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【感想文】6/3 身体を使って書くクリエイティブライティング講座とエトセトラ

6月3日、渋谷区参宮橋。夏日の空は蒸し暑さをもたらし、でもどこかふわりとした風も窓からふわりと入ってくる。午後0時。朝10時から2時間、せいけんさんの身体を使ったワークで緊張が抜けてきた自分の身体を縁側に横たえる。和室は良い。縁側にたっぷり入る日差しと、全開にした大きな窓から見える向こう側の緑が心地いい。私は初めて会う人たちの目を全く気にせず、大きな窓から足をだらんと垂らし、上半身をべったりと床につける。ああ~疲れた。ああ~風入ってくる。気持ちいい。私は疲れるとすぐ寝ころびたくなるのだ。窓の向こうを行きかう他の団体の人たちの喋り声も、鳥の鳴き声も、ましてや隣の隣ぐらいでお昼ご飯を食べる人の音も、私にとって安心できる生活音で子守歌。シアワセだ。このままゴロゴロして終わりたい。

「シライシ先生~」

「シライシ先生~~こないだの作品良かったですねぇ。」

5m程離れた位置からだろうか。誰かが私のことを呼ぶ声がして、はっと上半身を45度位上げて声がする方を振り向く。小野さんだ。こないだの作品、とはオンライン講座の課題で出したたまちゃんの話の事だろう。幾らリラックス出来る環境だからといって、講師の先生の前でこんな格好なのは良くない、と思い、すっと身体を起こした。オンラインの懇親会含め、小野さんのWSを受けるのはこれで3度目だ。極度な緊張感はないけれど、いざ声を掛けられるとびっくりする。振り向くと小野さんがこちらを向いてちょっと笑っている。

「あっ。はい、ありがとうございます。」

身体を起こすや否や小野さんは私の隣に座って

「ここ気持ちいいよね。」

といって、同じ様に足を外に投げ出し、ごろんと横になった。私も今度はちょっとぎこちなく、小野さんの横にごろんと転がり直した。

せっかく話しかけてくれたのだから、気になった事は聞いておこう。と思い、「どういうところが良かったですか?」とか、「私は自分自身のことばかり書いていると辛くなっちゃうんですよね。」とか、そんな事をぽつりぽつりと口にした。やっぱり私は人と会話をするのが苦手で、特にこういう時(好きな人・憧れの人・私に何かを教えてくれる人)に質問をすると、どこか本当に質問したかった事、じゃないこと、を口にしがちな気がする。質問しながら「あれ、これ別にレビューに書いてあった事じゃん」とか「せっかく程度で聞く質問は失礼じゃないか」とか思ってしまう。そんな質問にも小野さんは答えてくれて「人の事周りの事書くのうまいよね」と声を掛けてくださった。レビューに書いてあった事でも実際に言われると、それはそれで有難いものだが、何か他に実際に聞きたいことがささっと出てこない自分のどんくさささに呆れもする。(アウトプットに時間がかかるタイプなんだろうけど)

ただ、この時嬉しかったのは、小野さんが私の横に寝転んでくれた事だ。同じ場所で、同じ様に寝っ転がって、同じ様に足を窓から投げ出して、同じ風に吹かれて、同じ様に床から天井を見上げながら、私の作品について話をしてくれた事。このワークショップは(オンライン講座も含めてね)教える側とか教わる側とか、主催者か参加者か、とか、そんな概念は置いといて、それ以上にこの場にいる人達の存在で成り立っているんだなぁということを感じた。

午後の脳を開くワークもチーム・あるいはペアになって進めて行った。周りの方々の発想力がとてつもなく何度も自分の頭の固さに唸るばかりだった。結局自分の経験をベースとした話しか書けないから、いざファンタジー感溢れる絵を出されても脳が動かない。筆を進めても言葉と気持ちが乖離したまま紙を埋めていく作業はちょっと辛かった。数をこなせばなれるものだろうか。ただ今回は音のワークで筆が進んだのが意外だった。しかし6月のオンライン講座の課題はまだ提出できていない。途中まで書いているのだけどそこから先が進まない。

結局最後のZENマップを経て、私は「やっぱりこれが書きたかったかな~」という、たまちゃんの話の続編を途中まで書いた。ざっくりいうと「新宿で酔っぱらったたまちゃんをサークルの皆で介抱する」というだけの話だ。ZENマップで出てきた「性欲・セックス・不夜城」辺りの単語を拾って頂いたので、その辺りの情景描写に注力して筆を進めた。書く話は決まっていたものの、今回はどこに注力して書けばいいのかで迷子になりかけていたため、拾ってくれたみゆてぃんさんには感謝している。情景描写や人の様子を微分して書いていく作業は、正直言って「ただの作業」だ。いわゆるテクニック的なところで、これは訓練すれば割と書けるようになる。絵で言うデッサンだ。そんな事を、かつて私に文章を書くことを勧めてくれた恩師が言っていた。でも、その「作業」があるからこそ、私は少しだけ楽に文章を書けるのではないかと思う。やっぱり自分の気持ちだけに焦点を当ててごりごり書いていくのは辛い。昔はそんな事をよくやったものだけど、それこそテクニックでもなんでもなく、ただただ全身から迸る感情を文字にし続けただけだった。今振り返っても「よくこれだけ書けるわ」と当時の自分にはその点頭が上がらない。

結局私の書いた文章は情景描写が事細かいという点では小野さんに褒めていただいた。せいけんさんには誰に伝えたい文章かを意識してみてと言われた。他にもせいけんさんから得たアドバイスは的を射ていて、「ああ、自分自身の気持ちを打ち出すことやってねえな、最近」と妙にしゅんとした。(その後めっちゃ胃が痛くなったのは誰のせいでもなく、マジな胃腸炎の前触れだった事を記しておく。)情景描写にウェイト置き過ぎて、自分のどんな感情をどう伝えたかったのかはぼやけたままだったなぁと後で気づくが、でもまぁ、自分が狙ったところを小野さんが見ていてくださったのは良かったなと思う。

それにしても、皆さん心の内から抉る様に自分の気持ちを文字になさっていて、何人かの方はワーク中にぼろぼろと涙を流されていた。その姿を見た後、私はひたすら「ああ、私も昔は良く泣きながらものを書いていました」と若干の上から目線で皆さんに声を掛けていた気がするが、その時は皆さんの書くものに嫉妬していた。心の底から抉って抉って、言葉が絞り出てくることに嫉妬したし、テクニックだけで乗り切ろうと何処かズルをしていた自分がいたことも恥ずかしかった。(ただそれ以上に胃が痛かったのを紛らわすためひたすら頭に出てきた単語を並べ続けていたかもしれない)ただ、その涙もその姿も愛おしく、尊く感じた。もう何年も泣きながら文章なんて書いていないな。

自分の事にフォーカスし過ぎちゃうと生活が成り立たない程崩壊しそうになるんだ。

昔書いた文章を読む分にはいいんだけど、今現在昔あったちょっと思い出すのも嫌だな~という出来事をわざわざ掘り返して書くのは抵抗感がある。小学校の時に近所のマンションの池に上履き何度も投げられていた事や、中学校・高校といじめられてた事や、大学生の時も周りに上手くなじめなかったし、就活もダメだったし。卒業してからもねぇ。心身はずたぼろだし、結局本命になれないままセフレ止まりの人の話とかねぇ。そんなんばっかり。もう絶対結婚なんかできないし家を出られるだけの収入が得られるとも思ってなかったから、実家に留まって親の介護をして生きていくんだ私はと心に決めた位。でも結局、3年今の同居人と付き合って結婚してしまった。今までは「自分1人の生活じゃあ~自分が傷つこうが知らんわ~家は実家じゃ食うもの寝る場所風呂完備~どうにでもなれ~!!!!!」精神で何を書いても怖くなかったのに、家を出てからはそれが怖くなっていた。何処か私が自分を書くことに没頭したら、同居人との生活に戻れなくなるのではないかという不安が強い。パソコンに向かって書いていることはあくまでパソコンに向かって書いていることだけど、でもその横に同居人がいたら、私が書いている内容まで同居人に伝わってしまいそうで怖い。関係ない筈なのにな。でも、確実に私の書くものや筆力に変化を与えたのは同居人の存在だ。と、しみじみ思う。

不幸なことメンヘラチックな事がないと文章書けないよなんていうのは甚だ嘘だと思っているんだけど、でも、ずっとそれだけを頼りに文章を書いてきた私だ。今はそれだけに頼りきらない、私の引き出しの数を試されているのかもしれないな。

そんな事を感じた1日であった。

PS:ご一緒して下さった皆様、お世話になりました。また、お会いできること楽しみにしております。そして、その時にはパワーアップして、もっともっと面白い文章を発表出来る様、精進いたします。ほんとかな。(笑) 

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