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誕生から小学六年生 1998.0403~

今日、コロナウイルスによる外出自粛のため、寮で自粛しているだけではもったいないなと思い、時間の使い方についてふと考えた時、note書いてみようとチャレンジしてみました!

noteを書くにあたり初回ということで自己紹介します。まずは、小学校を卒業するまでです!

1998年4月3日大分県で生まれ、千葉県で育ち、中学から現在まで東京で寮生活をしています。

3歳年上の姉が通う幼稚園にレスリング教室を開催している先生が来ていたことから、体験教室に通い、当時3歳の私は、何も知らずマット運動をやっていたそうです。

年中で初めて全国大会に出場すると、準優勝し、翌年の年長では、全国大会初優勝しました。小学校に入学すると、周りの友達は、サッカーやソフトボールなどメジャースポーツに取り組む子供が多く、自分もその影響からか、レスリングを辞めたくなり、サッカーや野球をしたくなった時期もありました。

母親に相談すると、もう一度レスリングで全国大会を優勝したら、「やっても良い!」と言われました。しかしながら、小学1年生で迎えた全国大会で私は尽く決勝で敗れ準優勝という結果に終わってしまいました。
負けたにもかかわらず、母には、「太朗くんの好きなことをしていいよ。」と言われました。悔しい思いをしたせいか、幸い今もこのように大学でレスリングをしています。

その後、リベンジを果たし、小学二年生では全国大会優勝をしました。小学校の成績としては、小学三年生で準優勝、小学四年生五年生六年生で優勝3連覇しました。また、小学四年生から行われる全国選抜でも六年生までに3連覇しました。小学校を卒業するまでに、合計8回全国制覇をしました。

その背景には、努力はなく、ただひたすらレスリングが好きという気持ちがレスリングに取り組む原動力でした。

レスリングの事を述べましたが、小学校時代に様々なスポーツに取り組みした。

やりたがっていたサッカーは、あまり記憶にはありませんが、数回通っただけで行かなくなった気がします。

小学校から夏にプールの授業をやる際、泳げなかった私は、女のが泳いでいるのに恥ずかしいと両親にお願いをしてプール教室に通いました。

小学校の部活では、金管バンド部やサッカー部、水泳部、陸上部に所属していました。結果を残せたのは陸上部の時に取り組んでいたハードルで松戸市の大会記録を出した事です。今でもあの興奮は鮮明に覚えています。


三年生の11月からラグビーを始めました。松戸ジュニアラグビースクールに所属していました。ルールもわからず、ひたすらボールを追いかけていました。レスリングでもやるタックルはラグビーに生きていました。正直中学からはラグビーをやる事になるとこの時は思ってました。なぜなら、個人スポーツと団体スポーツでは違う魅了があるからです。


当時千葉県では、中学でレスリングを続ける環境が整っていませんでした。そのため、レスリングを続けるか、ラグビーを続けるか大きな分岐点を悩んでいました。第一志望として、レスリング部やラグビー部のある中学への受験を考えていました。週に5回中学受験専門の塾に通い夜遅くまで勉強しました。

身体を動かすことが大好きな私は、何をするにしても一番を意識しています。そんな時に日本レスリング協会からオリンピック強化選手のお話をいただきました。本当に有難い事です。中学から高校まで味の素ナショナルトレーニングセンターに下宿し練習するという最高の環境はまさに私が求めていた環境でした。

私は、オリンピックで金メダルという夢を叶えるためにJOCエリートアカデミーという道を選択しました。

2011年3月11日
翌日小学校の六年生を送る会を控え、当時小学六年生だった私は他の学年より早く下校して、友達と遊んでいました。学校近くの駄菓子屋にいてたくさんのお菓子が床に落ちました。最初はお店の祟りや呪いだと思いました。駄菓子屋の外に出ると、地面が揺れていてその時地震だと気づきました。携帯のワンセグを見るとどのチャンネルも津波警報と余震警報それほどにまで大事なんだと感じました。


健康児で小学校六年間皆勤賞でした!

崩れゆく日本を目の当たりに、不自由なく生活できること、レスリングができることがどれほど恵まれているのかを実感しました。
同時に、レスリングで日本を元気に出来る人間になりたいと強く思いました。この気持ちは今でも変わりません。長くなりましたが、小学生までの私を文字として書き起こしてみました。

#梅林太朗 #レスリング #スポーツ
#オリンピック #東日本大震災 #自己紹介

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