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eスポーツの価値、そしてeスポーツを自分の物語として編むために「書く」こと

2019年の夏、僕はある対戦ゲームに夢中になっていた。1人で黙々とプレイし、そのゲームの実力を示すランクを上げることに熱中していた。そしてその最も集中していた30時間のことをnoteに綴った。

eスポーツと呼ばれる対戦ゲームでは、何百時間、何千時間と同じタイトルをプレイしている変人たちが大勢いる。だから、僕のあの30時間は客観的に見ればたいして長い時間ではない。

でも、振り返って気がついたことがある。あの30時間、自分で定めた目標を達成すべく打ち込んだ気力と試行錯誤にこそeスポーツの持つ根源的な価値が詰まっていたのだと。もっと詩的に言うなら、あの30時間は僕の精神の血の輝きそのものだった。

僕はその輝きを──「このゲームはこんなに面白いんだぞ」「このゲームをおれはこんなにも楽しんだぞ」というただそれだけのことを誰かに伝えたくて、『プレイ・フォー・オートチェス』という私小説を書いたのだ。

いまここで、僕は改めてeスポーツの価値について書こうとしている。いまさらのように思われるかもしれないけれど、一度も書いたことがないからこそ、書いておきたい。不幸中の幸いにして、考える時間も、書く時間も読む時間もたっぷりある。

来たるeスポーツの時代に備えて

なぜeスポーツの価値について書かなければならないのか。それは、eスポーツが広く受容され、社会に不可欠な文化の1つとして根づく時代が来るという確信を抱いたからだ。eスポーツの時代が来る前に、何よりeスポーツの時代をもたらすために、僕たちは準備しなければならない。

その確信のきっかけとなったのは、宇野常寛の『遅いインターネット』と、冲方丁の『精神の血を捧げて』である(後者は『マルドゥック・スクランブル The Third Exhaust──排気』の後書き)。この2つのテキストを参照しながら、eスポーツの価値について考え、eスポーツをプレイすることの意義、さらにその体験を「書く」ことの必要性を議論していく。

この記事は、僕が今後eスポーツとどういう距離感で付き合っていくかの所信表明でもある。過去の記事や発言と矛盾するところも多々ある。それを押してなお、現在の考えを書いておきたい。

よりよく生きるために

さて、いったいeスポーツにどんな価値があるというのか。僕が示したいのは、よりよく生きるためにeスポーツが強力な支えとなるということだ。まずはこのことを説明しないといけない。

「よりよく生きる」ことをどう捉えるかはさまざまだろう。僕は「他者に迷惑をかけず、他者の評価に依存せず、ほどよく他者と繋がり、いろんなことを学びながら、自己充足しようとする」ことと考えている。そして、僕は万人のための規範として「人間はよりよく生きるべきだ」と主張する。

どうすればよりよく生きられるのだろうか。自己充足がキーワードだ。つまり、僕たちは他者との関係性を意識しながらも、自分の人生を自分でコントロールして生きていく必要がある。

充足するにはいくつも手段がある。たとえば経済的な充足、生きがい/やりがいを持つことでの充足、社会貢献による充足、家族と暮らすことによる充足、あるいは他者から承認されることでの充足。

特にいま注目すべきは承認欲求だ。なぜなら、インターネットが発信するためのツール(SNS)を与えたことで、誰もがこの古い欲望を新しい手法で気軽に満たせるようになったからだ。「いいね/スキ」されることが至上の喜びに直結しているような人も多い。

しかし、コントロールの効かない他者の評価に依存することの不安定さは、かえって満足感を脅かすことさえある。だから、僕は自分で自分の満足感をコントロールすること、すなわち自己充足を「よりよく生きる」ことにおいて重視する。

では、よりよく生きるためになぜeスポーツが支えとなるのか。それを考えるには、なぜ多くの人がSNSで承認欲求を満たそうとしていて、なぜeスポーツ(をプレイすること)が承認欲求と距離を置いていられるかを検証する必要がある。

世界への触れ方と文化の四象限

ここで『遅いインターネット』を参照する。宇野は同書で「文化の四象限」について提案しており、僕たちの心を動かすメディアやコンテンツを2本の軸で切り分けたマトリクスで分類している(下図は僕が作ったもの)。

※ちなみに、同書の中核を成す宇野の「遅いインターネット計画」についてはその思想と運動に深く共感するものの、この記事では深入りしない。ここで必要なことは「文化の四象限」の考え方だ。

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横軸は「非日常─日常」、縦軸は「他人の物語─自分の物語」のグラデーション。メディアやコンテンツに接する人にとって、それが非日常の行為か日常の行為か(生活との密接度)、他人の物語か自分の物語かを表している。「物語」はかなり抽象的な言葉で、創作のストーリーだけでなく、リアルの人生や体験、体制やイデオロギーなどいろんな意味を持つのでなんとなく理解してもらえればよい。

宇野は、社会を維持するためには人々が世界に触れている実感を得る必要があるとする。世界への触れ方には「非日常─日常」「他人の物語─自分の物語」という2つのパラメーターで表現できる手段(メディア)がいくつもありうることがこのマトリクスで説明されている。

「非日常×他人の物語」の象限を担う主要なメディアは映画や小説だ。人は非日常的な娯楽として映画や小説で他人の物語に触れ、感情移入して楽しむ。20世紀の前半から現代にかけて発展してきたメディアで、いまなお多くの人を魅了している。

「日常×他人の物語」の象限を担う主要なメディアは動画とテレビだ。まず映画から発展してきたテレビがあり、それが情報技術により動画(+ライブ配信)となった。受け手にとって日常的に接するものであり、しかしその内容は他人の物語である。

「非日常×自分の物語」の象限を担う主要なメディアは旅行とイベントだ。最も古い領域ではあるが、インターネットが映像や音楽を気軽に自宅で視聴できるようにしたおかげで、現代ではかえってライブイベントや現地に赴くことなど自分の肌で体験することの価値が増している。もちろん非日常的だ。

最後の「日常×自分の物語」はどうか。宇野はこの象限がまだ手つかずのフロンティアだと指摘する。対応するメディアは想像どおり、インターネットだ。特にSNSによって、人々は簡単に世界に向けて日常的に自分の物語を発信できるようになった。その快楽は他人の物語に耽溺する快楽を軽く越えていく。

そしてそれゆえに、SNSではさも理解しているふうの安直なコメントを付与した引用リツイートや自分が正しい側にいると確認するためだけに他人に石を投げるツイート、肥大した自己意識にまみれたプロフィール(ステータス)自慢が行なわれてしまう。

せっかく自分の物語を語ることで世界に触れられるのに、瞬間反射で他人の物語に乗っかって「いいね」を集め、世界と繋がっている錯覚に溺れる。だから、宇野はいまこそしっかり読み、しっかり書くことで真っ当に日常的に自分の物語を通して世界に触れることが必要だと説く。

※なお、同書では大テーマとして「民主主義(政治)を人々の手に取り戻すこと」が掲げられている。それは、民主主義がかつて社会を維持するために必要な「世界に触れる回路」であったのに、いまや人気取り(ポピュリズム)によって機能不全に陥ってしまったからだ。そのため、民主主義を再生するには世界に触れる別の回路を作らなければならない。SNS、特にTwitterによる政治的動員(Twitterで政治的発言や要求をすること)は世界に触れることを可能にしたように思えたが、もはや他人を叩いたり「いいね」を稼いだりする場と化して破綻している。だから、日常的に行なう「読む」と「書く」で世界に触れることが重要になる。

先に述べたように、宇野の問題設定とこの記事の問題設定は近しくても異なるため、詳しくは同書を読んでもらいたい。

弊誌を読んでくれている人からすれば、当然疑問に思うことが1つある。ゲームはどうなのか、と。同書でゲーム一般への言及は多くないが、ゲームは総合芸術と言われるように多面的で、内容によってどの象限に当てはまるかは異なる(後述)。

しかし、同書では『ポケモンGO』が鋭く考察されており、同作が世界を情報環境化することで、人々を直接的に世界と接続させる試みだと解説される(人々に日常的に自分の物語を歩ませようという試み)。

宇野は『ポケモンGO』を称賛しながらも、その限界を指摘する。『Ingress』は一部のアーリーアダプターにしか届かず(すでに世界に触れている実感のあるエリートにしか届かなかった)、大勢の人々を世界に触れさせるという試みにおいては失敗した。『ポケモンGO』はたしかに大勢の人々に遊ばれていてその試みが成功したように見えるが、ポケモンという他人の物語の存在が大きすぎるという。ポケモン自体に入れ込めば入れ込むほど(ポケモンを捕まえることに熱中すればするほど)、自分の物語との距離は遠くなる。

「日常×自分の物語」を実装しうるように見えたSNSも『ポケモンGO』もすでに限界が見えている。そこで宇野は「読む」と「書く」に可能性を見出すが、僕はまた別の回路としてeスポーツに可能性を見出す。

承認欲求との付き合い方

eスポーツの可能性とは、承認欲求(他者)とほどよい距離を取りながら自己充足し、日常的に自分の物語を編むことができるという点だ。

宇野は、SNSの台頭によって人々が他人の物語に感情移入するよりも自分の物語を語ることのほうが楽しく、強い快楽を得られることに気づいたと書いている。もちろん、人々はいまも映画やアニメを観るし、テレビも観る。マンガのキャラクターに共感し、VTuber同士のやり取りを追いかけ、著名人の不祥事に関心を寄せ、政治家のだらしなさを嘆き、社会問題に一喜一憂する。そして、これが重要なポイントだが、いまではSNSによって自分がそれらをどう思うか、賛成か反対かを発信できるようになった。

しかし、その手軽さは深い理解や熟慮をスルーしてしまう。本当は少しも自分事として考えていないのに、そうしたほうが優れた人物に見られるだろうと空気を読んで著名人のツイートや報道機関によるニュースをリツイートする。時には自分が問題をさも理解できているかのようなコメントをつけて。それに「いいね」がつくと、自分が何者かであるように錯覚し、何事にもYESかNOを突きつけなければならないと錯覚する。その浅薄さこそがSNSを用いて世界に触れることの可能性を閉ざしてしまっているのだ。

だとしても、SNSを離れ、「いいね」にこだわらず自己充足の道を歩むのは難しい。承認欲求は人間が持つ生得的な欲求であり、自分の物語を世界に向けて発信できることを知ったあとにそれを手放すのは不可能だ。

僕は承認欲求を捨てるべきだとは思わないし、それが生きていくために必要だと分かっている。もはや人々の価値観は情報技術によって決定的にアップデートされてしまったのだ。また、自分の物語を語る/編むこともよりよく生きるためには絶対に必要だ。他人の物語に依存してよりよく生きることはできない。

よりよく生きるための方法の1つとして、他人の物語に耽溺するばかりでなく、それを自分の物語に引き込んでくるのはどうだろうか。僕は他人を応援することに可能性があると思う。

当然、応援には最初から限界が見えてはいる、なぜならそれは、他人の物語に関与させてもらうことでしかないからだ。でも、応援することには「誰をどれくらい応援するか」という主体性がある。アスリートやアイドルを応援することは、先の四象限でいえば、他人の物語たる第一象限と第二象限から下方向、自分の物語へ矢印を描く試みである。

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そうは言っても、応援は第三象限と第四象限(自分の物語)をぴったり満たすことはできない。『ポケモンGO』が自分の物語から他人の物語へと流れてしまうのと逆の問題で、他人の物語を自分の物語にしようとしても、結局そこに自分が主体的に関与しコントロールしうる物語を編めない限り、それは根本的に自分の物語ではないのだ。

※ただし、宇野が言うように、他人の物語に触れて自分の世界への接し方が変容するのであれば、それはとても実りのあることだ。宇野はそれを批評と呼び、書くのであれ読むのであれ自意識(文中では自己幻想)が肥大する時代に不可欠な言葉だと言う。要するに、他人を応援することで自分の物語を編むための勇気をもらえるとしたら、それには大きな意義がある──これは応援の最も強力な効能だ。

僕たちが直面している問題が見えてきた。いま、情報技術によって誰もが自分の物語を発信できるようになった一方で、その行為は承認欲求を満たすために暴走してしまうことがある。それを避けてよりよく生きる方法を探るために、いよいよeスポーツの価値について語ろう。

「日常×自分の物語」としてeスポーツをプレイする

ゲームを文化の四象限で捉えると、キャラクターたちの人生を追体験するストーリーもののゲームは「非日常×他人の物語」に分類できる(すべてのRPGがそうだ)。ソーシャルゲームやMMOのように、キャラクターを育てたりゲーム内の目標をクリアしたりするために繰り返しプレイするようなゲームは「日常×他人の物語」だ。

※ただし、ゲームはプレイヤーが主体的に動かすものなので、どんなジャンルでも常にある程度の割合で自分の物語に引き寄せられている。

パズルゲーム、パーティゲーム、やり込みプレイはキャラクターよりも自分の能力(知識、練度、行動力)や目標設定が重要で、しかし日常とはほど遠いので「非日常×自分の物語」と言えるだろう。

そして対戦ゲームおよびeスポーツは、「日常×自分の物語」にあてはまる。僕はこの象限にRTAや音楽ゲームを入れてもいいと思っているが、この記事では特に取り上げない。

※ちなみに、やり込みプレイとRTAは同じようにゲーム内の目標を度外視して自分で目標設定して取り組むが、その違いはやり込みプレイが基本的に目標を達成したらそれきりであるのに対し、RTAは自他の記録更新のために研鑽し何度もプレイするところにある。RTAに限らず、目標達成後も何度もプレイするやり込みプレイは「日常×自分の物語」に入れていいと思う。

音楽ゲームについては、例えば僕は『SOUND VOLTEX』をよくプレイするが、同じ楽曲を何度もプレイする。スコア更新というゲーム内の目標がありつつ、ただその楽曲を奏でて楽しみたいという気持ちのほうがはるかに強い。この繰り返しプレイに、僕は日常性を見出している。

さて、「日常×自分の物語」としてのeスポーツとはどういう意味なのだろうか。

eスポーツの特徴を挙げてみると、ストーリーの進行やキャラクターの育成が目的ではない、ゲーム内の世界観は通常無視される、自分で目標を定める、繰り返しプレイする、うまくなるために研究する、ゲームで強くなるために体を鍛え健康に気を使う(『FFVII REMAKE』をうまくプレイするために筋トレをする人はたぶんいない)、誰かと連絡を取り合って対戦する、ゲームを通じて友人ができコミュニティに属する、といったことがある。大会で優勝すれば社会的な名誉と賞金を得られ、賞金額によっては人生の色合いを一変させることもできる。

ここで重要なのは、自分で目標を設定して研鑽することと、その目標が達成されても新たな目標設定や他人との競争やコミュニケーションなどで繰り返しプレイすることである。

また、eスポーツは言うまでもなく世界と直接的に繋がっている。実力を示すランクは特定のリージョン(たとえば日本)だけでなく世界規模で比較できる。国内大会を優勝すれば世界大会に出場できる、あるいはいきなり海外大会にも出場できる。また、例えば『クラッシュ・ロワイヤル』では、ごく日常的にアラビア語の名前のプレイヤーとマッチングされ対戦する。それと、単に身近な誰かと競い合うことも世界に触れることの一端だ(あと死ぬほどイラつく)。

このように捉えると、eスポーツをプレイすることはおのずと世界に触れる感覚を得ながら「日常×自分の物語」を編んでいることになる。

そして、僕たちはeスポーツで目標を達成したことをシェアすることで承認されうる。これがまさしく承認欲求とのほどよい距離感だ。著名人のツイートや時事ネタに乗っかった引用リツイートへの「いいね」は、あたかも自分が何かを成し遂げた錯覚に陥らせる。しかしそうではなく、真に自分自身で成し遂げたことをシェアするのが大切なのだ。そこにときどき「いいね」がつけば、何倍も心地よい気持ちになれるだろう。

eスポーツはすべての象限を満たす

ここで視点を少し変えて、eスポーツから「文化の四象限」を眺めてみよう。eスポーツには日常的にプレイするだけでなく、大会に出場したりプロゲーマーを応援したりすることも含まれている。

僕たちは誰でもeスポーツの大会に出場できる。これは第四象限「非日常×自分の物語」だ。そして、プロゲーマーやトッププレイヤーのプレイを視聴し応援するこができる。これは第三象限「日常×他人の物語」だ。応援しているプロゲーマーが大会で優勝すればその喜びを分かち合える(あるいは敗北した際には悲しみを)。これは第一象限「非日常×他人の物語」だ。

冒頭で僕が「eスポーツが広く受容され、社会に不可欠な文化の1つとして根づく時代が来るという確信を抱いた」と書いたのは、eスポーツが「文化の四象限」をすべて満たし、承認欲求とほどよい距離感を保てることに気がついたからだ。

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だが、eスポーツに対する評価のうち、最大の難敵を見逃してはいけない。それは「たかがゲーム」という見方である。

たかがゲーム、それゆえに人間らしく

1つのeスポーツタイトルに何千時間も費やす。多くの人はこのことにどんな価値があるのかをまだ正確には見極められてはいない。たかがゲームに時間を注ぐくらいなら、仕事や人生に直接役立つ勉強をすべきではないのか? 

そう言われると正面からの反論はしがたい。eスポーツをプレイするだけでは(一部の人たちを除いて)暮らし向きはよくならないからだ。しかし──直近は社会的に経済面の不安が高まっていても──10年単位の長期間で見れば世界の経済状況はより安定していく。そうなったとき、問題となるのはやはり承認欲求であり、自己充足である。僕が「準備しなければならない」と書いたのは、そんな時代が到来したときのためだ。

とはいえ、僕たちは「たかがゲーム」という価値観によって窮地に立たされている。だからこそ、eスポーツの根源的な価値を明らかにしなければならない。そのために冲方丁の『精神の血を捧げて』を参照しよう。

これは冲方が『マルドゥック・スクランブル』を何のために書いたのかを明らかにしたテキストだ。その中でまず、人類がさまざまな価値観を作り上げて生存・繁栄してきたことを述べている。価値観とは、冲方によれば「たまたま起こった事柄の意味を探り、その事柄の反復をもくろみ、そしてさらに新たな、より「価値のある」事柄を起こそうとする」ことだ。

人類は価値観のもとで努力し、挫折し続ける。挫折さえも一つの価値として記録する。たとえその記録が失われてもなお、漠然とした記憶に抱き続ける。
それが人類の尊厳であり、我々は、たとえどれほど、みじめでちっぽけな個人であったとしても、常に価値の栄光の中にあって、不滅であり続ける。

人類は長らく自然に発生する価値観(腹が膨れるかどうか)を頼りに生きてきた。だが、言語と意識が生まれ抽象的で未来的な思考を行なえるようになったとき、人間がたまたま作ったモノや概念に任意の価値を宿すことが可能になった。eスポーツの価値を考えるうえで、この自然的価値観と人工的価値観(文化)がキーワードとなる。

『マルドゥック・スクランブル』ではカジノのゲーム(ルーレット、ポーカー、ブラックジャック)で戦う長大なシーンが描かれる。冲方は直接的には言及していないが、カジノのゲームは人間が価値を見出さなければ何の意味もないものだ(カジノのゲームで腹は膨れない)。同作が登場人物たちの(人工的)価値観の衝突であるがゆえに、その価値観を直接ぶつけ合うためには自然的価値観たる暴力(腕っぷしの強さ)だけではなく、同じ人工的な価値観に依って成り立つカジノのゲームでの勝負が欠かせなかった。

生物としての人類にとって、自然的価値観が何より重要なのは間違いない。生きるためには空腹をしのがなければならない。対して、人間(社会的存在)としての人類にとって、人工的価値観はよりよく生きるために不可欠である。空腹をしのぐだけではこの巨大な社会は維持できないからだ。

宇野は社会を維持するために世界に触れる感覚として民主主義(の再生)が必要だと言っているが、民主主義とはまさに人工的価値観(文化)にほかならない。『マルドゥック・スクランブル』を書いたときの冲方にとって、人工的価値観の象徴はカジノのゲームだった。いまの僕にとってそれはeスポーツである。

冲方は人工的価値観に依って立つエンタメがどういうものなのかを説く。エンタメとは、それを作る者にとっては、自分が見出した面白さ(価値観)を追求し、みんなに共有するための手段を指す。冲方はまた、自分が見出した価値観のことを精神の血の輝きと例える。人は誰しも、精神の血の輝きによって生きているのだと。

ならばなぜ、そもそも、そんなものを書いたのか。
僕はただ、反吐にまみれながら見つけた、精神の血の一滴を、他の誰かにも見せたかっただけなのだ。そしてその切々とした輝きが、どんなときも、あらゆる人々の中にもあることを、大声で告げたかっただけなのだ。
最善であれ最悪であれ、人は精神の血の輝きによって生きている。
エンターテイメントは、その輝きを明らかにするためのものに他ならない。

エンタメを受け取る者は、作り手が見出した価値観に共感したり反駁したりする。いずれにせよ、そこには受け手自身の精神の血の輝きが宿る。ただもちろん、宇野が指摘するように、受け手の精神の血は「しっかり読むこと」でしか輝きえないのだろう。

ゲームは無数の価値観(ルール)によって成立しており、あらゆるゲームに作り手の精神の血の輝きが宿っている。プレイヤーはゲームの中にあるその輝きを見つけようとする。この営みこそ人間らしさだ。人間らしくあるために、空腹をしのぐだけの人生を歩まないために、ゲームというエンタメが必要なのだ。

そのうえでさらに、eスポーツをプレイすることは他人の価値観(物語)に共感するだけでなく、自分だけの価値観(物語)を作ることも可能にする。1つのeスポーツタイトルを何百時間、何千時間もプレイするのは、そこに精神の血の輝きを見出しているからにほかならない。しかもeスポーツは、それらが直接ぶつかり合う場だ。

自分の精神の血の輝きを見出だせること=自分の物語を編めること、これがeスポーツの根源的な価値である。

よりよく生きるための手段としてのeスポーツ

僕は長い間、eスポーツの価値について考えていた。世間でeスポーツが語られるとき、その価値は経済やコミュニティ、教育などの面に見出されることがほとんどだったが、それらは二次的なものであると分かっていた。僕自身もそうした二次的な価値について記事を書いてきた。でも、では根源的な価値とは何なのか、言葉にできないでいた。

『精神の血を捧げて』がそのヒントになることは認識していて、いつかちゃんと書こうとは思っていた。なのに、どうしても書き出すことができない。何かが根本的に不足している気がしていた。

ところが、『遅いインターネット』が読んで「文化の四象限」に出会い、ついに自分なりの答えを閃いた。そのマトリクスを構成するたった2本の線が足りなかったのだ。

その2本の線はeスポーツの根源的な価値を明らかにしてくれただけでなく、根源的な価値をより実践的な価値へと応用する道筋を開いてくれた。それが、よりよく生きるための手段としてのeスポーツだ。

自分の物語を発信するために書く

最後に、皆さんにお願いがある。これはeスポーツを通して自分の物語を編む発展的な方法でもあるが、ぜひ皆さんにeスポーツにまつわる体験について書いてほしい。

僕たちはもはや書くことから逃れられない。だとしても、浅薄な引用リツイートややらかした誰かに石を投げるのではなく、できれば質のよい、まとまった形のテキストのほうが望ましい。eスポーツをプレイするだけでも世界に触れられるが、記事を書いて自分の物語を発信することは世界に触れる別の方法でもある。

僕は何度かeスポーツ界隈にいる人に「書け書け」とけしかけている。それは僕たちeスポーツ好きが書いて発信することが業界の発展に絶対に必要だと考えているからだ。プロゲーマーでも、eスポーツ関係の仕事をしている人でもいい。だけど、僕は特に一般プレイヤー(プロゲーマー以外)が書くことが最も大切だと思っている。

ネット上に、あるいはnote上だけであっても、eスポーツにまつわる体験について書かれた記事が溢れているような状況を想像してみてほしい。きっとeスポーツはいまより大きな存在になっているだろう。いや、僕たちが記事を書いて個人的な体験や価値観を共有することで、eスポーツはもっと大きな存在に成長していくのだ。

何かを書けるような経験はしていない、と謙虚に捉える人がいるとしたら、僕が書いた『プレイ・フォー・オートチェス』を読んでみてほしい。たいそうな目的意識はなく、ただ自慢できそうだからという理由でランクを上げようとしている様子を描いているだけ。特別な出来事は何一つ起きていない。単純に、30時間プレイし続けられるほどに面白いゲームだということを書いているにすぎない。それでも、この私小説は好評をいただけた。

不安になるより先に、まずは経験したことを書き始めるのがいい。すると、自分が何を大切にしているか、どんな価値観を共有したいのか、それが見えてくる。どんな苦労があったのか、それをどう解決したのか。あるいは誰の情報をなぜ参考にしたのか、そもそもなぜそのゲームをプレイし始めたのか。プレイの最中には気づかなかった、実は大事なことが分かってくる。

書いて、消して、書き直して、ちょっと時間を開けて読み直して、また書いて、ようやく形になるだろう。そのとき、綴ったテキストの中にまた何か別の価値を──精神の血の輝きを見出だせるかもしれない。

そして、どうかできることなら、書くことを日常に取り入れてほしい。1本だけなら比較的簡単に書ける。難しいのは継続して書くことだ。でも、だからこそ価値がある。noteのIDを有しているユーザーは210万人いるそうだが、そのうち継続的に記事を書いている人は5万人もいないのではないだろうか。カテゴリーをeスポーツに限れば、100人もいないと思う。

まあ、それはどうでもいいことだ。とにかく、僕はこの記事を読んでくれたすべての人に自分の好きなeスポーツタイトルにまつわる体験を書いてもらいたい。この記事を読んだ感想や疑問に思ったことでもいい。特に、宇野が言うように「質のいい読み」とは読んだあとに自分なりの疑問や問題を見つけることなので、その力を鍛えるのにもちょうどいいだろう。

書くことに関して悩んだり不安に感じたりすることがあったら、いつでも僕に相談してもらって構わない。

僕はこれから、いままで以上にeスポーツのことを書く人をもっと増やしていく活動をしたいと考えている。大会の視聴者やチームのファンを増やすこともシーンの発展のために大切かもしれないが(僕もそういう記事は今後も書くが)、そもそもプレイヤーがeスポーツを自分の物語として楽しめていないと意味がない。eスポーツに関する体験談を書くことは、まさしく自分の物語を楽しむことなのだ。

オーガナイザーやチーム・選手にはこうあってほしい

以降は余談として、eスポーツシーンを発展させたい、ファンを獲得したいと考えているオーガナイザーやチーム、選手に対してこうあってほしいという希望を書いておく(あるべきだとはもちろん言わないし、全員がそうあるべきだとも思っていない)。

この記事で明らかなように、大会を視聴させたり選手を応援させたりすること、言いかえれば「他人の物語に熱中しろ」だなんてことは、時代錯誤もいいところだ。僕たちは自分の物語を編むことによって承認される快楽を知ってしまった。他人の物語にかかずらっている余裕はない。

だとすれば、視聴者やファンを獲得したいオーガナイザーや選手はどうしたらいいのか。一般プレイヤーがeスポーツを通じて自分の物語を編むことを勇気づける存在、エンパワーメントする存在になるしかない。

一緒にゲームをプレイするのでもいい。アスリートは応援してくれている人と日常的に一緒にトレーニングはしないし、アイドルはファンと一緒に歌ったり踊ったりしない。でも、プロゲーマーは日常的に一般プレイヤーとゲームをプレイすることができる。eスポーツの最大の長所はそこにある。プロゲーマーはアスリートともアイドルとも違う存在になれるのだ。

自身の言動を通じて、いかにファンの人生を豊かにできるか。自身がかっこよくあると同時に、いかにファンをかっこよくできるか。もしくは、いかに自分の中の精神の血の輝きを追求し、ファンに共有できるか。それを意識できているプロゲーマーだけが生き残っていくのだと思う。

このことは大会にしても同じだ。いかに視聴してもらうかではなく、いかに能動的に参加して自分の人生を豊かにしてもらうかという視点を大切にしてほしい。オーガナイザーの創意工夫が求められるが、それを考えるのはきっと面白い。

たしかに、リアリティショウやドラマなどの「他人の物語」は盛況で、夢中になっている人はまだ多いように見える。しかし、実際には感想や予想を語り合うこと(自分の物語に引き寄せて発信すること)の快楽によって人気が出ている場合が多い。

どんなコンテンツも自分の意見や行動を挟み込める遊びのあるほうが人気になりやすいし、これからのコンテンツには「承認欲求」と「自分の物語」が不可欠な要素となるだろう(マーケティングにしても同様だ)。

※先ほど掲載した「文化の四象限×eスポーツ」の図は、見方を変えればビジネスチャンスのありかを示してもいる。ゲーム(eスポーツ)のコーチングがにわかに取り沙汰されている背景は、この記事を読み終わったあとならたやすく説明できると思う。

eスポーツシーンの発展のためには視聴者やファンを増やすよりプレイヤーの人生を充実させるほうが大切だ、と過去の自分が聞いたらたぶん嫌な顔をするだろう。でも、プレイヤーの人生を充実させるために「他人を応援する」という楽しみを提供するのは真っ当だ。要点は、応援することでその人の人生がいかに豊かになるかである。

さて、僕はこの記事を書き上げたことで、今後はいつでもeスポーツの根源的な価値に立ち返って考えられるようになった。皆さんもどうか自分なりのeスポーツの価値を考え、言葉にして共有してみてほしい。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます! もしよかったらスキやフォローをよろしくお願いします。