私はなぜよく話しかけられるのか?
私はよく話しかけられます。そのことについて、そのことから何か考えてみましょう。考えるきっかけを作ってみましょう。
昨日、私はこのことを書くためにメモをしました。次のようなメモです。
最後に「これくらいならみんなあることか」と書いているように、私は疑っています。こんなことならみんなあることなのではないか、と。この疑いは私がこの「私はよく話しかけられます」ということを私の特性に還元しようとしているのではないか、という疑いであると言えます。ただ、私はとりあえずそこを通過してみたいと思います。
このようなことはここ何日か書こうとしていました。そのたびに私はある本の題名を思い出していました。それは『挨拶の哲学』です。読んだこともないですし、持っているわけでもありません。しかし、私はそれを思い出していました。
この本を書いたのは鳥越覚生さん。私はこの名前に見覚えがありました。いま、『挨拶の哲学』の紹介文を見ていると著者紹介に次のように書かれていました。
ああ、と思い出しました。私はショーペンハウアーに興味があって、また「無関心」にも興味があったのでこの本をたしかブックファーストで見て、買わなかったもののいつか読むかもしれないと思っていたのでした。『挨拶の哲学』も同じようなものです。
さて、紹介を引用しましょう。春風社のホームページからの引用です。
いま見ても面白そうです。過去に見たかは正直覚えてないのですが。しかし、わざわざ本を通過したにもかかわらず、「挨拶」と「話しかけられる」というのは別のことかもしれません。ただ、それを私によって繋ぐことはできるかもしれません。
私はよく挨拶をします。いや、挨拶というかコミュニケーションを取ります。隣人(家が隣の人ではなくて隣に居る人も含む。)に挨拶もしますし、木とのコミュニケーションも取ります。ある場所に迎えにきてもらうときにイヤホンをつけ、木の揺れるさまを見ていたら迎えにきた人に「さすがに少年すぎます。」と言われたことを思い出します。別に木や隣人に限らず、作品や時間にもコミュニケーションを取りに行きます。取れているかはよくわかりませんが。
私はそれゆえにコミュニケーションを取らない時間も大切にします。やはり私にもキャパシティがあって、ボリュームの限界があります。イヤホンをつけること、私はよくイヤホンをつけているのですが、それは一つの工夫なのかもしれません。
さて、話が一向に進みませんが、上で挙げた八つのエピソードを分けてみましょう。列挙します。
まず、⑥と⑦はほぼ一緒です。それは上にも書いています。これらは④と似ている感じがします。作者が自分の作品について感想を求めているという意味では。私は感想を言いたそうな人に見えたのでしょうか。たまたまそこに居たから感想を求めたのでしょうか。ちなみに⑤の子とはある程度仲良くなって一緒にバス通学する仲間になりました。この「作者と作品の関係」というテーマで言えば、⑧は私自身が作者なので⑥や⑦の「話しかける/話しかけられる」が逆転したバージョンであると言えるでしょう。⑥や⑦は作品の作者が受容者に表現者として「話しかける」パターンですが、⑧は作品の作者が受容者に表現者として「話しかけられる」パターンです。⑤はその意味で極めて微妙なバージョンです。なぜなら、「美術館の人」は表現者でも受容者でもないようなあるような、そんな感じがするからです。ちなみにこのバージョンを理解しやすくするために状況を追加すると、私は一つの絵を一時間くらい?覚えていませんがかなり長いあいだじーっと見て、おそらく顔をしかめたりうろうろ歩き回ったり首をうーんと捻ったり、そういう感じだったので何か助けになればと思って話しかけてくれたのだと思います。しかし、私はその絵を集合場所みたいにしていて、これまで見てきた色々な作品や色々な知識を集結することで受容しようとしていただけで、仮にその絵の背景とか歴史とかを言われたとしてもその集結に重みがのるだけだったと思います。私はその「美術館の人」に「いや、気になるとかではないです。」みたいにそっけなくしてしまいました。ただ、ここで重要なのはそのことよりもむしろここでも「作品」に向かっている二人(実は⑥は二人から話しかけられているので三人なのですが。)として私と「美術館の人」が存在していることです。このこと自体は④〜⑧に共通しています。
さて、ある程度はがさっと持ち上げました。①〜③はどうでしょうか。まず、①は「作品」ではないものの「おっきい鳥」という「作品」めいた存在を二人で見ようと誘われているという意味では似ているのかもしれません。しかし、②はそういうものではありません。何かを複数人で目指すという構造がそこにはありません。いや、「何か」をコミュニケーションそのものであるとするなら、そこにもそれがあると言えるかもしれませんが、②はむしろもっと原初的なコミュニケーションの一例であると考えたほうがよいでしょう。「作品」や「作品」めいたものがなくてもコミュニケーションはできるのです。「挨拶」的なのかもしれません。
さて、ここまでの議論からすると、「よく話しかけられる」というのは「挨拶」も含めたコミュニケーションに開かれているということであり、共に受容することに開かれているということであると考えられます。しかし、問題は③です。このエピソードにも厚みを出しましょう。
これを言っているのはある程度高齢の方、男の人(おそらく)で、私はこの申し出を承諾しました。そうすると、その人は私の頭の少し上に手を置いて、腕時計を見ていました。一分くらいでしょうか。。そうしたあと、その人は私に聞きました。「何歳ですか?」と。私は「25です。」と答えました。するとその人は「じゃあもう働いてるんだね。」と言いました。私は「いやあ、最近退職したんだけどなあ。」と思いつつ、「そうっすね。」と言いました。するとその人は「健康でね。」と言いました。私は「変なこともあるもんだな。」と思いながら家路につきました。
エピソードを厚くしても別に理解が深まったわけではありません。しかし、受容者というよりも共に何かをする者、共-者であると考えるとすると、「健康」を共に生きていこうということであったと考えられます。ほんとに?
不思議さで言えば、③がもっとも不思議です。次に①。私の感覚では。これらが不思議なのは私がすでに「共-者」であることを前提にコミュニケーションが始まっていることです。しかもその「共-者」である仕方が例えば「作品」というわかりやすくそれを見る者感じる者を受容者という特定の「共-者」にするものによって構築されるのではなく「おっきい鳥」や「健康」といったわかりやすくはない仕方で構築されるので不思議に感じられたのだと思います。もちろん、「健康」を目指すのは不思議でもなんでもないかもしれないので、③の不思議さは「祈る」というコミュニケーションの不思議さに由来するのかもしれません。しかし、それにしても結局「共-者」というシステムが断絶ギリギリのところで行われているからだとすると、「共-者」の形態によって不思議さは決まると言ってもいいかもしれません。
ここまで遠回りしつつ整理してきましたが、結局「よく話しかけられる」のはなぜなのかはよくわかりません。というよりも、そもそも私は「よく話しかけられる」のか、それも確かめようがないのです。しかし、私は「共-者」になることにあまり抵抗がないのかもしれない、とは思いました。しかも、「共-者」の形態がいくらか普通でない場合も別にそのことによって抵抗感がぐんと増すわけではない、とも思いました。(まあ、③のときは異様な感じではあったので色々と探りを入れる感じではあったし、周りの人が「なにあれ?」と見ていたのも見ていたのですが。)
ところで、私は「よく話しかけられる」とは思うのですが、それに反比例してなのか、相談を持ちかけられることは極めて稀です。これは関係があるのでしょうか。もしかしたらめちゃくちゃあるのかもしれません。ただ、それを書く元気はないのでヒントになる発言を引用してきましょう。説明はあまりしません。大森荘蔵についての対談での森岡正博の発言です。
私の根本的な「人間観」はここで「近代的な人間観」とは「逆」であると言われている「人間観」なのかもしれません。それゆえに「近代的な人間観」をベースにした相談はごく稀で、「表面性」が強いコミュニケーションの打診は多いのかもしれません。まあ、この論理自体が「近代的な人間観」をベースにしているとは思うのですが。なぜなら、ここまでの話は私の「深いところにある人格」にそういうところがあるかもしれないという話なのですから。
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