観念(「いま」「ここ」)が決定的な重要性をもつと先述しました。
そこで、D.ダヤーンとE.カッツによれば、メディア・イベントも国民を結びつける機能を有するといいます。メディアイベントとは、社会的に注目される出来事をライブ中継などによって放送されることです。例えば、オリンピックやワールドカップといった世界的なスポーツイベントのほか、戦争やテロ事件、自然災害などもこれに含まれます。
このようなメディア・イベントは、それを見る人々に社会の基本的価値を再確認させ、人々の連帯を強化する機能を有しています。

一方で、個人化の進む現代社会では国民が同時性を体験する機会自体は減っています。家族でテレビのチャンネル争いをするような場面は既に過去のものとなり、各々がスマートフォンやタブレットといったデバイスを通して動画を視聴する時代となりました。新聞の購読数は減少傾向にあり、個人がネットニュースを通じて「エンタメ」「スポーツ」「政治」「経済」など見たいものを選んで見るようになりました。

しかし、インターネットを通じたコミュニケーションがナショナリズムを生み出すこともあります。インターネットは不特定多数の人が自由に交流し発言できる公共空間であると同時に、マイノリティへの攻撃や差別で溢れる分断と対立の空間でもあります。
つまり、ナショナリズムを生み出す原因は私たちの身近に溢れているといえます。それが些細な出来事によって刺激され、他者への攻撃や差別につながる可能性をはらんでいます。


【まとめ】

また、社会人類学者であるE.ゲルナーは「ナショナリズムの勃興は国民の自意識の覚醒ではなく、もともと存在していないところに国民を発明すること」としています。

ネーションは一つの共同体として想像され、それは愛を、それもしばしば自己犠牲的な愛を呼び起こします。
著者であるアンダーソンは、国民は水平的な深い同志愛として心に描かれる想像力の産物のために、過去2世紀にわたり数千、数百万の人々が殺し合い、あるいは自らすすんで死んでいったと述べています。

革命や戦争、経済的衰退など、国家体制が危機に瀕したとき、ときの為政者は往々にしてナショナリズムを煽ることで社会の統合を試みますが、このようなナショナリズムは世界的に台頭しつつあり、近隣の韓国や中国も同様です。そして、歴史的背景も相まって、その高揚は日本への反発へと結びつき、その報道や情報を通じて日本の国民感情を更に揺さぶります。
こうしたナショナリズムの連鎖が、紛争や衝突へと発展する可能性をはらんでいることは既に歴史が証明しています。

ユダヤ人思想家のH.アーレントは「悪の陳腐さ(Banality of Evil)」という概念を提起しました。ナチスによるホロコーストを例に挙げ、普通の(ノーマル)人物が思考や判断を停止して行うことで「怪物」へと変貌するのではないかと危惧しています。
このような人物が社会の「ノーマル」となったとき、社会が荒廃していくことはいうまでもありません。前回の記事の「ポピュリズム」にも通ずるところではありますが、私たちは世に出回る情報を盲目的に信じるのではなく、真偽を判断する習慣・スキルを身に付ける必要があります。

なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか。(26頁)

このアンダーソンの提起は、現代に生きる私たちの直面する課題といえるでしょう。

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