1-1-7 アナロジーと三への虜囚

今回こそは対話を始めようと思ったのですが、前回のアナロジーの行為的存在規定がそのまま全体的規定にも引用されかねないことを発見したので、それらを峻別するところから今回は始めてみましょう。

前回の結論部において、僕は、

同一のものは分裂しながら、その分裂を止揚するという「自己止揚の運動」、すなわち「純粋な自己運動の絶対的に絶え間ない運動」のうちにある。

という、ヘーゲルの文章を引き、「自己止揚の運動」こそが行為としてのアナロジーであると結論しました。
しかし考えてみるとそれは、行為が「自己止揚の運動」として働いているということを示しただけで、アナロジーを示しているわけではないかもしれません。
もしかすると、アナロジーの行為的規定は全体的規定と同じくなってしまう可能性さえ出てきました。
なぜなら、アナロジーという行為はアナロジーという全体そのものの「自己止揚の運動」に絡めとられ、性質を変形させたまま運動している可能性があるからです。
しかしながら、それはメルロ=ポンティの考察に見られる、

化学的身体と生物的弁証法的身体と社会的弁証法身体のそれぞれがそれぞれを高い段階として指すときは心と呼び、それぞれがそれぞれを低い段階として指すときは身体として呼ぶ

という、構造的名称の発想に似ています。
つまり、アナロジーの化学的身体のような段階、アナロジーの生物的弁証法的身体のような段階、アナロジーの社会的弁証法的身体のような段階、それぞれが低い段階を呼ぶときアナロジーと呼び、それぞれが高い段階を呼ぶときアナロジーと呼んでいるという名称的な問題がアナロジーの行為的存在規定には、いや、もっと広く言えば存在規定そのものには潜んでいるのです。

まずは、これを解決してみましょう。
このことを語るためには、まずアナロジーの諸段階を、つまりメルロ=ポンティの考察に見られるような三つの段階を名称する必要があります。
そしてそのためには、三つの段階がどのようなことによって分けられ、その「分ける」ということを呼び込む本質的な違いを明らかにせねばなりません。

なので、ここからの論理の進め方としては、まず三つの段階を「わける」本質を問い、その答えのような問いを三つの段階のもっと広義に適用可能な名称を開発することによって、これから出てくる様々な思想を名称可能にすること、という三つの段階を含むことになります。

ここからは余談ですが、僕が段階を三つに分けがちな理由を話しておきましょう。
気づかれた方も居るかもしれませんが、僕は段階を三つに分けがちです。
思想の三段階、三段階の名称可能化、名称可能にするための三段階、といったように僕は三という数字に囚われてしまっているかのようです。
ここからは完全に自意識との対話です。
僕のうちに鳴り響く三つの音は、どうして、なにが鳴らしているのでしょうか。

どうして?
の疑問については答えが一応はあります。
僕のうちで三つというのは、ただの三つ巴的な関係ではなく、二つの関係と一つの自由な主体というイメージがあります。
それは、僕の思考に特徴的な型だと思います。
知性に対する考察も、創造と分析に関する考察も、他者に対する考察も、いつも二つの関係と一つの自由な主体というイメージを抱いています。
僕はどうしてこの型をここまで信用しているのでしょうか。
僕にはそれがよくわかりませんが、それは言い換えると、動的ななにか、静的ななにか、その二つが関係する、そのなにかとなにかを自由に移動し、自由に触発され、自由に変形していくような、そんな自由な主体、そして、自由な主体はその二つのなにかになる可能性があるという互換性、そしてその互換性がもたらす関係と主体の更なる羽ばたき、を信用しているということになります。
それは、僕の哲学的なモチーフが影響しているのかもしれません。
僕の哲学は常に空洞を手放さず、その空洞を形作るごくごく薄い膜的な境界を名称することをモチーフとしていると思います。
それを表現するためには、この型が一番良いのでしょう。

個性とは、型に染まりきってもなお残ってしまう癖のことである。

これは、誰の言葉なのでしょうか。
僕の癖はなんなのでしょうか。

なにが?
という問いに対する答えは判然としません。
僕はおそらくこの三に囚われた関係と主体にこだわってしまっているせいで、どのような思想をもそこに還元してしまっているように思えてならないのです。

すみませんが、次回はこの「なにが?」の疑問に対して、答えていく術を探っていくことにしましょう。
アナロジーと解体の対話は少し後になります。誠に申し訳ございません。

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