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にじさんじ文化論「馴れ合いの増加、低め合う関係性」


※注意書き

当記事における内容はにじさんじをコンテンツとして捉えた場合の一視聴者目線からの考察です。
「ライバー毎の人気には格差があるけど、どういう理屈でその差が生まれているのか」
「視聴者数を増やすにはどうすれば良いのか」
「コラボを通してどのような経路でファンが共有されるのか」
など私が通常のコミュニティでは発信し難いと感じた話が中心となります。
その為、時には「人気が乏しいライバー」、「こうしないと人気が出ない」といった書き方が一部に見られるかと思いますが、あくまでも個人的なコンテンツ的価値観と考察を行う仮定に付随するものであり、「私の言う通りに活動しないこのライバーが悪い」と言った責任追及を喚起するものではありません。
また文中に登場するライバーについて個人情報に繋がる類の考察は行わず、誹謗中傷やそれに該当するような個人の名誉を傷付ける意図は一切ありません。
「ライバー個々の活動スタイルや配信内容はそれぞれが自由に決めるべきものである」と言う大前提を承知した上で一つの読み物として捉えていただければ幸いです。


前回はにじさんじという箱のシステムやそれを引っ張る上位ライバーの存在、引っ張られる下位ライバーとの意識格差の記事を投稿したが、今回はそれに関連して生まれる問題について。
私の中ではこの問題がにじさんじを衰退させる一番の要因と言っても大袈裟ではないと思っている。

にじさんじだからこそ生まれたライバー同士の強い関係性。

それが衰退に導くという話。


"にじさんじの「てぇてぇ」文化の成り立ち"

何故にじさんじはここまでライバー同士の距離が近い箱となったのか。        その前提となるのはにじさんじの活動方針、運営スタンスにある。

ファンからも周知されている通り、にじさんじは運営主導な面が大きいV企業勢においてライバー個人の『自由意思を尊重した放任主義』を取っている。
悪く言えばプロデュースに関しての運営のサポートが他企業よりは少なく、ライバー個人の負担する所が大きい。
だが、その分個人の頑張りによって如何様にもなる、
やる気と実力が試される場所だ。

当時のいちからの社員数は僅か3人だと言われる。
それはブームに便乗して現れた「怪しいベンチャー企業」の何者でもなく、実際サポート不足やLiv2Dの動きもまだ拙かった事もあり、「運営はゴミだけどライバー達は素晴らしい才能を持って頑張ってるんだから応援しよう」という流れが初動であったと記憶している。

ある意味ではライバーは被害者的な目線で見られていた時期があり、この事で「運営という邪魔なフィルターに期待せず、ライバー個人の頑張りを中心に見る」「ライバー全員が推し」というにじさんじを関係性で見るためのコミュニティサイドの受け入れ体制が出来ていた。
そこからライバー個人の判断による交流が始まり、運営のサポート不足によって生まれたライバー相互の助け合い精神が表面化する。

機材や配信関係のサポートすら満足に得られなかったライバー達が、お互いに相談し合って解決を図る方に動いたのだ。
当初、懸念されていた蠱毒化して喰らい合う関係ではなく、
助け合う仲間としての姿がそこにはあった。

”ライバー達が助け合い、交流する過程が見える事”

それすらもファンからすれば新鮮なコンテンツになっていった。

期せずしてコラボが活発化する。
JK組、そして「かえみと」などはまさにドラマ的な関係性コンテンツだ。

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それは距離感が遠く、高みから命令してくる運営主導の台本では不可能なドラマ。
放任されたからこそ現地のライバーが自分で考え、自発的な交流の中で生み出す何が起こるかわからない関係性は魅力的に映った。

そうした環境の中で2期生がデビューする。                                                  中には1期生の先輩に憧れて応募するようなライバーも生まれ始める。
1期生は2期生に対してどう対応するのか?
ツイッターでの反応は?
この後輩ライバーがこの誰々とコラボしたら面白そう!                                  同期のみならず、先輩後輩という軸が生まれた事で関係性はその複雑性を増して更に箱文化が加速していく。

「にじさんじは家族」「あったけぇ・・・」「てぇてぇ」

現在まで続くにじさんじの箱文化においてライバー同士で仲が良い事や、
助け合いの精神が生まれたことは大事な要素だったと思う。
間違いなくにじさんじというコンテンツにおいての成長要因としてプラスに働いていた。                             
それを今になって自分が「馴れ合い」と感じて問題視するのは何故なのか。


”「裏で遊ぶな」問題”

2期生の段階で少し見かけた批判になるのだが、関係性コンテンツには、

”リスナーからは見えない『裏の関係性』の構築を嫌う”

という層が確実に存在する。

2期生は箱文化が形成された後にデビューした初の新人であったからか、
最初から裏で通話を繰り返し行って、ある程度仲良くなった状態で初配信を迎えていた。
その後も一部のライバー同士ではグループチャットを習慣化しているような発言があった。
それに対して、配信で楽しみにしていた関係性を構築する過程を裏で消費されたリスナー側は置いてきぼりにされたような感覚を覚えたのだろう。

「俺たちの見えない所で遊ぶな!配信でやれ!」的な批判が一部出た。

正直この批判はライバーからすれば理不尽だ。                                                                             

同僚と仲良くなることが悪いはずがない。
善い事であるが故に問題だと思わず、改善が困難な問題。                                                                                           
ファンは関係性をある種のコンテンツとして見るが、ライバー側は必ずしもそうではないというすれ違いがこの問題の根っこにはある。

ライバーからすれば新しい職場で出会って仲良くなったから遊ぶだけの話で外野にとやかく言われるのは煩わしい事この上ないがファンの感情は違う。

ライバーが自覚的であろうがあるまいがにじさんじが関係性をコンテンツの軸として人気を泊してしまった側面がある以上、それを表で見せることを求めるのだ。
それもあってかライバー達は仲良くする事を求められていると認識し、またその仲の良さを表で見せることへの大義名分を得る形となっていったのだが、

「ただライバー同士で仲良くしてるのを見せれば嬉しがってくれる」

と双方で認識された事が今となってライバー同士のマイナス方面の関係性を生み出すのに繋がった気がする。

私が「てぇてぇ」と「馴れ合い」の分水嶺にあると思うのはこの場合のコンテンツ意識の差にある。
要するにライバー同士で”ただ仲良くしたいだけ”なのか、
それを”コンテンツとして見せる意識があるのか”の違いだ。


”怠惰さを感染させる「低め合う関係性」”

ライバーと仲良くしたいという感情は善的な動機であるが欲でもある。
前述した必要に迫られての機材関係でのトラブル解決、同期で上を目指すためにコラボで面白さを提供したいなどの高め合うような関係性もあれば、
自分が意識の低い活動スタンスを取りたいから、似たもの同士で慰め合う方向で馴れ合うようになってしまっているパターンがあり得るのだ。

つまる所は「腐ったみかん」に近い関係性。

配信をしてないと思ったら裏でライバーと遊んでるだけだったり、
ソロ配信が無くなりコラボだらけになっていたり、
配信しない人が多いから自分もしなくていいやとなったり、
最初から高みは目指してないから需要がないゲームをしたり、
メン限とツイキャスばかりするライバーを真似してしまったり、
好きな事だけやって数字はキャリーして貰おうの精神のライバーもいる。

そんな自分の怠惰さを肯定するのに他のライバーの存在は有り難い。

ライバーにとって同じライバーが増えるということは良い面では自分と相性が良い仲間が増えることで、悪い面で言えば『甘える対象が増える』という事でもある。
自分に怠惰な所があっても、同じことをしているライバーが増えることで安心する事が出来る。
その行為も肯定されやすくなるというわけだ。

箱の恩恵に甘んじて低い次元での安寧を目指すライバー程、にじさんじ内での馴れ合いを求め、箱内にその怠惰さを伝搬させて良くないループを生み出す。
関係性を売りにしているにじさんじ。
問題はライバー1人の範囲で終わらずにコラボや関係性を通して周囲に馴れ合いの輪を広げていく。
それは私がコンテンツとして魅力を感じるような関係性ではなく、お互いの利益が低い階層で合致した逃げに見えてしまう。

あえて判りやすくも汚い言葉で私の最近のにじさんじへの感情を吐露するならば、

「頑張ってにじさんじを支えてるライバーのすねを齧って楽してるライバー達が多すぎる」
「自分を慰めるだけの馴れ合いに他を巻き込むな」
「好きなライバーとお友達になって遊びたいだけの出会い厨はいらない」


というような感想を持つ事が増えてしまったのだ。

いろんなライバー同士の化学反応が見られるワクワク感、その多様性や同期のエモ等から成長するコンテンツ性に魅力を感じていたからこそ、
だらだら仲良しグループで馴れ合いがしたいだけの風潮に強く染め上げられてしまっている現状のにじさんじをつまらないと感じてしまう。


”苦境から生まれた高め合う関係性「ド葛本社」”

この低め合う関係性を判りやすくするために、対極である高め合う関係性の例として代表的な人気グループである『ド葛本社』を挙げるべきだと感じた。
彼らのコラボには需要をしっかりと理解した、良い意味での”ビジネス的な立ち回り”が見て取れる。

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4人共に3D化という夢に向かってお互いに協力し合いながら、しっかりと企画をしてファンを楽しませる。
その結果実際に3D化を果たし、現在にじさんじの中でも特に3Dを活かしたコラボ企画を率先して行っている。
その人気は京まふ等グループ自体への大型案件も勝ち取った。

このグループやライバー達への好き嫌いの感情は別にしても、彼らがにじさんじの中でも特に練り込まれたコラボで躍進した、代表的なグループ売りである事には誰も異論を挟めないだろう。

本人達の頑張りや単純に相性が良かったのはもちろんの事だが、このように高め合う関係性になった理由はグループの成り立ちにそのきっかけがあると睨んでいる。

ド葛本社の初コラボの時代にはまだにじさんじは統合されていない。
本間ひまわり、葛葉はゲーマーズに、ドーラ、社築はSEEDsという別々の箱に所属していた。

当時のゲーマーズは好きなゲームがバラバラという事もあってか箱としての結び付きは弱く、個人毎でのスタンドプレーな活動スタイルが多かったが、それ故に各々が強い個性とゲーム実況者としての人気を備えていた。
しかし所属ライバーの相次ぐ活動頻度の低下や、笹木咲の引退、それらを邪推して不仲の噂などもあり、幾多のストレス要因を抱えていた事が伺える。

対してSEEDsは本家にじさんじへのチャレンジ枠とされ1期、2期とは切り離されたポジションとなっていた。SEEDs以外のライバーを自分達からコラボに誘う行為もNGとされ当然数字的には苦しい立場に置かれる事になる。
しかし箱から切り離されたからこそSEEDs内部での結び付きは特に強まりそれを活かした企画力に優れるコラボには定評があった。

どちらの箱も順風満帆の苦労知らずとは言えず、不遇とも言える立ち位置が形成されていたのだ。

この泥を啜った経験こそがド葛本社という高め合う関係性を生み出した。

ひまわりとドーラは既に親交があったものの、初コラボのコンセプトはお互いがあまり絡んだ事がない相手を呼んで来る事だったと後に語られている。
所属もキャラクター性もバラバラで、裏で仲良くなったわけでもなく、それ故に何が起こるか判らなかったコラボは好評を博す。
そこに『家族』というにじさんじファン好みの一つのワードを見出した事で関係性はピタリとハマった。

注視するべきなのはここからだ。
彼らは”ただ仲良くコラボをするだけの方向”には行かない。

明確に自らのグループが受けた理由、家族という需要を見定め、それを活かすべく企画を立てた。それでいてコラボの安売りはせず一定の間隔を取って行いチャンネルは持ち回り制にしてしっかりと登録を呼びかけた。

この意識の高さ、周到さはにじさんじらしからぬ事だと思う。

にじさんじの箱文化や関係性の強さに憧れを持って入ったひまわり
炎上を経験した為に極端にコラボを遠ざけていた銭ゲバ気質な葛葉
SEEDsの実質的な引率者として数字が伴わないその責任を感じていたドーラ
音ゲーマーとしての牙を隠しながらまだその時ではないと野心高々の社築

利害の一致。お互いの夢や目標を叶えられるグループ。
彼らには数字を意識して成り上がりたいと思うだけの”目的意識”があった。

不遇さを経験したからこそ危機意識を持ち、にじさんじという箱にただ漫然と所属しているだけでは得られない事があるのを知っているライバー達。
舞い降りてきたチャンスを是が非でも掴みたいという確固たる意思があったのだと思う。
加えて個の人気が高いゲーマーズを前面に、企画が得意なSEEDsが脚本を書き諸々の準備を担当して支えたというにじさんじらしい多様性の妙もあった。

即ち私がド葛本社に見た高め合う関係性とは

にじさんじの箱の力だけに甘えず、
きちんとした夢や目的意識を持ち、
ライバーの持つキャラクター性や関係性が商品となる事を意識して、
それを互いに協力して高めるよう努力する事だ。

もちろんここまでの意識の高さを全ての関係性に求めるものではないだろうが対極にある低め合う関係性ばかりが増えてしまっては、にじさんじというコンテンツを牽引する力は今後確実に衰えていく。



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”にじさんじ統合後のぬるま湯”

遡るとにじさんじの持つ最大の強み、箱としての関係性を活かすという点で統合は大きな出来事だった。
どの組み合わせのコラボも"次の「ド葛本社」"になり得たのだから。

実際に統合後のにじさんじの熱量は凄まじかった。
統合後の新人達はデビュー配信の時点でも最大2万人近くが見守る事となり上位ライバーが多数生まれた。
箱内の交流は増し、ライバーの数の利を活かして多様性に富んだコラボが数多く行われた。

しかし、統合化されたにじさんじの「恵まれた箱の恩恵を楽に得られるという安心感」はここに来て意識の低さや自己プロデュース力の欠如に繋がる。

1期の頃の箱の力を当てにしてなかったからこその危機意識や自立心。
まだグループとしてお互いに上手く歩み寄れなかったゲーマーズの孤軍奮闘の自己コンテンツ力。
隔離されたSEEDs達が上に食らい付かんとした反骨心。のようなものを今の新人達は失っている。

ファンの数も増えれば甘えられるライバーの数も多くなった。
ライバーと仲良くなってコラボを重ねれば10万人、3D化までの道も遠くない。
結果、上位ライバーが作り上げた数字を程々に掠め取り、ぬくぬくやってスパチャやメンバーも程々に稼ぎ、ライバーと仲良く遊べたらそれで満足。

そんな悠々自適で気楽なライバー生活を是とする空気が蔓延する。

推しが仲良くしている姿が見れるだけで満足、
楽しくしている姿を見るのが自分も楽しいというファンが居るのも判る。
ただあまりにもそのタイプのライバー同士での関係性が増えすぎた。

にじさんじの「てぇてぇ」関係性を促進させたライバー個々の自由意志に任せた放任主義という土壌。
自由意思は高い方にも低い方にも転び、
放任だからこそ低め合う方に向かった時には、何も鑑みる事がなく馴れ合いを助長する。

そしてこれらの事が余計に既存の上位ライバーとの格差を生み、コラボでも上位ライバーが生み出す関係性ばかりに人気を集中させる結果となっているのではないかと私は思う。

馴れ合いに沈み人気者への道を閉ざすライバーの性質。
上を目指す事を諦めたライバーの立ち位置はファンから見ても判りやすい。
ライブにしても大型の案件やイベントにしても、今後の発展性に期待出来ない彼らが人気を得るのは難しい。
高みを目指して成長し、今後の活躍にも期待が持てるとファンが思えるようなライバーこそ推すに値すると判断するのは正常な流れだろう。

このようなシビアなコンテンツに対しての見方はある種にじさんじ的に似つかわしくないと思われるかもしれない。
しかし、競争相手となるVtuberは「ホロライブ」筆頭に今も尚増え続けてその度に比較される。

大舞台での活動も増え、ライバーに求められるハードルが上がっている事を肌で感じ取れるだろう。
同じ事をしているだけでは見てもらえなくなるのはどこの世界でも同じだ。
ましてや見せる事を意識していない雑なコラボや馴れ合いに落ちた関係性にいつまでもファンは付き合わない。

こうした意識の低い馴れ合いの増加はコラボに対しての期待値までも奪う。面白いコラボを見た経験から次も期待して見に行くのであって、ファンの方を向いていないただの仲良しの垂れ流しを続けてしまえば期待感を損なって次に見に来るファンも減ってしまうだろう。

にじさんじのぬるま湯の如き環境が生み出した馴れ合いコミュニティ。

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そこにあるのは優しい先輩後輩に囲まれて、最終的にはコラボして貰えればなんとでもなるという安心感。
優しさを餌にデビューし立ての後輩にもすぐさま絡んで、満たされない功名心をライバーからの好感度で埋めようとする。

需要がないコラボをしても気に留めず、自分たちが楽しければそれで満足という集団の中で、身内で楽しんでいる自分達を肯定してくれるような人しか見なくなる。

※この画像の意図を補足すると、スプラトゥーンが上手いわけでもない4人が金銀銅(リオン、葉加瀬、フレン)のようにポンコツや下手さを売りにするわけでもない。
「不破湊」のように実際に脳死トークしながらでも魅せるプレイが出来るわけでもないにも関わらず、そういった需要の置き場所が定まらない"ただ集まっただけ"に見えるコラボに対して、最初から半ば期待しないでくださいとでも言うように、「脳死」と言い訳のように付けただけである事を指摘している。

そこに"リスナーと距離感の近い配信"という武器はなく、檻の外から楽しんで乳繰り合ってるライバーを見ているだけだ。
動物園の動物だって餌を得るために人間を喜ばせる芸を学んで披露する。
そこには生きるための必死さがある。
芸を見せない仲の良さは観客を集めない。


箱の強さや仲間が居る安心感は自己プロデュースを考えるきっかけを奪う

これでは危機感も何もあったものではなく、自己プロデュース力というものが成長していかない。
逆に言えばこの馴れ合いによる「低め合う関係性」に溺れない者達が自己のプロデュース力を成長させ、結果として上位ライバーとなるのが今という時期なのだ。

傷の慰め合いに等しい低め合うコンテンツと、上を目指す上位ライバー達のコンテンツ的な魅力は遠く離れていく。
埋まらない格差は可視化される。
お互いにライバーの方ばかりを見ている自分たちだけが楽しい馴れ合いよりは、ソロでも面白く出来るライバー、箱の集団から遠くてもファンの事を見ているライバーの配信に人が流れるのは当然だろう。

そしてあまりにも馴れ合いという逃げ道を肯定する優しい世界の空気が濃すぎて容易に絡め取られてしまうのが現状。

最近の新人がバズらず新しい花形の上位ライバーが生まれない理由。

次回はにじさんじで上位ライバーになるコースからドロップアウトした集団。リスナーよりもライバーの方を見るようになった、「ライバーのファンと化したライバー」について考察したい。



▼私が投稿した他の衰退論へのリンク▼
にじさんじ衰退論「ライバーとしての自覚の無さ、優しさという武器」
にじさんじ衰退論「男性ライバーの活躍と女性ライバーの弱体化」
にじさんじ衰退論「新人は男性3人組。アイドル売りの難しさ」
にじさんじ衰退論「ホロライブは最強で最悪のライバル?」
にじさんじ文化論「無敵のホロライブとライバル不在の箱」
にじさんじ文化論「イベントや案件中心の是非。ゲーマーズ人気の環境」
にじさんじ文化論「炎上の予兆。好感度の大切さ」


※追記 投稿後のコメント欄を見て「統合後」というカテゴリーを大雑把に括りすぎてしまったと感じたので補足します。

まず今回の記事の意図は馴れ合いが増加していく過程であって、統合はそのきっかけの一つとして見ています。

どうにも統合後ライバーが嫌いと受け取られてしまったようですが
統合前ライバー(馴れ合いをしていない)と統合後ライバー(馴れ合いをしている)という意味での対立軸はありません。
この項で最初に触れたように、統合自体はにじさんじの熱量を加速させた成功要因でもあると認識していますし、夢月ロア、郡道美礼、御伽原江良、鈴原るる、など登録者や同接数的にも強いライバーを沢山生み出したのは把握しています。特に御伽原江良、鈴原るるに関しては高い向上心を持ってリスナーの事を見ている事が伺える。それこそ今上位ライバーとなる者の条件である「低め合う関係性に溺れなかった」を体現している二人。
関係性にしても「さんばか」「SMC」などはある程度の計画性が見られるグループ売りでその強みを踏襲していました。

それが統合後でもここ半年くらい、それに準ずるだけの人気を取るようなライバーが生まれない事の理由として統合後のぬるい環境が弊害として現れてきたという話です。

私個人は数字的に劣るライバーも人気が低いライバーも新人ライバーも好きな人は居るし見ています。数字や需要にがっつかずにまったりコラボする需要も知っています。
Vtuberのにじさんじの成り立ちを見てきたからこそ、にじさんじをコンテンツとして捉え場合に今後どうなるかという不安が半分、考察ごっこがしたいのが半分です。
何故ならにじさんじが衰退した未来に、私のその推しがどうなるか判らないという心配があるからです。
それも踏まえて私の多くの記事はにじさんじの文化性、コンテンツ視点だと思っているので、ライバー個々に対しての好き嫌いの信者アンチ論争は本位ではありません。

他にも多かったご指摘としては「お前がファンの代弁をするな」は正論だと思います。
今も不満や愚痴も抱かず、にじさんじを楽しく見ているファンは大勢いるでしょう。私は違うというだけです。何も感じ入るものはない、ただの主観的な暴論だと断ずるならそれが一番良いのです。
今後、私の言う通りになってもならなくても、そこに明確な統計が存在するわけではありません。仮に今後にじさんじが衰退しようが何を理由に衰退したのかなんて正確に割り出せはしないはずです。

つまり私の考えは今も未来もただの杞憂でしかありません。

多くのにじさんじコミュニティにおいては批判されるべき対象、声を上げるべきではない類の話でしょう。
それがこういった場でファンを代弁するかの如く吹聴するのは、私の考察に対して何かしら刺さるファンの方も居ると思っているからです。
Vtuber界隈では身バレや前世ネタだけがタブー化しているわけではありません。むしろそれらよりもタブー化している類の話題があり、それをしたくても出来ない人達が居ると感じていたからです。

安心してください。私はにじさんじやあなた達の推しに危害を加える敵ではありません。何一つとして知名度がない私のこの記事で何かしらの波紋が広がると警戒されるなら、そこには何かしらの響くものがあったという証左になってしまうでしょう。

私の考えは全てのファンの考えではないが、さりとて全てのファンから遠いものでもなく、物申す系すらネタにしない程度の小さな不穏の種。
そこに私なりの書く価値を見出したというだけの話なのです。


低め合う関係性と上から言っていますがそもそもあなた自信がそこまでいえる高みにいるとは到底思えません
個人的にはにじさんじのオーディションに通ってる時点で一流ぐらいの格があると思っています

プロの料理を評価するのにプロの料理人になる必要はありません。
味覚という感覚自体は別に料理の修行をしなくても備わっているからです。
視聴者は本的にはプロではなく一般人でしかありません。
視聴者の意見よりも高みにいる存在に説得力が伴うというならば、例えば大手のYouTuberや生主の方が「Vtuberなんて所詮は絵を貼り付けただけの存在」「楽して金儲けしてる」などと言うならば納得されるのでしょうか?
私は納得できませんし納得されてはいけないと思います。

オーディションに通るというのは面接に受かる才能。
活動で人気になれるかどうか、何を成すかのかはそれからの話です。
東大合格者がどうのこうの、些か今の時代のネットコンテンツにそぐわない権威主義に傾倒した考え方だと思います。



まとめ
・にじさんじの関係性文化は、運営主導ではなくライバー個人の意思が反映される放任主義による助け合い精神から始まった。

・ライバー側のただ仲良くしたいという気持ちと、ファン側のコンテンツとして関係性を見たいという思いにはズレが生まれ易い。

・ライバーが増えるほど甘える対象が増え、同じライバー同士での腐ったみかんの如き「低め合う関係性」が広がる。

・「ド葛本社」は統合前からの不遇さから来る危機感や向上心の芽生えによって高め合う関係性のグループになっていた。

・統合は箱を大きくしたが同時に安心感から自己プロデュース力を奪い、自分が頑張らなくても良いぬるま湯の環境を生み出した事で、新しい上位ライバーやバズる新人が生まれない土壌となってしまった。





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