未来はどうして未来なのか?哲学者はどうして哲学者なのか?

未来はいまだにこない。
けれど多くのものは未来を根拠にしている。
どうしていまだにこない「それ」を根拠にしているのか。
それは「それ」がそれとして名称できるからである。
未来は、「それ」を純粋に「それ」にしている。
僕はその「それ」を多くの哲学者の中心概念に見つけることができると思う。

ヘーゲルの絶対精神、アリストテレスの不動の動者、デリダの決定不可能性、プラトンのイデア、ドゥルーズのリゾーム、レヴィナスの顔、、、等々
他にもたくさんあるけれど、今の興味の方向に沿うとこのような感じになる。
もちろん、これは煩雑な収集であり、文脈を欠き、正確性に欠けることは理解している。しかし、「それ」をどのように定義するのか。ということに哲学のモチーフはよく現れていると思う。

他にも特徴的なところで言えば、
アリエッティに出てくる猫がそうである。
アリエッティが過去と未来を託した猫には「それ」が「それ」として生きていく別れが生きている。

未来というものは将来ではない。
近頃、未来は将来になっている。
いまだにこない。という意味は死んでいき、まさにくる。という意味がもてはやされている。
占いを本気で信じる人は少なくなったが、まだいる。未来はもう将来になる道から外れることができない。
そんなことをすると、未来が死ぬと喧伝されている。
けれど、未来というのは絶対に死なない。
未来が我々を求めているのだ。
我々が未来を求めているのではない。
そういった能動的な受動を哲学者が本題としてテーマにしているのはいつの時代でも未来は将来になってしまう危険性を持っているからである。
そもそも、ソクラテスがあそこまで固執して自分を貫いたのは、未来をこそ未来にするためである。
ドイツロマン主義はそれを究極的な芸術としてのアイロニーとして捉え、キルケゴールなどもそのような方向で追従したが、それはアイロニーが未来を提示したからである。
ロマンもまた未来を眺める方法なのである。

堕落していく未来を将来ではなく未来にするためには現在を未来へと還元していく矛盾した未来が必要となる。
それを追い求めていく人々をこそ、哲学者と呼ぶのかもしれない。

ドゥルーズが哲学をたえず脱線的であると表現し、ヘーゲルが哲学は真理の自己展開であるとし、デリダが脱構築によって哲学にラディカルな変形を施したのも、すべて、未来を未来として生きとし生けるものとして護るためであったのかもしれない。
そうだとすると、哲学者とは二重の意味で未来の守護者となるのである。
未来を守護し、到来した未来においても未来を守護する。
哲学が哲学として生きるのは、この二重性においてなのかもしれない。


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