1-2-2 アナロジーと解体とエピステーメー

なぜ、他の関係性の学びではなく、対話なのか?そして、なぜ、アナロジーと解体なのか?

僕はこのような問いをアナロジーと解体の対話において解決しようと思います。
僕にとって、この問いが解決されるというのは、僕の思想に通底しているような何か、そしてそれが生み出し得る何か、を示したということと同じだと思います。
では、アナロジーと解体の対話を行いましょう。

まず、アナロジーと解体の会話の場はどのような場なのでしょうか。
「場」と聞くと、僕は複数の哲学者の思想に現れる「場」の思想が類推されます。
ここでは、フーコーとデリダを引いてみましょう。
彼らは構造主義を平面に並べるような考え方だと感じ、その連続性を批判した哲学者として一つの系譜を継いでいると思います。
その系譜にはニーチェやサルトル、またその系譜をおおらかに捉えるとするならばヘーゲルやカント、ドゥルーズなども挙げられると思います。
ここでは、構造主義批判が主のテーマではないので、彼らの想定している「場」というものを考えてみましょう。

まずはフーコーです。

思考の下地となり、思考支える根源的な場=
秩序となるものをエピステーメーという。それは抽象的な一般原理ではなく、歴史的な日付けにおいても、地理的な広がりにおいても限定されたものである。

彼は、思考を支える根源的な「場」として、エピステーメーという概念を導入し、それは歴史や地理に限定されるものだとしています。
対話というものを制限するのは、対話する存在と言語、そしてその対話を記述する存在です。
ここでは、三つの制限というふうに定義しておきましょう。
相手の制限、言語の制限、記述の制限。
この三つです。
僕が特にここで考えるべきだと思うのは、記述の制限です。
相手の制限はアナロジーと解体に至ってはあまり意味のない制限となります。その理由はのちに解明しますが、とにかく相手の制限はこの対話ではそもそも成立していないのです。
言語の制限に関しては、言語の歴史や地理を遡らなければなりません。僕にはそのようなことを論じる準備が不足していますし、第一、今は対話における言語と記述における言語が同一なので、その問題も記述の制限の問題を解いていく過程で、解かれるものだと思います。
それゆえ、ここでは、記述の制限について書きましょう。
フーコーの言うように、すべての知識体系の根源には、仮定が存在します。
それはユークリッド幾何学が他の公理によって否定されも肯定されもしなかったことと同じように、公理系の集合でもあると思います。
つまり、フーコーにとっての場、特に思考における場は、なんらかの不連続性を持つエピステーメーによって、変化し、それに伴う思考もそれに従い変化したという性質を持つものです。
フーコーは大きく三つのエピステーメーを提示しています。
一つ目が、ルネサンスのエピステーメーです。
ここでは、言葉と物の関係は不可分なものとなっており、そこで繰り広げられる思考は類似を基にしていました。
ここで勘違いして欲しくないのは、フーコーがエピステーメーとして捉えた類似と僕の言うアナロジーは違うと言うことです。
その違いは後で説明しましょう。
二つ目は、古典主義のエピステーメーです。
ここで、言葉と物の関係は剥離し、言葉による表象としての物の世界が形作られました。その世界で繰り広げられる思考は、数ある(たくさんの分野の)言葉による表象のうちの整合性をどのように錬成していくか、という志向がありました。
ここで、もしアナロジーを捉えるとすると、アナロジーはたくさんの分野の表象を渡っていくような力を持つ可能性があります。
三つ目は、近代のエピステーメーです。
ここでは、表象それ自身で分節された世界を持つ表象の諸形態よりも、それを支配している言語の内的なメカニズムの重要性が前面に出てくるようになります。そこでは、メカニズムを動かす主体として人間が思考されるようになります。
ここでのアナロジーは、特異性を持ったアナロジーとなります。つまり、ほかの人のアナロジーとは比類されないアナロジーがアナロジカルに認められるようになります。
ここが、ルネサンスの類似とは違うところです。ルネサンスの類似が言葉と物が不可分となったような存在がその存在性を肥大させていくようなものだったのに対して、近代のエピステーメーにおけるアナロジーは言葉と物が分けられたなかで、それらを流動的なかたちで結びつけるような行為となるのです。
それは、言葉の体系や、物の体系のうちでの出来事ではなく、その外でそれらに縛られながらも、そこからの自由を目指し、それらの体系を融合させることで新しさを創造しようとするような営みとなります。

フーコーのエピステーメー的発想に依るとすれば、対話の場とはどのエピステーメーに近いのでしょうか。
フーコーはそれぞれを良し悪しで判断することはせず、ただ不連続な歴史があることを明らかにしたまでなので、近代のエピステーメーを目指す必要はありません。
僕が思うに、アナロジーと解体の対話の場とは、古典主義時代のエピステーメーに近いと思います。
エピステーメーをも移動できるようなアナロジーは一旦置いておいて、ここでは表象のうちでの働くようなアナロジーと解体を対話させてみたいと思います。

次回はデリダの「場」に対する哲学を紐解くことで、よりこの対話の場を明らかにすることにしましょう。

ここからは余談です。
三つのエピステーメーはどのような可能性を見出すことができるのでしょうか。
そこで、三つのエピステーメーの豊かな可能性というものを考えみましょう。
一つ目のエピステーメーにおける豊かさとは、何かと何かの間に類似を発見することです。
その豊かさには二つの力能が必要となります。
つまり、何かを多く知っていること、そしてそれらを結びつける方法を多く知っていることです。
それらを達成すれば、エピステーメー内での豊かさを確保することはできるでしょう。
二つ目のエピステーメーにおける豊かさとは、何かの中に整合性を創り出すことです。
その豊かさに必要な力能はおそらく、整合性を論証することです。
ここでは、「何か」というのは恣意的なものであり、その整合性は「何か」を選んだ人のうちに成立するだけでなく、表象の空間というもっと大きな平面的空間で成立する必要があります。
デカルトやカント、ヘーゲル、フッサールなどはそのような平面的空間を豊かに創り出した人でしょう。
三つ目のエピステーメーにおける豊かさとは、二つのエピステーメーの豊かさを移動するだけの力能を主体として備えていることです。
このエピステーメーにおける豊かさを論証することは、僕の思想に深く潜り込んでいくことなので、ここでは少し控えさせていただきますが、「移動する主体」という発想が僕の実在論的思想の根底にはあります。
この豊かさはおそらく空間的な要素よりも時間的な要素を多く含むような豊かさだと思います。
僕がその系譜に生きていると思う哲学者や思想家は、プラトン、ショーペンハウエル、シェリング、ニーチェ、ヘーゲル、ドゥルーズ、デリダ、後期フッサールなどなどです。
一つ目のエピステーメーの豊かさに生きているような哲学者や思想家が挙げられなかったのは、その豊かさのもとに哲学という形式の思考の営みは行われていないからです。
その領域は詩人的な領域でもあり、そこにはまた別の系譜があるのです。

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