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現役東大生の僕がスタートアップに凸してみた。

初めまして!

WUUZYでインターンをしている、東京大学理科2類2年の大石晃生と申します。以前の記事「東大インターンの僕が、副業人材サービス比較表を作成してみた!」でお伝えした、「2021年副業人材サービス競合比較表」の作成者です!まだご覧になられていない方は、是非確認してみてください!

皆さんと比べるまでもなく人生経験の浅い僕ですが、この記事で僕という人間に少しでも興味を持っていただけたらこの上なく嬉しいです!
ここからは、渋谷教育学園渋谷▶早稲田大学▶東京大学▷WUUZYインターンという時系列で、僕の考え方の変化に注目して読んで頂ければと思います!

渋谷教育学園渋谷(渋渋)時代

兄姉が中学受験していた流れもあり、僕も両親のいわれるがまま、中学受験をすることになりました。そんな風な受け身で塾に通わされて、勉強をするはずがありません。友達と授業中もずっと騒いでおり、廊下に出される毎日でした。教室内に設置された防犯カメラを用いて、廊下で授業を受けることもしばしばでした。(日本初のオンライン授業かも?笑)
算数は好きだったのですが、国語・社会は全く分からず大の苦手でした。(暗記するという意味が理解できていなかったので当然ですね笑)
そんな状態で受けた中学受験では、案の定、第一志望にしていた筑駒も、第二志望であった開成も落ちてしまいます。そんな中、どうやら渋渋には合格したようです。中学受験に関しては完全に他人事で、「地元のヤンキー中学には行きたくないな~」とぼんやりと思っている程度でした。(その頃、児童館で地元の怖い中学生に追いかけられたのがトラウマになっていました笑)
そうして入学した渋渋では、兄の影響でバスケ部に入部することにしました。部活とゲームと漫画に費やす日々が続きました。苦手だったのは、やはり暗記(努力)を必要とするような科目で、特に言語教科である英語と古典が大の苦手でした。どちらの教科も、テストを1学期中間、期末、2学期中間、期末と、受けるたびに、10点づつ落ちていき、40点前後で落ち着き、50点を越えることはなくなりました。(友達と「50点には見えない壁がある」と騒いでいたことを覚えています。)これではまずいと思い、中1の学年末試験では、古典をしっかり勉強しました。手ごたえはかなりよく、採点が終わった先生からも、「お前今回すごいぞ!」といわれました。そうして待ちに待ったテスト返却で、過去ワーストの31点をマークしたときは、頭をガツンと殴られたような衝撃でした。もうなにがなんだかわからないまま、心の深くに「コテンムリ」が植え付けられてしまいました。そうして、もはや反抗する気も起きることなく、惰性の日々が続きます。こんな自分を変えてくれたのが、物理でした。初めて会ったのは中学2年の時でした。初対面の印象は他の科目たちと変わりません。「どうせお前も俺を嫌いなんだろ」とひねくれて、彼のことを知ろうともしませんでした。しかし、そうして受けた中2の学年末試験のことです。ろくに勉強もしていないのに、平均点40点くらいの試験で、86点取れたのです。

「え?なんで?」

の気持ちでいっぱいでした。みんなからもすごい褒められるし、当時気になっていた女の子にも尊敬してもらえました。この一件で物理の印象が変わりました。「意外と優しいとこあんじゃん。」と。しかし、学校のカリキュラム上、しばらく物理と会えない日々が続きます。この間、物理のおかげで少しだけ勉強のモチベが湧きました。また会える日を夢見て。そんな中、高校1年の時、物理と再会を果たします。勉強はしていましたが、あまり成績の伸びなかった僕は彼に合わせる顔がありません。この1年で少しだけ伸長伸びたかな?久しぶりの物理は少し大人っぽくなっていました。用語も難しくなっており、しっかりと計算させるようになっていました。でも、面影はあります。少しとっつきにくくなっていた彼だけど、私はちゃんとわかるよ、優しいところあるって。と、そんな感じで勉強していたら、毎回の試験でトップかそれに近いくらいの成績をとるようになっていました。それからは、物理に関しては一種のプライドを持っていました。他の子と仲良くしちゃダメ。私が一番じゃなきゃ、と。僕は完全な理系だったようで、物理ほどではなかったですが、化学と数学も得意でした。しかし、英語が。英語が。。渋渋は英語が強いという印象をお持ちの方は多いと思いますが、ちゃんとできない人もある程度います。僕とか。そうして、英語が苦手なまま臨んだ大学受験。僕は東京大学の他に、早慶を受験することにしました。結果は、東京大学不合格。早慶の他に、後期に受けた東北大学物理学科も合格しました。東大はやっぱり難しかった。。敗因は、いろいろ考えられますが、やっぱり英語としか言いようがありません。というよりむしろ、努力の必要な英語から逃げて、楽しい理数の勉強に逃げていた自分の弱さといった方が正確ですね。そんな中、後期受験のために寝泊まりしている宿で、ふと

「仮面浪人して、東京大学に行こう」

と考えました。考えたというより、直感的にそうしなければいけない気が凄くしました。この選択肢が僕にとっての初めての「意思」でした。ここでの「意思」というのは、困難を伴っても達成してみせるという強い意志のことを指しています。そうして、早稲田大学物理学科に入学しました。なぜ早稲田大学だったのかというと、実家暮らしで仮面浪人しやすいというのと、僕的には、慶應よりも断然試験が難しかったからです笑(友達の中には、断然慶應のほうが難しいと言う子もいるので、怒らないでください)

早稲田大学時代

晴れて(?)早稲田大学物理学科に入学したのですが、この学科、なんといっても東大落ちが多い。学科は小さく、40人ほどしかいないのですが、半分くらいは東大落ちでした。早稲田大学物理学科には合格するが、東大は不合格という極めて鋭い層が集まってくるので、同じような輩の集まり。すぐに仲良くなれました。よく言われることではありますが、今まで出会ったことないような考え方に沢山触れることができました。冗談抜きで、ここでの出会いが僕の人生に最も大きい影響を与えてくれたと思います。何事にもとにかく挑戦する人にも出会えました。出会えたというより、友達になれました。渋渋にもそういう人はいたんですが、全く関りがなく、完全に他人事で、僕には「新しいことに挑戦する」「ワクワクする方向に突き進む」というアイデアがありませんでした。そしたらノーカン。出会えたことにはなりません。そして、

ここで「起業」というアイデアにも出会います


それ以降、少しづつ起業というアイデアについて惹かれるようになります。まあそんなこんなで、大学の勉強をしながら、受験勉強をする。模試や参考書代を工面するためにバイトもするという三足の草鞋状態が続いたのですが、なかなかうまくやっていたと思います。模試ではちゃんとA判定をとっていましたし、大学の成績もGPA3ちょいでした。唯一ダメだったのはバイトです。原宿のオムライス屋で働いていたのですが、きついのなんの。流石の人気店。長蛇の列。灼熱のキッチンの中、二時間くらい絶え間なく永遠に卵を焼いて脱水症状みたくなることもありました。「聞いてはいたけど、やっぱり世の中厳しいんだなあ」と、認識させられました。
この1年で、新しいアイデアに出会っただけなく、考え方も大きく変わりました。先ほど述べたように、渋渋の中では僕はただ楽しいだけの惰性の日々を送っていました。(正直めちゃくちゃ楽しかった笑)自分の意思や意見を持たずに18年間過ごしていたのに、いきなり、全てが自分の意思次第の環境に投げ出されたのです。そして、僕は、自分の意志で行動する楽しさと、今までを無駄にしてきてしまったという後悔をすごく感じました。そうして、行動に移してもないのに、「現実的に無理じゃないか?」と、諦めたり、やる気に満ちた人の考えを冷めた目で見たりすることは二度としないと心に刻みました。実際に行動してみて、当の本人が「これは確かに無理だわ」とならない限り、他人が干渉する権利はないと思うのです。ここでの「無理だわ」というのは、「現実的に」というより「現実として」という表現の方が正しいと思います。そして僕は、やることなすこと、全てに全力を捧げよう。と、考えるようになりました。そのように1年間を早稲田大学で過ごしながらの大学受験は見事成功し、東京大学理科2類に合格しました。(絶対合格したかったので、理科1類ではなく、理科2類にしました)

東京大学時代

こうして東京大学に入学したわけですが、早稲田にいる間に、これでもかと溜まった欲求が爆発します。自分の自由を満喫している人たちを横目に、やりたいことを色々と我慢して、受験勉強をしていたわけですから、当然ですよね。そこで、とりあえず僕は、早稲田の友達たちと、起業を目指し、サービスを運用したり、シェアハウスを始めたり、体育会のバスケ部に入部したりしました。どれもこれも、以前の僕であれば「現実的に無理」と一笑に付して、行動にすら移さない選択です。でも、とにかく挑戦してみて、全力を捧げよう。と考え、行動しました。サービス運用は、サイトを作成したり、インスタグラムを運用したり、キャンプファイヤーでコミュニティを形成したりと色々行いました。シェアハウスは、老人ホームに移った祖父の家を掃除し、そこで早稲田大学の友人達と4人で生活しました。他にも、部活の縁でつながったベンチャー企業にスタッフとして参加し、東大早慶生の学生スタッフのチーフを務めることになりました。そんな僕でしたが、ある転換点が訪れます。2か月前、2021年5月のことです。それは、シェアハウスの解体です。兄夫婦の結婚に伴って、僕達は退去になりました。彼らがそこに住むことになったのです。それに伴い、僕も、この東大入学してからの1年を振り返ってみました。すると、早稲田大学を中退したときに「全てのことに全力を尽くす」と誓ったはずが、「全てのことが中途半端」だったのです。どれも頑張ってはいましたが、結果だけ見ると「半端」の一言。そこで、1番時間を費やしていたバスケ部を辞めることを決意します。4年間を捧げて取り組むと決めたからには、誰よりも活躍したかったのですが、凄い上手い人達がいて、今のコミット量では到底足りないことを痛感しました。行動してみて、これは、「現実として無理」ということを悟りました。全てを部活に捧げれば、自分の理想に届きうるとは思いましたが、僕はバスケだけやれれば満足というわけではありませんでした。勿論、バスケも諦めたくはなかったです。渋渋時代にもっともっと頑張ればよかったな。と後悔し続ける日々でした。そして、部活を辞める代わりに、

起業や企業につながるような勉強へ邁進しようと思うようになりました。

そんな中、東大の友人からの縁でWUUZYのインターンの話が回ってきました。僕は他のベンチャー企業でもスタッフを務めていることを知っていたその友人は、僕が引き受けるとは微塵も思わず、「大石の知り合いにやりたい人いないか?」と声をかけてきました。全く僕にあてた話ではなかったのですが、仮面浪人を決意した時と同様に、この話は乗らなければいけない。と直感が告げて、自分から名乗り出ました。

WUUZYはいってみて

僕がWUUZYのインターン第一号ということで、代表や取締役も、僕も、探り探りで業務が始まりました。そして、カオスマップの作製を目標に据え、市場調査を行う。という大役を初仕事として任せてもらいました。代表たちはどのように思っているかわかりかねますが、僕は学ぶことが本当に沢山あって、WUUZYにインターンとして参画して本当によかったと思う日々です。

実際のベンチャーの、本気の市場調査・分析や、ベンチャーこその泥臭さ

も余すところなく全て見せていただけて、自分が起業したら、どのような仕事をどのようなスピード感、どれだけの熱量をもって進めていく必要があるのかということを肌で感じることができています。しかも、お客さんではなく、他の業務と同じレベル感のタスクを、かなりの裁量をもたせて振って頂けるので、学べることが少ないわけがありません。「臨場感がある」なんてもんではありません。臨場感があるというのはお客さんの感想です。そうですね、例えるならば、僕はある漢たちのドラマの役者の1人です。「出番は少ないが、間違いなく僕も出演している」といえるほどの仕事を振って頂けています。(このnoteも書いていますしね笑)インターンとして、これほど僕をワクワクさせ、学ばせてくれる企業は少ないんじゃないかと思います!僕にとってはそれほど魅力的なインターンです!(他の企業のインターンは勿論全然知りません笑)これを読んで、ワクワクした学生の皆さん。

僕と一緒に働いてみませんか?

WUUZYには、起業したいと考える意欲的な方たちがある程度在籍しています。起業への足掛かりとしてWUUZYで働くという方たちです。そのような方たちが、この事業をどのように成功させ、巣立ち、どのような事業を立ち上げるのか、興味ありませんか?僕はとても興味あります!そして、その方たちに遅ればせながら、僕がどんな事業を起こすのか、見当もつきませんが、とても楽しみです!!15年後、ドラゴン桜のように、「今見てみたら、WUUZYの初期スタッフ豪華じゃね?」と思って頂ける日が来ればよいなと、1人で夢想しています笑

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意外と分量の多い記事になってしまいましたが、今回の記事を読んで、少しでもワクワクされた方は、これからもWUUZY、そして僕のことを見守って下さればと思います!

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