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明日の朝になったなら#6

6時。

長い夜く果てのないように思えた夜は終わりを迎え、部屋は明るさを取り戻した。窓からは夜の冷えを拭っていく陽の温度が広がり、穏やかな刺激に目から順に身体全体を眠気から解き放っていく。
私は鳥の囀りと、自分の身体を挟むふわふわとした温もりに気が付き、そっと右手を動かした。そして、そこが床ではなくベッドであることに気がついた。
(ハルくん…、運んでくれたんだ)
私は目を開けて身体を起こした。窓越しに鳥の囀りが聞こえ、開けてくれたのかカーテンが開いている。
部屋を見渡すと、彼の姿はなかった。その代わりに、一階から生活感のある物音が聞こえていた。
私は起き上がり、一階へと降りた。

「おはよ」
「おはよう。寝不足じゃない?」
「大丈夫。休みでも二度寝したらもったいないから」
リビングに行くと、彼が台所で軽やかな手つきで野菜を切り、私の好きな野菜サラダを作っていた。彼が料理をするところは何度か見たことがあるが、朝ごはんを作るところは初めて見た。いつもは私の方が起きるのが早いため、自動的に私が朝ごはん担当になるわけだ。
「朝ごはん作ったよ。食べよ」
彼が手際よく、皿に野菜を乗せていく。私も頷いて、トースターで食パンを焼いた。
「私にもコーヒー、淹れてくれる?」
「いいよ。砂糖はつける?」
「じゃあ、お願い」
彼が私の分のコーヒーを淹れる。濃くほろ苦い匂いが、お湯を注ぐとともに二人の間に蒸発し、鼻腔に吸い込まれていく。
「はい。熱いから気を付けて」
「ありがとう」
私の前に置かれるマグカップ。縁には水滴が集合し、湯気が私の目の前で引っ張られるような、吸い込まれるような仕草で消えていく。
私は昨夜の記憶を思い出していた。今ではいつも通りの表情の彼も、少し前までは暗闇の中で自分の記憶を責めていた。私は自分に出来るやり方で彼を慰めたつもりだが、それが届いているかどうかは分からない。
口をつけたコーヒーの苦味は、今の私の心とよく似ていた。
「今日はどこに行こうか」
白いテーブルに向かい合って座る。彼はバターがべったりと塗られたパンを齧りながら、私に今日の予定を訊ねた。
「どうしよっか。天気がいいから出かけたいよね」
私が答えると、彼は閃いたと口を開いた。
「じゃあさ、少し前に話したあのデパート行こうよ。何かイベントあるかも」
彼は嬉しそうに話す。あの夜の表情をした彼とは思えない。それが嬉しかったり、どこかリンクしなかったり。
「そうだね。じゃあ行こっか」
「やった!服選んであげるよ」
これからの予定に気分が高まる彼を見つめながら、私はサラダの最後の一口を食べ終えた。

二人で過ごした休日はあっという間に過ぎ、家に帰る頃には星の群れがスパンコールのように輝いていた。
夕食を食べ終えて入浴も済ませた私たちは、寝るまでの少しの時間ゆっくりとしていた。
彼はソファに座り、手帳に今日の出来事を書いている私を楽しそうに見つめていた。
「ねぇ」
「ん?どうしたの?」
「もうそろそろ寝ない?」
私は驚いた。彼の口から、「寝よう」と言葉が出てくるとは思わなかったからだ。思わず私は、ペンを握った右手が止まった。
「え、寝るの?」
「うん。一緒に寝よ?」
彼が照れながら、私の手を握る。とろんとした瞳を見ると、確かに眠そうなことが伝わった。
「いいよ。じゃああと少し待ってね」

真っ暗な寝室。
私たちはベッドに向かい合っていた。暗い空間ではお互いの顔は見えないが、微かに聞こえる呼吸の音で把握出来ていた。
彼は私の手を握って、穏やかに息をしている。私も握られた手をもう片方の手で挟み込み、大きく分厚い手に触れている。
私は彼の手に触れながら、昨日までの彼を思い出していた。
眠れずに、私を寝かしつけてくれた。しかし、彼は一向に寝ることはなく、目の隈を濃くするばかり。
そんな彼を見たくなくて、私は彼に想いを打ち明けた。今の彼を見れば、あの夜には意味があったんだと、思える。
「起きてるの?」
彼の声が聞こえ、私は暗闇の中目を開いた。
「少しね」
「俺の事なら気にしないで。寝れるから」
「そう?なら良かった」
彼のそのセリフを聞き、私は安心した。
彼のすー、すー、という寝息は、私をどこか安心させるものがある。いつまでも聞いていられる。私も何度も、その寝息によって夜をこえている。嬉しそうに眠る日も、泣きながら眠る日も全て。
「ねぇ、ハルくん。起きてる?」
「んぅ?どうしたの?」
私は少し悪いと思いながら、彼に話しかけた。
そして、手探りに彼の頭を探し、ぽんと置いて撫でた。
「え?どうしたのさ」
彼が照れくさそうに言う。私は気にせずに頭を撫でる。
「ん?特に理由はないよ。こうしたいからこうしてるだけ」
「何それ?」
「ハルくんのまねっ」
私はもう少し彼に身体を寄せる。柔らかくて温かい人肌が、至近距離で伝わってくる。何度も感じた距離だというのに、なぜか今日は、これまでよりも愛おしい。この感覚のままでいたくなる。
吐息が重なる距離を感じた時、彼は私に唇を重ねた。彼も私の手を握り、受け止めた。
「懐かしいね。と言ってもそんなに経ってないけど」
「そうね。大学の頃の旅行以来だよね」
私は彼のさらに近くに寄り、二人は完全にゼロ距離になった。体温が高まり、男女を挟む毛布とベッドは二人の体温を閉じ込める。
「あの時は緊張して、鼓動がうるさいくらいだったのに、今では何とも思わないや」
「そうだね。俺たち、もうここまで来ちゃったんだね」
彼は私たちの生活の進展を喜ぶように、しかしかつてあった甘い恥じらいの消失を惜しむように言った。
「ハルくんが大切にしてくれたから、ここまで一緒にいられたんだよ」
私は彼に言葉を贈った。
「違う。ナッちゃんが俺を受け入れてくれたからなんだよ。あの夜でさ、俺、ナッちゃんをさらに好きになった」
彼も、私に言葉を贈った。
「ふふ。もう。彼女としてのことをしたまでだって」
それから私たちは、ひとつひとつ呟くように暗闇の中で語り合った。声だけが近い中での会話は、出会った頃のドキドキを蘇らせた。

「ねぇ、ナッちゃん」
長らく会話した後、彼が言った。
「どうしたの?」
私が返すと、彼は私を胸の中に包み込み、ぎゅっと優しく抱きしめた。彼の体温と胸筋の程よい硬さ、鼓動が逞しく鳴っていた。
「ハルくん…?」
「大好き。大好きだよ」
彼ははっきりと言った。抱きしめる腕の力は、そのセリフを身体に刻みつけるかのよう。
「どうしたの?私も大好きだよ」
私も抱きしめ返す。彼は息を深く吸い、ゆっくりと吐いた。
「こんな俺を、ここまで愛してくれてありがとう。感謝してもしきれないや」
そういう彼の声は、どこか緩み始めた涙腺を堪えているように聞こえた。
「…私も。愛してくれてありがとう。恋の経験が多いわけじゃないけどさ、ここまで大切にされたの、ハルくんが初めてだよ」
私はもう一度唇を重ねる。唇を通じて、お互いの存在と愛情を繋げる。繋がっていることを、確かなものにする。
「俺、これからも迷惑かけるかもしれない。それでも、そばにいて欲しい…」
彼は震えながら私に言った。その瞬間、首元を冷たい線が伝った。
私の答えは、もちろん決まっていた。
「いいよ。あなたなら。私だってそうだもん。その度に直しあって、また恋しようよ」
私の身体が、さらに強く締まる。私は答えるように、彼の背中を叩いた。
「…ありがとう。もう大丈夫」
「うん。良かった」
彼の声が軽くなり、身体から力が抜けた。呼吸も落ち着きを取り戻し、震えもなかった。
「おやすみ。ハルくん」
私は彼の腕の中、静かに目を閉じた。
明日の朝になったら、彼はどんな顔をするのだろう。なんて言葉がくるのだろう。彼の鼓動を聴きながら、徐々に意識が温もりの中に落ちていく。寝息と寝息が重なり混ざる時、夜はあっという間に流れていく。
二人の身体と体温に包まれたそこは、お互いにとって何よりも、心地の良い場所だった。

やがて、私は鳥のさえずりにより目を覚ました。明るい陽が昇り、部屋を照らす。
私の隣では、最愛の人がまだ眠っている。枕を私だと思いこみ、赤子のような姿勢で抱きしめている。
私は彼を眺める。目に映る彼は、どこまで見ても、愛おしい。
「おはよう」
私は声をかけてみた。彼は声に反応して小さく身体を動かし、寝返りをうった。
「…おはよ」
うっすらと目を開けた時、私は彼と目が合った。まだ眠たそうな彼の表情を見て、彼の横に身体を倒す。
「今日、何曜日?」
「日曜日だよ。今日はどこ行こっか?」
私が話しかけると、彼はあくびをしながら私を抱きしめた。
「ナッちゃんのとこがいい」
やっぱり、彼が愛おしい。そう思い、やまなかった。
「いいよ。じゃあもうちょっと寝よっか」
私も彼を抱きしめ、目を閉じた。今度はよるとは違い、お互いの顔がよく見える。
久しぶりに再開した、彼の寝顔。
朝の温かい温度と、最愛の人からの温もりを贅沢に感じながら、二人の呼吸は深くなった。
二人一緒だと、確かめあった格好で。


『明日の朝になったなら』完。

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