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看護師2年目の8月15日を忘れない

看護師になって17年目。
今まで何人の患者(利用者)さんやご家族と出会ったのであろうか。
思い出は数え切れないほどあるが、鮮明に残っている記憶は数少ない。
今私が看護師を続けていられるのは、あの時の出会いと出来事があったから。
看護師2年目の8月15日、あの日のことは忘れてはいけない。
今回は、その時のエピソードをnoteに残します。
*個人情報が特定されないように一部曖昧な表現にします*

プロローグ

私は専門学校を卒業して新卒で付属の大学病院へ就職。
配属は第一希望の小児病棟。
小児病棟での看護は楽しかった。
プリセプターにも恵まれ、成長しているのを実感できる新人時代を過ごした。
2年目になり、産休や退職などで先輩達の数名が夏を前に去っていった。
そうなると大変なのが、夏休み期間だ。
小児病棟の7月〜8月は常に満床状態が続く。
なぜなら、学校の夏休みを利用して手術や検査予定を組むので連日の入退院と手術や検査の件数が群を抜く。
1日の手術件数が10件は普通。病棟は子供達の賑わいも加わり戦場と化す。
勘違いされがちだが、私の配属先は『小児病棟』であり『小児科病棟』ではない。
小児病棟は小児全般を看護する。
よって、小児科・小児外科・整形外科・脳神経外科・耳鼻咽喉科・形成外科等々と多岐にわたる。
時には心臓血管外科も網羅する。
そんな2年目の大戦争の夏、その子との出会った。

出会い

8月に入り、大戦争はピーク。
そして、スタッフも順番に夏季休暇となるため必然と手薄となる。
手薄なもんだから、師長がまさかのシフトを作成。
そう、2年目同士で夜勤を組む暴挙に出たのだ。
2年目は所謂リーダー業務なんて未経験で急変対応も外回り程度のレベル。
そのシフトが提示された瞬間、病棟全体に激震が走ったを覚えている。
問題は、2つ。
誰が『リーダー』を務めるか。
そして、誰が『人工呼吸器』を担当するか。
当時、人工呼吸器を担当していくのは早くて3年目の夏頃。
基本は3年目の終盤もしくは4年目だった。
2年目の私からしたら恐怖と不安でしかなかった。
選べと言われれば『リーダー』を取りたかった。
しかし、『人工呼吸器』になった。
師長が、人工呼吸器を扱えるように5日勤を組んだせいだ。
恨んだことを覚えている。
そして、私は看護師人生で初めて人工呼吸器の患者さんを担当した。
その子は入院時には挿管されていなかったが、痙攣重積を繰り返すため鎮静目的もあり挿管して人工呼吸器が装着された。
私は5日間プリセプターの指導を受けながら、その子に向き合った。
毎晩、人工呼吸器に関する本を読み漁った。
そりゃね、PEEPってなんぞや?の世界ですから。
だが、心は折れなかった。
夜勤の相方となる同期はリーダー業務を必死に覚えていたので励みになったのだ。
私も夜勤に向けて、必死になった。
その矢先、状態が安定して夜勤の2日前に抜管となる。
抜管となり、痙攣も落ち着いたため鎮静も緩和。
あの必死の5日間は。。。

ここで、私は初めてこの子と会話できた。
私「こんにちは。看護師の○○です」
患者「こんにちは。○○です」
この子と出会って初めての会話だった。抜管後の掠れた声。

あの子の夢

掠れた声も徐々に改善して、女の子らしい声へ戻った。
触れていなかったが、『その子』は高学年の女の子。
元気でお話が好きな子だった。色々教えてくれた。
学校のこと、勉強のこと、お母さんのことなど。
その中でも、『夢』の内容はよく覚えている。
その子の夢は『指揮者』だった。小学生の時から指揮者が夢だなんて珍しかった。
理由は「かっこいいいから」とのことで、ここは小学生らしさがあった。
好きな曲は?と聞くとモーツァルトとベートベンと答えた。
点滴が固定してある腕を指揮者のように動かしながら嬉しそうに答えてくれたが、私の内心は点滴が抜けないかヒヤヒヤだった。
徐々に状態は安定して、内服で痙攣もコントロール出来るようになってきたので『退院』を目指せる段階まできた。
しかし、ヘパリン起因性血小板減少症(HIT)となり、治療追加。
結果的には抗凝固療法を行ったが血栓が出来てしまった。
そして、8月15日に血栓除去術を行うことに。
私は前日の14日が夜勤入りだったのでもちろん担当。
夜間帯はバイタルサインやフィジカルに変化なく経過。
滞りなく日勤へ引き継いだ。
血栓除去が終われば退院が近かったので、女の子は『お家帰れるから、今日頑張る』と純粋な可愛い笑顔で手を振ってくれた。
私も手を振って応えた。「頑張って!またね!!」
これが最後になるとは知らずに。

悲しい退院

その日の夕方、病棟から着信。嫌な予感がした。インシデントか!?
99%の2年目の看護師は、この電話の内容はインシデントだと思うだろう。
しかし、内容はもっと辛かった。言葉は悪いが、インシデントであってほしかった。
急変してお亡くなりになったと。
血栓除去中の急変で救命出来なかった。
当時2年目の私には状況が理解できない内容。
普段は急変をしても小児病棟で治療を行うのだが、今回はコードブルーで救命センターへ向かったのだから壮絶な状態だったのだろう。
悲しい無言の退院となった。
本来なら、退院して学校に通い夢に向かって元気に歩む未来があったはずなのに。
『無力感』というものを初めて感じた瞬間だった。

救いの言葉

私は、あの日以降の数日間はバーンアウトに近い状態にあった。
後日、親御さんとお話し出来る機会があり、「どんな時でも優しく関わってくれてありがとうございます。○○も楽しく看護師さん達と話せて嬉しかったと思います。これからも素敵な看護師さんでいてください。」と言っていただけた。2年目で無我夢中だったので、満足度の高い看護が出来たとは決して言えない。
悔しかった。
でも、親御さんの一言で前に進めた。
そこから小児の人工呼吸器管理を勉強して、スキルアップがしたくてNICUとERも経験した。
0歳〜100歳、500g〜100kgという幅広く対応できる看護師になるターニングポイントであった。
あの夏、指揮者になるのが夢だった笑顔の可愛い女の子を担当していなかったら、ここまでやれてなかった。
私は○○ちゃんと親御さんに救われた。

言葉で人を救える。

エピローグ

あれから約15年。
私が患者(利用者)さんやご家族を救える側になり続けられるように関わっている。
それでも未だに『無力感』を感じる日は少なくない。
まだまだ未熟。
私は看護師としての成長を止めない。
そして、2年目の8月15日を私は決して忘れない。
今、彼女が生きていたら25歳を過ぎている。
指揮者として活躍している女性になっていただろう。

モーツァルトの曲を聴きながら、この記事を書いている。
最後に聞きたい。
○○ちゃん、私は素敵な看護師になっているかな?

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