こいのり

軟弱だとか怠惰だとか言われればそれまで。

思いつきで書く。優しさや愛は軟弱だとか怠惰だとか言われればそれまでかもしれない。

いじめられてやり返さないことや、誰かのよくないところを許したり受け入れたりすること。傷つけないこと。私達は悪とか弱さに対して、積極的に正したり強めたりするべきだろうか。

十字架は惰性じゃ成せない所業だと思う。確実に意思がそこに伴っていたと思う。「黙し引かれていく羊」とは言うが、やはりそれは選択だったのだ。でもそれを、「受け入れる」という行為が積極的で、そこに大きな意思があることに、どれだけの人が気がつけるのだろうか。

境が分からなくなることがたくさんあって、結構困っている。自由意志による恋と、霊による愛と。怠惰と愛と。許容と諦めと。心と霊と。優しさと弱さと。強さと横暴と。

正しくありたいと、物心ついたときから思っていて、3歳の時父母に「バカと言ってはいけない」と説教をかましていたような子供で、小2くらいまで人にバカと言わずに生きて、小3からの言葉だったが、今はもう、すっかり自分のものになっている。

バカ。

恋が一番難しい。こればっかりはやっぱり神様に文句を言いたくなってしまうほどで、理解しがたいぜマジでと思う。ただ私は神の前に正しく生きられたらそうしたいので、自分の意識の及ぶ範囲ではやっぱり、神が何を望んでいるか考えて行動したいのだ…でも弱い…弱いので祈るのだけども。

そうだ、私は多分祈らないならば軟弱で終わるのだと思う。私が弱いときに、私は強いというみことばがあるがそれはまさに弱さを認め神に頼ったときに、全治全能の神は快く助けてくれるので最高に強くなれるぞ、という意味だ。祈ろうな

祈らないならばたぶん、私の恋はずっと不毛なままなのだ…?ろう。

この世界で誰が恋をして祈るんだ、周りにいねえんだよ仲間が、そこでピンポイントに切実な人間が、なんで皆「付き合いたい」と思ったときに既に行動は終わってるんだよ。プロシュート兄貴か?冗談じゃないぜマジで。クリスチャン、ノンクリスチャンと付き合うなよ。あとあとめんどくせんだよ。あとあとめんどくせえの目に見えてるのに、目に見えてるのにやっぱ無理なんだろな。分かる、葉掘りにはキレるけど根掘りはすげえ分かるぜ。あーあ。

恋は絶対善なんかじゃねー!!!!恋は絶対善なんかじゃねえんだよーーー!!!!!むしろ試練なんじゃね?!くそ!見分けがつかねえよ!境が分からない!境が分からない!!ああ!!

バカやろー。これいるか?この機能いるんですかね?不義の恋とかせざるを得ない状況いるのか?ましてクリスチャンとか?いるか?人間全体に適応されるの、フェアか?神様。とか言っても変わらないし

別に変わらないんだろうし。ピンポイントでそこに誠実だろうが切実だろうが、多分。おかしいな。おかしいよ。おかしくね?おかしくないか

いや変わらないってことはない、多分。正しくあることは未来の自由に繋がるはずなのだ。そう思う。正しさの中にこそ、自由は確立される。誰かの自由も作れると思う。抽象的でいい。分かるとこまででいいんだよ…だからもうつまり、神様に、友達について超お祈りしてプレゼンをしまくるしかない。楽しすぎ。皆天国に入れるように頼み続けたい。私がアピールしまくるので、皆はよきときにサクッとキリストを信じてくれたらいい。願わくば。グレイトフル・デッド!

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