「鬼滅の刃」に女性が熱狂する理由
今さらながら、「鬼滅の刃」を最終話まで読みました。
あまりにも流行ってるのでなんか読まなきゃいけない気がしてしまって…。これが流行というものの魔力なんでしょうか。恐ろしい。
さて、全話読んだ上での感想なのですが、「あぁ、これは女オタクが熱狂するのがよくわかる」としみじみ思いました。自分なりに「鬼滅の刃」を一言で表すなら「守られたい女の子のための騎士道ファンタジー」といったところでしょうか。
しかし一方で
「鬼滅の刃は男のマッチョイムズを描いた作品だ」
という批評もそこそこあります。
鬼滅の刃は小中学生に男の責任たるものをインストールさせるマッチョ思想的漫画
確かに作中描写を読む限り、それは一見正しいんですよね。「男なら耐えろ」「男なら強くあれ」「男なら弱いものを守れ」「男なら責任を取れ」という価値観が繰り返し提示されていて、あたかも大正時代の価値観がそのまま蘇ったかのようです。
しかし「鬼滅」という作品の構造をじっくりと読み解いていくと、そこにあるのは旧来的な価値観ではなく、むしろ極めて現代的な価値観だということが浮かび上がってきます。
「欲望の否定」という鬼滅の物語構造
「男なら耐えろ」
「男なら強くあれ」
「男なら責任を取れ」
「男なら弱いものを守れ」
こういった男性的規範は、なぜ必要とされて来たのでしょうか。端的に言えば、規範という鎖で縛り付けなければ、男たちはそのように動かないからです。
たとえば「強い男なら弱いものを守れ」という規範がなぜ必要なのか。それは男たちが自分の力を誇示し、弱いものを痛めつけることを一般に好むからです。規範とは現実の裏返しであり、別にわざわざ言われなくても誰もが守るようなことは規範にはなりません。例えば「夜寝るときは目を閉じるべきだ」という規範の成立は想像しにくいですよね。
つまり強固な規範とは、それ以上に強烈な欲望の裏返しとしてのみ成立しうるわけなのですが、「鬼滅の刃」の世界にはその「欲望」が存在しないのです。
主人公の炭治郎が典型ですが、彼には利己的な欲望が一切ありません。
「妹を守りたい」「弱い人や困っている人を助けたい」「先人の意志を受け継ぎたい」という思いは抱いていますが、それらはあまりに杓子定規かつ教条的で、彼自身の内面から沸き上がったものだとはどうしても思えません。
いやもちろん、肉親への愛慕や、義侠心や、先人への崇敬も、また感情であり欲望の一種なのですが、「それしかない」ことになんとなくうすら寒さを覚えるわけです。
個人的に、炭治郎というキャラクターから連想するのは、「Fate/stay night」の衛宮士郎です。それも物語が始まった直後の、サバイバーズギルトによって自分を優先できなかった衛宮士郎。自分を犠牲にして他者を優先することしかできなかった衛宮士郎です。
もちろん衛宮士郎は、物語の中でそのような在り方の歪みを指摘され続け、最終的には間桐桜を愛することで自分自身を愛することを発見していくわけなのですが、炭治郎にはそれがないんですよね。炭治郎は徹頭徹尾、他者を優先することしかできない人間として、物語の結末まで駆け抜けます。
そのせいか、「鬼滅の刃」にはヒロインが存在しません。禰󠄀豆子という妹キャラは存在するのですが、炭治郎が思いを寄せる女性は存在しないんですね。一応、炭治郎に恋情を寄せているキャラクターはいるんですが、炭治郎が誰かに恋心を寄せるシーンというのは23巻の連載の中で一切描かれない。
これは他の味方側メインキャラクターも同じで、「欲望」が掘り下げられることはほぼありません。基本的に復讐か贖罪が動機のほとんどで、個人的な欲望を持っているキャラクターは出てこない。一応初期の伊之助とかは強さを求めるキャラクターだったりしたんですが、物語が進むとその側面はほとんど忘れられていきます。
この徹底的に欲望を否定するスタンスこそが、「鬼滅の刃」の際立った特殊性だと個人的には思っています。規範という欲望を縛る鎖はしっかりと存在するのに、肝心の欲望がどこにも見当たらない。欲望が存在しないのに規範だけはあって、みながその規範に沿って行動することが当たり前とされている。欲望がないから葛藤も存在しない。
そして興味深いことに、敵サイドの鬼たちはみな我欲を持つキャラクターです。
強さを求める猗窩座、芸術欲を持つ玉壺、利益と保身を求める半天狗、栄達を求める獪岳、家族を欲しがる累、永遠を求める無残。
みな何かしらの「欲望」を持っており、しかもそれが自分ひとりの中で完結している。しかしそれは邪悪なものとして否定され続ける。
個人的には、ここらへんの匂いが作品への没入を妨げていました。自分は「ガラスの仮面」の北島マヤや「明日のジョー」の矢吹丈や「メイドインアビス」のボンドルドみたいな強烈な欲望によって動くキャラクターが好きなので、この徹底した欲望の排除に不気味さを覚えてしまったんですよね。なんというか、去勢されているように感じてしまって。
しかしこの「欲望の排除」という現象について深堀りすると、鬼滅の刃という作品の構造が少しずつ見えてきます。
なぜ炭治郎は一切の欲望を抱かず、ひたすら自己犠牲のみの人生を送る羽目になったのか。なぜそれが読者の熱狂を以て迎えられたのか。
その答えは、そのような在り方が読者に(特に女性読者に)求められていたからだと思うのです。
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