春分 二十四節気小噺

昼の長さと夜の長さがほぼ同じになると、自然をたたえ生物を慈しむ日が来る。
それが春分だ。
僕たちはどうしても自然から目を背けてしまいがちである。
それは目の前に雄大な自然が広がらないからではなく、自らの中に青々と茂っている自然の部分を無視してしまっているからである。
自分探しをする人が増えてきているらしいが、どんなことをしたら自分を探せるのだろう。
旅をしてみたり、本を読んでみたり、友達と話してみたり。そんな文化的な活動の中から自分があらわれると思っているのだろう。
それは確かに間違いではないし、悪いことでも全くないのだけれど、それをしてもどうしても自分が見つかったような実感がないのは、自分を探そうと思ってそれらをしているからだ。

例えば、僕がリンゴを探しているとしよう。様々な木をじっくりと見て、いろんな人に話を聞いて、本を読んでどのあたりに多いのかを知ったところで、自分の理想とするリンゴは見つからないと思う。似ているリンゴはあると思うけれど。
そのリンゴ探しのどこが間違っているのかを考えると、僕はそのリンゴを実物として探そうとしている点にあると思う。
理想の自分なんてものは明確化されていなくて、いつまでも曖昧なままだ。理想の自分が他人への投影であれば話は変わってくるが、それこそ自然な働きでない。
自分は目指す状態であって、決して個人として屹立した人物ではない。自分探しというのは、自分を探すのではなく、理想の自分を考えて、それを探すことなのだ。そして、それを目指していく上でどんどんとそれが変わっていくのを感じることこそ自分探しの一番有意義な瞬間なのだ。

春分が自然をたたえ生物を慈しむ日であるのは、人間が忘れてしまった自分という自然をたたえ人間としての自分を一年に一回くらいは慈しもう。それは自己中心的な営みではなく、自然への投影という美しい手法を用いて行うべきである。という古来からの知恵の結実であるように思われる。
どんどんと変わっていく自分を認めるため、僕たちは自然にさらされているのだ。怖くも美しくも優しくもある自然に。
それをたたえ慈しむことで、より大きな自分というものを愛し求めることができるようになるのだ。
昼と夜は二つの自然である。その二つが調和する瞬間、自然としての自分と人工としての自分がより大きな自分として結実し得るのである。

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