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わたしの誕生日と母の記念日

5月16日はわたしの誕生日だ。
朝目が覚めると、いつも通り、名古屋に住む実家の母からお祝いのLINEが届いている。
母がLINEを使い始めたのは3年前くらいから。その前はメールで。もっと前は電話で「お誕生日おめでとう」のメッセージが届く。
必ず朝一番。
わたしが家を出た18歳の時から欠かさず、すでに30年以上(!!)の習慣だ。

おはよー❤
お変わりありませんか⁉
5◯歳のお誕生日おめでとうございます🍀
元気で過ごせますよういつも祈っています❗
こちらも低空飛行ながら生きていけますことに感謝しています。          
                                                                                                        2021.5.16

毎年似たような文章。
電話の時はちょっと辛かった。
20代前半、わたしがお年頃だった頃は、ケータイ電話なんてなかった。
誕生日の朝だけだは、前日どんだけ飲んで騒いでも家に帰り、母の電話に備えた。今思うと、それ以外の日は何日も音信不通になったりしてたけど、長女気質で根が真面目なのだ(笑)

そんな母からのメッセージをありがたく思えるようになったのは、自分自身が母親になったからかもしれない。
それまで自分の誕生日は、みんなに祝われる自分自身の記念日だと思っていた。
でも、息子が産まれてから、その日はわたしが母親になった記念日になった。

母のこと

わたしの母は専業主婦だ。それは今でも変わらない。
薬学部を卒業し薬剤師になったが、23歳で父と結婚してから一度も外で働いたことはない。
わたしと妹が学校から帰ると毎日母が家にいて、おやつを用意してくれていた。
時には宿題を見てくれた。父が外食嫌いだったので、夕食は必ず家で食べた。

母は躾にうるさかった。というか、いろんなことにこだわりがあった。
猫背で歩いていると背中を叩かれ、食事中に肘をつくとひどく叱られた。
お祭りの着色料たっぷりのりんご飴は買ってもらえなかったし、うどんやラーメンの汁を飲み干すことも許されなかった。
夏休みにはどんなに眠くてもラジオ体操に参加しなくてはならなかったし、熱があっても汗をかいたらシャワーを浴びなくてはいけなかった。

自分がこうすべき、と思ったことは他人に強要し、変えることはなかった。
わたしの息子たち(2人)と妹の息子たち(3人)は、全員小学校2年生の夏休みには、おばあちゃんに九九を叩き込まれた。全て暗唱できるようになるまで許されない。ゆとり教育もその子の個性もお構いなしだ。おかげで、呑気な姉妹は楽させてもらったのだけど。
80歳を超えた父はいまでもおそろしく健脚で、毎日30分の散歩を欠かさない。
大病をして入院していた時ですら、母の監視のもと、病院内を毎日歩かされていた。

わたしが知る限り、母は最強の「変わらない女」だ。
歳をとって少し丸くはなったものの、
習慣化を愛し、冒険を嫌う。
毎朝同じメニューでスタートし、夜は必ずラジオを少し聞いて就寝する。
そんな母が、わたしを東京に出してくれたのはなぜだろう?

記念日を祝う

毎日同じように見える母の生活を、子供だったわたしはつまらないと思っていた。きっと、どこか馬鹿にしていた。
あんな狭い世界で満足するなんて嫌だと思っていた。
でも、息子が産まれて、母のような生活を踏襲する自分にがっかりしながらも、
幸せだった。
毎年息子が成長するのを見ながら、誕生日を祝う。その日は、自分が成長していくマイルストーンだ。わたしの誕生日に届けられる母のメッセージに同じ思いを感じないはずがない。

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そんな母が、英会話を習い始めたのは50歳から、ゴルフを習い始めたのは55歳からだと言う話をこの前はじめて聞いた。今でも細々と続けているという。

ちょっと真似してみようかな。

でも、わたしはどんどん新しいことをやってみるのが好きだし、まわりが変化しても、息子たちがわたしの言うことを聞かなくてもそんなに気にしない。
母とは違うんだと強く思う。

でも、
今年もバースデーメッセージをありがとう。
そして、ママ、母親記念日おめでとう。


#母最高かよ #誕生日 #ありがとう

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