2-1-1 他者のうちに存在する自分

皆さんは自分って何だと思いますか。
また、自分以外の人って誰だと思いますか、どんな存在だと思いますか。
僕にはあまりわかりません。
しかし、長らく考えてきたので、皆さんよりはもしかすると理解できているのかもしれません。
なぜそんなことを長く考えてきたか、と問われると、僕は答えに困窮してしまいますが、とにかく僕は「自分」や「自分以外」、「他者」というものをどんなことよりも多く考えてしまうのです。
それは生きるのに悩んでいるとか、自分がわからないとか、そういった理由から始まったものではありません。
けれど、考えてしまうのです。
けれど、皆さんも同じような経験はあると思います。
みんな現れ方は違うと思いますが、「自分」というのが何であるかを知りたがっていると思います。
外から自分を見て、かっこいい自分でありたいと思っていると思います。
もし、それを思っていなければ、別にいいんですけれど。
まあ、とりあえずここで問題にしたいのは、
「生き生きとした自分というのはどんな自分だろう。」
ということです。
皆さんはこんなこと考えたことはありませんか。
僕はよくそういう考え事をします。
自分に不満足であるとか、そういうことではなくて、ただその自分というものを考えてみたくなってしまうのです。
皆さんもありませんか。
僕って、私って、俺って、何のために生きているのだろう。
と思うこと。
僕はあまりないのですが、周りの友達や大人でさえも、そんなことを考えているような気がします。
けれど、僕には皆さんが間違った仕方で、自分探しを行っているように見えます。
みんな自分を探しているようで他人を探しているような気がしませんか。
あんな人になりたい、と誰かに憧れることがいつのまにか、あんな自分になりたい、に変わっていることはありませんか。
あんな人にはなりたくない、と誰かを批判することを自分には適用せず、僕はこんな感じでいいんだよ。とやっつけになっていませんか。
僕はなっています。けれど、そんな僕でもいいんだなあ、と思えるまで、僕は考えました。
たしかに、「考えました」というのはとてつもなく無礼な言葉です。ですが、僕はそれを跳ね返せるだけ考え事をした気がします。
それもまた傲慢なのですが。
まあ、長ったらしく話すと良くないでしょうから、答えを先に提示しておきましょう。
「生き生きとした自分というのはどんな自分だろう。」
の答えは
「他者のうちの自分だろうねえ。」
です。
納得できない人も、ああ、と納得できた人も、この一連の講義みたいな考察を読んでいただければ、なんとなく納得してくれるような気がします。
少し、長めの、考え事の話、読んでくれると嬉しいです。

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