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生きてるうちに全てが解るって誰が言ったの?

「人生は冥土までの暇つぶし」

という言葉に出会ったのは、人間が住む日本で一番南の島、沖縄県は八重山郡の波照間島の小さな食堂のお手洗いだった。
何の気無しに、その言葉が書かれたカレンダーを見て、暇つぶしねぇ、、と思ったけれど、何となく、この言葉をいつか忘れてしまったらいけないような気がして、その次にお手洗いに行った友だちに、「トイレのカレンダーの写真撮ってきて!」なんて、なんとも大雑把なお願いをしたのを思い出す。

一年後の今、七畳のワンルームで、私はその言葉が示す言葉の本意を知ろうと足掻いている。
アラサーの門をくぐった若干26歳のわたしが、現時点でその言葉と会話して見つけた、その言葉の本意はこうだ。

きっと、冥土まで行ってしまえば、嫌でも世界の本当の顔が見えるんだよ。

ということ。
だから、生きているうちは世界の全てを手の内に収めようなんて思わなくていいから、知らないことを知ろうとする勇気や、好奇心を持って世界の顔に近づいてみるのはどう?と問いかけている気がしてきた。
例えば、今この瞬間から私たちから、好奇心や学びへの欲、食欲、睡眠欲、性欲、その全てを奪い去ったら何が残るんだろうと考えてみた。
きっと、眼は見えても、世界はグレーで灰がかったように見えるんじゃないかと思う。
そう、私たちは何も感じることが出来なくなるかもしれない。

何かを学び続けていく中には、目を背けたくなるような残酷な真実の瞬間に出会うこともある、今も世の中で起こる大小を問わない争い。
もしくは、大自然の前に圧倒的無力さを感じる天災。そして、今、世を席巻する感染症。
それでも、私たちは、そんな悲しさからも何かを学び取って生きてきたと思いませんか。
そして、そんな世の中に負けずに、新しい生き方を探し求めるたくさんの人がいる。

「風の時代」

と題される、今は、答えのない時代を生き抜こうとする事を象徴する言葉となった。

生きていれば、全てどうでもよいと感じるような無力感も、涙も枯れてしまうほどの辛さもある。
でも、全てを捨ててしまうことほど、この世界で勿体ないことはない。
ましてや、それは、余裕があることでもかっこいい事でもなんでもない。
映画、「悪人」で娘を亡くした父親役を演じた柄本明さんの劇中の言葉を借りて言うならば

「世の中には余裕ぶって舐め腐って生きとる奴があまりにも多すぎる。あんたには大切な人がおるね?」

何かを知り、知らないことを学ぼうとする心の働きこそが生きる希望。余裕の風も吹かせられないくらい泥かぶって、地を這いつくばって、それでも前に進みたいと願うことが生きる意味なのではないかと思う。

生まれてこの方、そういえば、たくさんの勉強をしてそれなりに、問題の答えを出してきたつもりだったけど、生きていくことへの正解を求められたことは無かったなぁと、思った。
そうであるはずなのに、私たちは、迷いや踏み外しが怖くてつい、答えや正解を知りたくなる。
だから、「迷っていいよ!もちろんだよ!」と言ってくれる人に出会った時に、止めどなく溢れる愛を感じることが出来たりするよね。

人生は、そう、暇つぶしなのだから
肩肘張らずに、もっと楽しく、身軽に自由な心で物事を捉えていっていいと思うし、ワクワクするものに興味津々でも大丈夫。

迷うことが、時に、自分自身を助ける船になるかもしれないから、その船の船長を他人任せにしちゃうのは、なんだか、私の分の暇も一緒に潰してよって言ってるみたいだね。

#26歳が人生を考える
#南の島のカレンダーの話
#波照間島
#ひとりで生きていたならば

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