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開眼・半眼で坐ることについて。

はじめに
坐禅では開眼、そして半眼で坐る。
曰く「眼は開いたまま1m程先の床(壁の場合は45度ほど下)に視線を下ろし、自然な感じでまぶたが少し垂れたような薄目で…」などと。
坐禅会などで質問などを聞いたことがないのであまり気にする方はいないのかもしれないが、個人的には少し気になって“つぶらないんだぁ”と思ったのを覚えている。
(例えばアニメ『一休さん(大人じゃないほうの)』とか。昔ちょっと習っていた武道では始めと終わりに黙想(もくそう)と言って正座して眼を閉じる時間(ほんの短時間だったが)があった。後で知ったことだが実際多くの瞑想法では閉眼が多いようだ(蝋燭の炎やある文字などを見つめる瞑想法もある)。ちなみに眼をつむる・つぶるを漢字では瞑ると書く)
時たまにある説明で意識の散乱や眠気を防ぐためというのがあるが、ならば閉眼が主の瞑想はどうなるのか。瞑想との違いの1つに言いながらそんな…
少ない経験ではしっくりくる説明を聞いたことがなく、本でもあまり目にしたことがない(玄侑宗久師や藤田一照師などはあり方や効果について少し述べられている)。
前置きが長くなったが、ではなぜ開眼・半眼なのか。

1.姿勢を保つ
坐禅において大切に云われる“姿勢”や“正身端坐”。
以下、これに関わること。
①意識や気持ちの違い
姿勢を調えることについては、ネルケ無方師が「姿勢が変わると気持ちも変わる。自分=頭(脳)と思っていたのが身体と繋がり、それを含めての自分なのだと気づいた」と体験を語っておられる。
別に「気をつけ」や斜め上を見上げた姿勢を勧めるつもりはないが、何気に姿勢の影響は研究でも明らかになっているらしい。
私自身はそこまで明確に感じたことはないが、この姿勢でいる時はしゃんとした心持ちがするのはあると思う。
(時には腰に手をあてて上を見上げ笑顔になろう☺)
②呼吸のしやすさ
そして何よりこれかと感じている。
坐っていると、思考や感情のほかに五感、特に呼吸や諸々の体感にも意識が向きやすくなる。
いわゆる「いい姿勢:気をつけの姿勢」で力んでいるのではなく、この姿勢に無理なくいられている時は呼吸がしやすくて、鼻から下腹部(実際に息が通るのは肺=胸部だが)まです~っと通る感覚がある。
つまり、呼吸を観るにも(または気にしないのにも)いいのかなと感じている。
③これらのための開眼
この①と②のためにはバランスと鉛直(地面に対して垂直)が大事で、そのための平衡感覚は内耳にある三半規管が司っているというが、視覚の影響も相当に大きい。
手品やトリックアートに動画など、視覚(と脳の補正)への働きかけで簡単に乱されるし、そうまでしなくとも単に立って眼を閉じてみるとすぐに揺らぎを感じる。
これは坐っていても同じで、どんなに安定した坐り方でいても胸や背、骨盤辺りにささやかな動き・揺らぎがあり(呼吸などによる)、気づいたら何気に傾いていることもある。
どの位の関与かは判らないが、眼を開いていることで自動的に視覚による三半規管の働きを補正する働きが生じていると感じる。
これらが無理なく・力まずにできていることを、正身端坐(あくまでも外面的な意味で)と云うのではないかなぁと思っている。
(私は日頃の姿勢などのせいか、首・肩の力み・張りが抜けない(-_-;))

2.開いている(オープンでいる)
坐禅とは、いわゆる無心とかゼロとか漫画の書き割りで表された「シー・・・ン(手塚治虫先生が初めて用いたそう!?!)」ではない。たぶん…。
手には印を結び、足を組み、見えたり聞こえたりしていながら、手も足も口も出さない。
その上で、それら(眼耳鼻舌身の五感全てと意)を閉じずにいて、入ってくる・浮かんでくることを「払わず、追わず」に、何もしないことをする行い。
(実は未だに何それとも思っているが…(^^ゞ)
閉じていても光の加減などが感じられるし、どのみち映像が多々浮かんでくる(記憶などのイメージなど。これは眼でなく意からか)が、とにかく耳を塞がないのと同じように眼も閉じない。
(どうか、来るもの・浮かんでくるものをとにかく受け容れて、かつそれに捕らわれて関わらずにいられますように)

3.視覚以外の情報量を増やす
①五感の平均化

眼だけでなく五感を開いていて、かつそのそれぞれに意識を置いていたとしても、視覚からの情報量はとても大きい(8割を占めるとも言われている)ので、他の感覚を意識しやすくし、眼からと耳鼻舌身から入る情報量を均す方向へ向ける(それでも差は依然として大きいが…)。
そして普通に開いていたらあれやこれや目につき気が散ることもあるので、くゎっと開くのではなく半眼とする(この辺り自動的というか何となくそうなっていく感もある)。
視線の先は集中対象ではないので、焦点を合わすのでなく何となく開いて少しぼやけたような状態。
結果論かもしれないし、僭越過ぎるが一理か0.01ミリ位はあるかも(もしかしたら面壁にも似たような効果があるのでは…)
②視線
よく45度ほど下にと言うが何故なのか、誰かが“その時”にそうだったと示されたのか。
これもよく判らない…。
たぶん厳密なものではなくて、ある先人が落ち着き所の目安として示してくれたのかもしれない。
私の場合、45度だと視線につられて頭部が前傾しやすく感じるので少し下にしておき、そのうちに水平やや下から35度ほどの間のどこかに落ち着いていることが多い気がする。また、時々垂れたまぶたの裏側に視線が行っていることがある(そこが視線の中心というだけで焦点は広めなので視野の下隅は外が見えている)が、これもあまりこだわってはいない。

余談だが、有名な雪舟の『慧可断臂図』。これに関しては不思議だと思う。
洞窟の岩壁に面して坐禅している達磨大師に、弟子入りを請う慧可がその覚悟を示す重い場面だが、気にかかるのは大師の眼が斜め上を睨んでいること。
絵の奥側にいる大師を見ている慧可の視線も同じく斜め上を向いた構図なので、2人の視線を平行とすることで狙った絵画表現があるのかもしれないが、禅の高僧でもある彼は何故こう描いたのだろう…

おわりに
坐禅を始めた当初に少し感じたこの疑問は、慣れたのと上記のようなことをぽつぽつ考えてからほとんど気にならないでいるが、時々思うこともあるので書いてみた。
そんな時はあえて眼を閉じてみたりするのだが、半眼に慣れているせいか単なる違和感しかなくてすぐに戻している。
いったい答えはあるのか。
坐禅儀などで古から云われてきていることなのでそもそも考えるべくも、こだわることでもないのかもしれないし、相変わらず坐っていてもいなくてもわらわらと湧いてくる妄念の一つかもしれない…。

お読みいただきありがとうございます。
不勉強な考えで恐縮しています。
こんなこと考えているよりも実践し、少しずつでも学びつつ、坐禅を続けていければと思っているのですが……
ご意見やご感想などいただけたらうれしいです。

《2024.9.9追記》
久しぶりに行ったヨガで瞑想したこともあって、試しに目を閉じて坐ってみたら、やたらと違和感があって10分程で元に戻した(慣れの問題かとは思うが)。
ウトウトしてまぶた下がるのは気にならないのに(^^ゞ

結局のところ、姿勢や目線は固め過ぎず自分なりにひとまずの落ち着き所を持っておく程度でいいのかなと(どのみちその都度微妙に違うのだし)。
などと思いながら久しぶりにこれを読み返したら、答えが書いてあった(^^;;
多謝。

https://buddhismare.net/what-is-zazen3/#container


それはそれとして…、達磨大師の上睨みはやはり気になる。
ごく偶にのことだが、自分でもあの絵ほどではなくても上目的になってることがある。
「その時はそう」的に気にしないようにはなったが…(^^ゞ

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