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〈エッセイ)私たちは「歌う壁」を愛せるか。

 「A先生は怒っている。黒板に拳を叩きつけ、普段の温和な様子とはまるで違っていた。顔を警報ランプのように赤く染めながら、教室の壁を抜け、廊下全体に轟かすような声で私たちを叱責している。」それまで多発していた私語は止み、グラウンドで行われている体育の授業を気にする生徒はもう誰もいない。その時、近くの空を飛んでいたヘリコプターは消えた。

 最近ネットで、地域の老人が「近くの保育園の園児の声がうるさい。」と訴訟を起こした。という記事を見た。私は「年齢の割になんと器の小さい老人だ。」と思った。身近な話でも、私が中学生の頃、昼前の授業時間で体育祭の練習をしていた時に、これまた地域の老人が「騒音」を出すなというクレームを学校に対して言った。結果、その時間帯での練習はできなくなった。その時も「人間というのは最期にも“私はここにいるぞ”と産声をあげるのだな。」と当時、正しく中二病をわずらった私は思った。

 しかしこれは老人に限った話ではない。おはようと言って響く工事の音、低音の足りない珍走車と化した選挙カー、犬の遠吠え、ピッチのずれたショパン。私たちはこれらに対して何か抗議することはないが、嫌悪感を持ってしまう。

 こういった理由の一つとして、まず日本の人口密度の高さ、家屋間の狭さがあると考える。特にアメリカ合衆国と比べると分かりやすく、音楽というものに焦点を当てても、日本ではマンション、一軒家問わず楽器練習を行う時には、どうしても近隣を意識せざる負えない。比較して、アメリカは、人口密度も低く、家屋間も充分に取られている。それによって自宅の車庫などでの演奏も可能になり、そこからガレージロックなるジャンルまでもが生まれた。対し、堂々と音を出せない日本はEDMをはじめとした電子音楽が早々に受け入れられたのではないだろうか。

 また、ある時代を境に人間は明かりを身の内に置いた。これもいわゆる「ご近所問題」が起こる理由の一つだと考える。それまで、太陽が昇っている間だけ労働をして、沈むと眠りについていた時代とは違い、人はその身のうちの灯によって、それぞれの夜を生み出せるようになった。明かりは暗闇でも文字を浮かばせたり、手に影を持たせる。同じ地域で生活して、同じ時間を送っていても、一日中、夜を過ごす人と完全に夜を消してしまう人が同時に隣在する時代になった。そういった「ズレ」が私たちに嫌悪感を抱かせるのだろう。

 では何故私たちは外からの音を嫌うのか、それは自分の生活にとっての騒音、つまりは「ノイズ」となるからだろう。ノイズはその人のペースに影響を及ぼす。それは家屋に限らない。仕事帰りに疲れて電車で寝ようとする時に、赤ちゃんが泣く。上映中の映画館で他人の会話が聞こえる。これらの厄介な点は遮断することが難しい所だ。速さというものでは音は光に劣るが、こと人のキャパシティを脅かすものでは音が勝る。

 であれば私たちは「無音」を求めるのか、「無音」を愛せるのか。否である。と私は考える。人間は大変面倒くさい生き物で、心地いいノイズがなければ生きていけない。とある研究所で、完全な無響室を作り、そこで一人の人間がどのくらいの時間、滞在できるか実験をしたところ、早い時間に自分の心音や呼吸音を意識しすぎたり、幻聴なども聴こえはじめ、発狂し、足早に部屋を退出したそうだ。そこまででなくてもバッハの「G線上のアリア」には安眠効果があると言われているように、私の母もテレビをつけながら寝ると、早く眠れるそうだ。改めて考えるとこれは至極当然のことで、私たちの生活は「無音」とは離れた位置にある。比較的静かな寝る時でさえ、自身の心音や時計の秒針を意識する。つまり私たちが求めているのは無音ではなく「規則的な」ノイズである。規則的なノイズは他のノイズを消してくれる。勉強する時にラジオを聴いたり、電車の中で眠るためにイヤホンをして耳慣れた音楽を流す。

 しかし私たちは今まで、様々なノイズに悩まされてきた。それは何故か、それが「不規則的な」ノイズであるからだ。不規則的なノイズ、他者のペースで刻まれるノイズ、壁の外から自身の内へと響くノイズ。自分が眠る時間は世界は静寂でなければならないし、学校の授業はつまらなく、平坦なものであるはず。そういった「壁が歌うはずがない」という思い込みが、本来規則的であるノイズを不規則なものにしてしまう。

 人と人とが異様な形で近く関わりあう社会。生まれるノイズは音だけではない。それは光だったり、臭いだったりする。つまり私たちは絶え間なくノイズに囲まれている。先生が顔を赤くして、モノで大きな音をたて、大きな声で話していると、学生はその先生が「怒っている」と認識する。人が話をしているということは同じであるのに、それが大学の講義や平坦でつまらない学校の授業になると、私たちはそれを規則的なノイズと認識して、それを子守唄にして眠りについたり、内職やスマートフォンをいじったり、友人と世間話をする。

 その中でも、インターネットが普及したこの時代では、離れていてもノイズを発したり、受け取ったりできるようになった。更には、そのノイズ送受信機を肌身離さず持ち運びできるようになった。私たちがSNSでスクロールしていく情報一つ一つがまさしくノイズであり、何気なく呟いた一言が誰かにとってはノイズだったりする。しかし私はここで「人に言われて嫌なことは言わない」だとか「SNSでの発言には気をつけよう」だとかを言うつもりはない。人はノイズ無くしては生きていけない。

 それは藝術作品でも同じで、ノイズ無くして生まれた作品はどこか物足りないだろうし、誰に対してもノイズとなり得ない作品に価値はないと私は思う。

 全人類監視社会。何をしても誰かに見られ、目に入ってしまう社会。いつどこにいても誰もがノイズを発し。ノイズを受け取ってしまう社会。ノイズに囲まれ、その不快さを消そうとすると更にノイズが生まれてしまう社会。そんな社会で私たちができることは、ノイズを愛することだと思う。他人が出すノイズを理解して、それが音楽に変わることは難しいかもしれない。そうしようとする姿勢もおこがましいと思えてしまう。だからノイズはノイズのまま愛してしまおう。他人を理解するよりも、他人を許容してしまおう。「愛する」ということはそういうことだと私は思う。

 

きっと先生は怒っていなかったかもしれない。熱くなる想いのあまり、授業に力が入っただけかもしれない。でも今はそんな事、どうでもいいけれど。

 そう思ったとき、近くの空で、鉄の羽が、風を切る音が聞こえた。



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