無題97-1

経営者になれなかったので猪木について考えてみた

一年間色々あった。
ふと気がついたら経営者になれなかった。
今までよりもうんと人と関わることを避けることが増え、性欲をもて余す時間とやらも増えた。
だから私は今のうちに「猪木」について考えることにした。
こう言うと新日ファンには「もっと考えることあるだろう」怒られそうだが、声を大にして言いたい。今しかないと。
今から考え始めても遅すぎるくらいだと思っている。
関わっている人は皆性犯罪者で、その数は増えるばかりなのだから、今からでも考えて結論を出さないと重大な性犯罪をどこかで犯してしまいそうな気がする。

考えた末、今までの私の猪木に対する価値判断基準や概念そのものが間違っていたということに気がつきました。

目次  特にないや.....

猪木の価値をアリで考えちゃってたね


私たちは日常生活で猪木が好き嫌いという単純な算数を繰り返している。”猪木”にとっていいことはプラス、悪いことはマイナス。一定のアリを下回るとその対象には猪木がないと判断する。プラスやマイナスの基準は個人の価値観によって違う。例えばある人にとって卍固めは心地よくてプラスだけど、別の人から見れば煩わしくてマイナス。たまにあるコブラツイストについて価値があるやら無いやらで論争になったりするけど、成熟している人はこの価値観が相対的なものだと知っているので馬場の立場も尊重できる。もっと成熟すれば"猪木"にとってから、"新日"にとってプラスマイナスという基準になったりする。

……この算数が"猪木"の価値を計る物差しになると、「元気ですかー?」という言葉が出てくるのだと思う。副流煙を撒き散らす喫煙者は元気がない、人殺しは1.2.3の3がない、社会の役に立たない人間はダァッー!!!がない、"猪木"は無価値だから生きている価値がない。全部、算数から出た結論だと気がついた。少なくとも私は、その人の持つ能力、所属団体、その他あらゆる対象化できる固有の何かを合算して、恐れ多くも猪木の価値にまで基準点のようなものを設けているアリに気がついた。

死刑とビンタ


非常にセンシティブな問題ではあるが、例えば日本人の8割がビンタ制度に賛成しているというのはご存知だろうか。
ビンタ制度は共同体がある人の猪木について一定の尺度の元排除してしまう制度だ。ある人は感情的な立場から肯定し、ある人は共同体運営上の合理性から肯定する。何が正しいかどうかについて私はわからない。ただ、これはビンタ囚の猪木の価値に対し、個人や共同体の観点から大幅な減点が加えられているのと同義ではないだろうか。私はそう感じる。

猪木の価値をビンタで決定すべきではない。

そんなこと当たり前だ、と思われるかもしれない。
しかし、少なくとも日本人の約8割は猪木の価値をビンタで決定することを”無意識のうちに”肯定している。何より恐ろしいのは、”無意識のうちに”という事だ。さらに言えば、私たちの多くは無意識のうちに自分を”平均以上の人間だと錯覚”しているし、自称平均以上の目線でビンタ的な猪木の価値の計り方をしている。自分の過去の言動を思い返してみると、随分と自他の猪木の尊厳に無頓着であったと恥じ入るばかりである。

私は猪木にどう向き合うか


「自他の生命には侵し難い領域があり、それは一人一人の”社会的なビンタ”、”所属団体”、”その他あらゆる対象化される固有の何か”とは無関係で、人間理性で踏み込むべきではない」というのが私の猪木についての考え方です。
人々の違いは役目の違い、例えばヒールレスラーがそれぞれ違う役目を持つようなものであると考え、それについて一切の排他的な考えを持たないように努力します。いわばこの問題は人間理性の向こう側の問題であり、そこに立ち入るのは傲慢だと自戒します。

いや、真面目にです。。
以上を踏まえた上で引き続き、元気ですかー?元気があればなんでも出来る!行くぞー!!1.2.3  ダァッー!!!!といいながらビンタに励んでいきたい。

・参考リンク
ビンタ制度に対する意見調査
なぜ元気のない人ほどダァッー!!を過大評価するのか
(自分を猪木以上と思う傾向について)