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「パクリ」と「原作改変」は、どちらが罪なのか

 ひと昔前、「パクリ」がひと際取り沙汰される出来事があった。中止になってしまった2020年東京オリンピックの、公式エムブレムに纏わる出来事だ。
 パクリ、すなわち剽窃(他人の考案した意匠や商標を許可なく使用すること)自体は、言うまでもなく昔から行われてきたことではある。音楽業界においては、「80年代のJ-POPは洋楽パクリの歴史とさえ言える」なんて揶揄されるくらいだ。
 冒頭の出来事は、公式エムブレムが既存のデザインに酷似しているのではないか? →からの、「パクリ」なんじゃないか? 疑惑に発展し、あげくデザイナー自身の経歴や、選出方法に疑義がかけられ、ネット特有のいわゆる「炎上」案件にまで拡がった。
 デザイナー自身については、ここでは置いて於く。

 なぜ、「パクリ」は糾弾されるのか?
 言うまでもなく、「創作」とは労力と才能を要する活動だ。
 創作を志す者は誰しも、はじめは「自分だけのオリジナル作品」を生み出そうとする。そして、ものごとを知るほどに、それがいかに困難で険しい道かを悟る。
 世の中はあらゆる創作物で溢れていて、自分が思いついたものなど、既に誰かがやっていて、自分は「二番煎じ」や「劣化コピー」に甘んじるほかない……
 創作活動を少しでも齧ったことがあれば、「よくあること」だと分かるだろう。
 ゆえに、「真にオリジナルな作品」を生み出すのは、かなりの勉強や努力が必要なことだと、肌感覚で理解できる。

 けれど、世の中には「創作」を仕事にする人間がいる。例えば小説家や画家、ミュージシャンなど、いわゆる「作家」と呼ばれる人たちだ。
 デザイナーを作家として扱うのはどうかという議論はあるにしても、少なくとも「オリンピックの公式エムブレム」に、パクリを望んだ日本国民はいなかっただろう。
 この問題は政治的イデオロギーを孕んで、実際の出来事以上に大きくなり過ぎてしまったのだが、ここでは事実の指摘にとどめておく。

 話を戻そう。
 オリジナルを生み出すことは、とても難しいことだ。けれど、世の中には絶えずオリジナル「作品」を供給し続けなければならない業界がある。ドラマや映画、小説や漫画、音楽など「エンタメ(エンターテイメント)」と称される業界だ。 

 ドラマは、3ヶ月を1クールとして、毎年少なくとも4作品が必要とされる。当然、そんなサイクルで質の高いオリジナル作品など供給し続けることはできない。なので、「他の題材から採ってくる」ということが行われる。すなわち、小説やゲームなど「原作」の映像化、というわけだ。

 オリジナル脚本を作ろうとしても上手くいかない場合、人間は「どこかで見たあの作品」を無意識に模倣してしまうものだ。あるいは、作者がとても良いと思った作品を、無意識になぞってしまう。これは割と誰にも起こりうることだと思う。

 パクリ騒動が盛り上がっていた頃、銭湯の壁画絵師(若い女性)もそのターゲットになっていた。CMのタイアップで彼女が描いたイラストは、界隈では有名なイラストレーターの絵に酷似していた。
 おそらくだが、彼女自身の絵師としての発想力はそこまで突出したものではなかったのだろう。けれど、彼女を有能な絵師として「祭り上げる」ことで、周囲の人間は多くの利益があったのだろう。
 デザインを描けない彼女に、何者かが「これを模倣すればよい」というような入れ知恵をしたかもしれない。

 創作をする者からすれば、そんな行為は信義に悖る、唾棄すべき行為だ。ゆえに、ネットでは「炎上」した。
 そうした数々の事例を経て、「パクリ」が取り沙汰されることは少なくなった。ネットでは、「直ぐにバレる」からだろう。

 代わりに顕著になったのは、「原作改変」だった。

 「ドラマ版『アンサングシンデレラ』に思うこと」に綴ったことの続きになるのだが、毎クール作成しなければいけないドラマを、オリジナル脚本で賄うのは無理があり、原作を求めるほうが「手っ取り早い」ことは理解できる。問題は、原作をキャストや事務所の都合などにより「改変してしまう」ことだ。

 東海テレビ(FX系列)制作の『結婚相手は抽選で』というドラマは、LGBTをテーマにしている。昨今のドラマに倣い、これも原作がある。同じタイトルの小説だ。

 結婚が難しくなっている現代に、政府主導でお見合いをさせるという設定のもと、男女がそれぞれ結婚に対して抱える問題を、風刺を交えてコミカルに描く作品。
 だが、ドラマでは後半が、そっくり別の話に書き換えられている。

 原作の小説には、LGBTなど少しも出てこないのだ。さらに言えば、主人公の一人である宮坂龍彦には、潔癖症の描写はない。
 ドラマでは、宮坂がしきりに手を洗ったり自前の箸を持ち出すシーンが執拗なまでに描かれるが、これは見方によっては、潔癖症で苦しんでいる人を揶揄し、貶めていると受け止められかねない。

 大ヒットしたドラマ『逃げるは恥だが役に立つ(以下、逃げ恥)』で、石田ゆり子(土屋百合・役)の後輩社員役である成田凌は、原作の漫画では登場しないキャラなのだが、作中でゲイであることを告白し、彼らなりの「関係」を模索する様が描かれる。
 『逃げ恥』におけるLGBTが、あくまでサイドストーリーであるスタンスを貫いたのに対し、『結婚相手は抽選で』で描かれるそれ(と宮坂の潔癖症も)は、完全にそちらがメインになってしまい、ほとんど別の物語になってしまった。

 同じく大ヒットしたドラマ『野ブタ。をプロデュース』では、かなり大胆な翻案が行われていたにもかかわらず、原作とは違った魅力を引き出していた。
 まったく異なる二つの作品に共通するのは、やはり「作品の本質を捉えて良いものを作ろう」とする気概ではないだろうか。
 「パクる」のは論外。「原作改変」にしても、そこに原作に対する深い理解(リスペクトと言い換えても良い)があるかどうかが、「メディアミックス」と呼ばれる商売の仕方において、非常に大切な気がする。

 現在の、小説または漫画を原作に採った実写ドラマ化は、言ってみれば「二次創作」に過ぎないのだ。二次創作の世界では、原作へのリスペクトの無い作品は、顧みられないどころか、場合によっては非難対象にすらなる。
 テレビ局の制作陣は、おそらくそこまで考えてはいないのだろう。結局のところは「使い捨てられるドラマ作り」しか出来なくなっているのかも知れない。

 毎クール「使い捨て」を作るくらいなら、いっそのことドラマ制作など辞めてしまえば良い。コロナ禍で収録が出来なかった時期、過去にヒットしたドラマの再放送を行っていたが、そちらの方が視聴者の評判は良かった。
 それは当たり前で、誰も「使い捨て」を好んで観る者はいないのだ。

 したがって、タイトルに対する答えとしては「どちらも同じくらい罪」である。
 創作に対する「冒涜」だ。

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