電車の10分で書き終えた文章

 電車、目的地まで10分。今から書いて推敲する。目的地に着いたらやめる。それをする。
 書くことを選ぶのは難しいから「書くこと」について書くことにしよう。
 「書く」というのはなぜ始まるのだろうか。私は日々、日記を書き、このような文章を(ここまで忙しなくはないが)書く。なぜ「書く」のだろうか。それはなんらかの衝撃を受けるからである。「衝撃」を「変化の実感」であると考えてみよう。
 「変化」というのは「変化前」と「変化後」が必要である。当たり前のことだが。しかし、それに加えて「変化前」と「変化後」で変わらない何かも必要である。なぜなら、それがなければ「変化」はそれとして理解できないからである。理解できないということは別に表現できないということではないかもしれないが、いまはとりあえずそういうふうに考えてみよう。そう考えると、ここで必要なのはその何かが何であるか、ということに関する考察である。そして「書く」というのはこのことに「言語の不変性」を用いる。
 例えば、「人生」であればその何かは「個人」である。いくら波瀾万丈だとしても「人生」は「○○の人生」(○○は個人名)というふうに考えられる。そこで語り落とされることはたくさんあると思われているだろうけれど、その「個人」がまったく変わってしまった、というふうにしか語れない。これは限界である。しかもこれは語ることの限界そのものでもあるように思われる。これを支えるのは何か。それは「言語の不変性」である。
 例えば、誰かの概念の変遷が語られることがある。例えば、うーんと、ラカンなどは概念の変遷が速い人の一人だと思うが、彼は「現実(界)」という表現を大きく「変化」させている。詳しくは追わないがとりあえず「変化」させている。しかし、「変化」させていると言えるからには「変化」しない何かが必要である。それはラカンという「個人」に求められることもあれば、ラカンの体系に、もしくは実は「変化」しているだけで共通点があるとか、そういう何かがないと「変化」とは言えない。
 私は「変化」とは異なる概念として「変容」を用いている。あまり明言していないし、あまり一貫していないので気づいていない人がほとんどだと思うが、一応そのように使っている。この「変容」という概念は語るかぎり守らなくてはならない「言語の不変性」ということを見つめることを可能にする。(それだけではないが時間がないのでここではとりあえずこのことを考える。)
 ここでの「見つめる」というのは実は「言語の不変性」というのはある種の虚構に過ぎないのではないかという疑いを持つということである。

 ああ、もう着いてしまう。別に私は忙しくないので書き続けることはできるが規則は守りたいので、冒頭で宣言したことは守りたいのでここでとりあえず終わりにしようと思う。読むのはすぐ終わるだろうけれど、推敲は間に合わないだろう。もう駅に着いてしまった。推敲せずに出すことにしたい。いや、最低限の修正はするが。

 シュー、っと電車が出発する。今日はいい天気だ。清々しい。文章はまだそこまで行っていない。昨日は雨だった。この文章はまだそこだ。

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