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ドラえもんに権利を与えるべきか?~JILISシンポジウム登壇によせて~

こんにちは。NFI理事の加藤です。
NFI理事としてははじめてのnoteの投稿です。
私は普段、情報法制、個人情報やプライバシー保護、知的財産法等について研究をしています。
最近では、EUによって公開されたAI規則案に注目しています。

先日、情報法制研究所(JILIS)のシンポジウム「テーマ①:AIが作る著作物」にパネリストとして登壇させていただきました。この分野の最先端の研究をされている先生方と同席をさせていただき、大変勉強になりました。
当日の様子(資料・動画)は、以下のリンク先からご覧いただけます。
https://www.jilis.org/events/2021/2021-07online.html

当日、私に与えられた役割は著作権法を中心とした法制度に関するコメントをすることでした。このような中で、著作権法から見たAIの論点を整理する必要があったのですが、時間の都合で整理が出来ませんでした。そこで、大まかな論点の整理と、以前から個人的に思っていることをまとめてみたいと思います。

さて、皆さんはAIと著作権法と聞いてどんな事をイメージするでしょうか。
中には、AIが凄い絵を描いたり、作曲をしたり、そんなことをイメージした方もいるのではないでしょうか。

私が先日パネルディスカッションをご一緒した北海道大学の川村秀憲先生が開発したAIは俳句を詠むことが出来ます。
https://www.ohmsha.co.jp/book/9784274227332/

また、東京大学の松原仁先生は「TEZUKA2020」プロジェクトを通じてAIを使って『ばいどん』という漫画を作られました。
https://tezuka2020.kioxia.com/ja-jp/index.html

ここまでくると、AIが色々なコンテンツを自動的に作ってくれることはもうすぐそこのようにも思えます。そうすると、そのコンテンツを作成したのは誰なのか?著作権法的には著作者は誰なのか?という疑問が生じます。
先日のシンポジウムでも、まさにこの辺りが議論の出発点でした。

著作者が誰なのかと言った場合、
①AIが著作者になる
②AIを作った人(開発者)が著作者になる
③AIを使ってコンテンツを作成した人(利用者)が著作者になる
の大まかにわけて3つのパターンに分けることが出来ると思います。

このうち、②はテレビゲームのようなものをイメージしていただけると良いかと思います。テレビゲームはプレイヤーの指示で様々な画面を表示しますが、それらはゲームを作成した人の予定していたものといえます。③は、画像編集ソフトや描写ソフトをイメージしていただけると良いかと思います。

シンポジウムでは、②、③に議論が集中し、①は時間の都合で議論することが出来ませんでした。
そこで、今日は①について少し考えたいと思います。そもそも、①のようなケースはあるのでしょうか。著作権法は著作者に対して、大きく分けて2つの種類の権利、著作権(財産権)、と著作者人格権を与えます。このうち、著作権(財産権)は支分権として譲渡可能ですが、著作者人格権は一身専属なため譲渡することは出来ません。これらの権利をもった者が著作権者と呼ばれます。

いずれにしても、①のようなことが起こるためには、AIが権利の主体になる事が出来るか、つまり、権利能力を有するかが焦点となります。権利能力を有するのは自然人か法人ですから、AIが自然人あるいは法人たり得るのかを検討すれば良いということになります。ただ、AIが自然人、または法人かをそれぞの要件に照らして考えれば良いかといえばそうではないように思います。AIが自然人、または法人と言えるのか、あるいはそれに相当するかは、ある意味どのようにすべきかという観点で考えるべきなのではないでしょうか。

仮にAIに権利能力を与えるべきであれば与えれば良いし、そうでないならば与えないという問題なのではないでしょうか。自然人や法人の要件は条文や判例、学説から導き出すことは可能で、そこにAIを当てはめることになるのですが、最後はこの当てはめの際の価値判断によることになり、結局、AIを自然人や法人として認めるべきかという判断に立ち返ってくることが予想されます。そこでは、対象となるAIが一体いかなるものなのかという事実に基づいて判断されることになります。

では、事実としてのAIはどのように捉えれば良いのでしょうか。現状、AIと一言に言ってもここには多種多様なものが含まれています。ですので、一概にAIに権利能力を認めるべきかといっても議論としては難しいという結論に至ります。しかしながら、それでは面白くないので、今回は思考実験として、我々が想定しうる中で比較的高度で身近でイメージが一致しそうなものに基づいて考えてみることにします。

例えば「ドラえもん」はどうでしょうか。
1969年に発表されたドラえもんは今日までテレビアニメも続いており、広い世代がそれが何かを知っているものです。共通理解があれば議論もし易いと思い取り上げてみます。
(攻殻機動隊とか、アトム ザ・ビギニングとか、PLUTOとか、AIの遺伝子とか、もう少しダイレクトにこの辺の問題に切り込んでいる作品もありますが、やはり世代を跨いだ共通理解という意味でドラえもんを採用します。)

ドラえもんが何かということについては最早説明不要かと思いますので割愛します。(と言いきれるあたりがドラえもんの素晴らしいところでしょうか。)さて、ドラえもんに何らかの権利を与えるべきか、ドラえもんに権利能力はあるのか、について考えてみたいと思います。

そもそも、どうしてドラえもんに権利を与えるべきか、という前提が成り立つのでしょうか。
(もちろん、AIやAIを搭載したロボットに権利を与える必要はない、以上、という方もいらっしゃると思いますが、あくまで思考実験ですのでお付き合いください。)
ドラえもんが非常に高度なロボットだからでしょうか?単独で意思の疏通をしているように見えるからでしょうか?のび太君の人格形成に深く関与(というか見方によってはねじ曲げている?)しているからでしょうか?
それとも、ドラえもんが未来デパートで一人で買い物をしているということは未来の社会においてはロボットに処分権が認められている可能性があるからでしょうか?(持ち主に処分権が帰属している可能性もありますが、ドラえもんが単独で処分行為を行っているようにも見えます。)

細かく見ていくとドラえもんに権利を与えた方が良さそうな理由が作中に散見されるのですが、実はそれは作者である藤子・F・不二雄氏がドラえもんは限りなく人に近い存在であることを読者に意識付け、感情移入をさせるための工夫だと思われます。
ドラえもんが随所で見せるポンコツっぷりは「もののあはれ」ならぬ「モノのあわれ」を喚起し、ドラえもんを身近な存在に感じさせることがドラえもんの人気の秘訣なのではないでしょうか。
ドラえもんが作中でのび太君を叱咤激励する、一緒に笑う、時には壊れてしまってそれを見たのび太君が泣く、こういうことが繰り返されるうちに、そこにはまるでドラえもんという人格のようなものが見えてくるような気がしてくる、そこがもしかしてドラえもんにも権利があるのではないかと思ってしまう背景なのではないでしょうか。

さて、ドラえもんがこのようにのび太君だけでなくみんなの大切な友達であることは否定できません。
私にとってもドラえもんは小さな頃から付き合いのある大切な存在です。
(最近のステイホームで子ども達と最近のドラえもんを繰り返し見たことによって大山のぶ代さんから水田わさびさんのドラえもんにやっと違和感も収まってきたところです。)
しかし、大切な友達であることと、ドラえもんに権利を与えるかどうかについては冷静に切り分けて考える必要があります。

ここで、1つの疑問が湧きます。我々はいつからドラえもんを大切な友達と感じるのでしょうか。ドラえもんが作品中で壊れて動かなくなってしまった、悲しくて涙を流してしまう人もいるかも知れません。
では、ドラえもんと同じかたちのロボットが工場で製造されている過程で事故にあって爆発したらどうでしょうか。ドラえもんと同じかたちのロボットが工場で完成して、輸送中のトラックが事故を起こして壊れてしまったらどうでしょうか。ドラえもんと同じように涙を流すでしょうか。勿体ないとは思うかも知れないですが、まだ活動をしていないロボットに対して特別な感情を抱くことは難しいように思えます。
のび太君のもとにあるドラえもんが定期メンテナンスで工場に移ってそこで事故にあったしまったらどうでしょうか。この場合は、個人的には悲しくなるような気がします。

この違いはどこにあるのでしょうか。
これは、ドラえもんと人がどれだけ関わりをもったかによるのではないでしょうか。ドラえもんとのび太君が出会って沢山の冒険をする、視聴者はその記録を目にして記憶とします。すると、1度記憶されたドラえもんが何らかのかたちで悲しい目に遭ってしまったときに視聴者は視聴者の記憶とセットで悲しいと感じている。そうすると、ドラえもんそのものが壊れたことが悲しいのではなくて、ドラえもんと関係性をもったのび太君やそれを見た我々の記憶を通じて悲しいと感じているのではないでしょうか。

仮に上記の様な考え方が妥当するならば、権利の対象となるのはドラえもんではなく、一緒に活動をしてきて悲しくなるのび太君やそれを見た視聴者の思想や感情なのではないでしょうか。AIを搭載したロボットであるドラえもんはのび太君や視聴者の思想や感情を長期に投影し続けるスクリーンのような存在で、のび太君や視聴者は自らの思想や感情をそのスクリーンとやり取りすることによって醸成しているのではないでしょうか。
もちろん、そういった感情が保護に値するかどうかは個別に検討を行う必要がありますが、少なくともドラえもんに直接に権利を与える前に検討すべき問題ではないでしょうか。

このように考えると、ドラえもんに権利を与えるべきかという問題を直接検討する前に、ドラえもんの周辺の人の権利について検討をすべきであって、ドラえもんが権利を持つことと、人の権利がドラえもんを関連付けて検討されることを明確に分ける必要があると言えます。
まず人の権利について丁寧に検討を行って、それでもなおドラえもん固有の権利あるのであれば、その時にはじめてドラえもんに権利を与えるべきかを改めて考えるべきです。

これはAIだけでなく、人以外の権利を考える上でも重要な点です。自然人と言った場合には、その始期は出生であり、終期は死亡になります。すると、
死者のプライバシー(の権利)という問題が議論されることもありますが、私はこれも死者のプライバシー(の権利)ありきで議論をすることに疑問を持っています。死者のプライバシー(の権利)なのか、生存する自然人のプライバシー(の権利)で死者に関するものなのかを分けて考える必要があります。この辺りについてはあらためて、過去の判例なども踏まえて考察を行っていきたいと思います。

いずれにしても、いかにAIが高度になっても、少なくともドラえもんが実現されるようになっても、AIに権利が与えられることはないように思います。
ということは、AIに関する制度を考える上で、AIに関わる人をいかに規定するかがポイントになりそうです。
欧州ではAIに関するルール作りが進められています。
「人間中心のAI」が掲げられており、上記で検討をした内容とも親和性があるように思います。
社会が大きく変わろうとしている時こそ、既存の制度やこれまでの議論を冷静に踏まえた検討が必要であるように感じます。