私が新聞記者を辞めた理由

巨大な岩

 29年2カ月続けた新聞記者を2022年5月末に辞めました。仕事は楽しかった。面白かった。辞めたくて辞めたわけではありません。目の前に突然、巨大な岩が立ちふさがって前に進めなくなってしまった。そんな感じです。

 拙著『赤ちゃんポストの真実』(小学館)を出版するとき、会社ともめたことは既にnoteに書きました。けれども、読んでくださった方から寄稿の依頼を受けたり、講演の依頼が来たりするようになったので、少しずつ風向きが変わるかなあと淡い期待を持っていました。ところが…。

 300人規模の講演会の講師と、医療関係者の集まる会合での講師と、月刊誌への寄稿の依頼を相次いで受けたので会社に報告しました。今年3月のことです。寄稿はあらかじめ原稿案を添えて出しました。目を通した幹部は当初、「フラットに書いている」と言いました。私は取材して裏を取った事実を淡々と書いており、誰かを批判する内容でもなく、問題視される理由はないだろうと思っていました。

講演も寄稿も「認めない」


 しかし、いずれも「認めない」と言われました。
 まず講師については、「赤ちゃんポストに関しては年間企画で連載をしているので、ポストがテーマなら今現場で取材している記者を森本の代わりに講師として派遣する」と言われました。主催者に相談したら、「私たちは森本さんの本を読んで、森本さんの話を聞きたい」とのことでしたので、私が応えるべきだと思いました。

 講師を誰に頼むかは主催者が決めることです。依頼された人が所属する会社が、講師を別の人にするのは主催者に対して失礼だと思います。私の「代役」をさせられる人にとっては大変な負担になってしまいます。与えられたテーマは「赤ちゃんポストの真実」、私の本のタイトルです。このテーマをもとに筆者ではない人が講演するのは、できないのではないでしょうか。

 寄稿については、「まだうちの新聞で書いていない内容が含まれている。まずはうちで書くのが先だ」と言われました。この時点で月刊誌の発行まで1カ月以上ありましたので、取材して毎日発行する新聞に記事を出すことはできたはずです。私に書いてくれと言われたらその日に出稿することも可能でした。そもそも全国で流通する月刊誌と地方紙が競合関係にあるとは思えないのですが…。「それでも寄稿するなら、『所属新聞社は関係ない』と入れてくれ」と言われたので、私の略歴に入れました。

原稿は没に


 実は本の出版前、「ニュースとして先に紙面に出しておいた方がいいと思います」として、私は原稿1本をプリントして幹部に見せました。見出しは「ゆりかごに中国人障害児」です。赤ちゃんポスト(正式名称は「こうのとりのゆりかご」)に預けた親の居住地が判明すれば、熊本市は「関東」「四国」などと発表します。2015年度に預けられた親の居住地の中に「国外」がありました。当時は外国人なのか、国外在住の日本人なのかわかりませんでしたので、16年の発表当時、「国外から預け入れ」とだけ報じました。

 それが中国で生まれた中国人で、双子の一人だと判明したのです。親は海を渡って熊本にきて、障害のある子どもをポストに置き、健常児だけを連れて帰国しました。これは18年に読売新聞に出た内容です。この記事をもとに取材すると、関係者が事実を認め、裏が取れました。本にもこの話は書きましたが、出版前に新聞でも記事を出すべきだと思い、原稿を準備しました。

 原稿を見た幹部は「今現場で取材している人が書くべきだ。続報もあるだろうし」と言いました。私は「現場が書くなら」と、原稿を引っ込めました。だからすぐに現場の記者が取材して記事が出るものと思っていました。社会面で大きくいけるニュースのはずです。赤ちゃんポストの賛否はともかく、現場で何が起きているのか、知ったことを報道することは記者の責任です。その子どもは日本と中国の間で宙ぶらりんになっており、人権にかかわる重大な問題です。

 しかし、2年以上たっても一向に記事はでません。なぜでしょうか。「裏が取れない」のか、「取材していない」のか、「大切な取材先にとって不都合で、書いたら嫌われるから書きたくない」のか。いずれにしても報道機関として疑問です。このままずっと報道しないつもりなのでしょうか。だとすれば、怠慢だと言われても仕方ありません。

心が折れた


 私が「先に新聞に出したい」と言った記事は却下され、月刊誌に寄稿するというと「新聞で出すのが先だ」といって認めない。八方ふさがりです。幹部のこんな言葉で心が折れてしまいました。

「まだうちの新聞で書いていないことがほかのメディアに先に出るのは社益を損ねる」

この瞬間、私の中で積み重ねてきたものがガタガタと崩れていきました。会社や先輩たちに対する信頼、この会社で働くことの誇り、そして私の尊厳。私に来た依頼を受けるかどうか自分で決められないのは、私の記者としての尊厳にかかわります。

 以前、不登校の子どもに向けたある作家のメッセージを思い出しました。「自分が大切にされない場所からは逃げていい」。逃げよう。そう思いました。退職を伝えた人たちから「熟慮の末でしょう」などと言われましたが、そうではありません。巨大な岩につぶされる前に逃げた。息ができないからせめて呼吸ができるところに行きたかった。

 会社は何を守ろうとしたのだろうかと思います。「ジャーナリズム」でもない。「個人の尊厳」でもない。何かを守ろうとしたというより、ひたすらマウンティングされたような気もします。

家父長的と同調圧力


 会社とのやり取りを振り返って思うのは「家父長的」と「同調圧力」です。私の最後の職場は紙面整理のデスクでした。誤字脱字のある原稿がほぼ毎日のように出されてくるので、その都度、指摘して出稿部に返していました。多くの誤字脱字がスルーされているのに、私が休みの日にほかのメディアに寄稿しようとすると幹部が「原稿を見せろ」と言い、目を光らせる。そんな時間があれば、自分たちの紙面に出す原稿のチェックにもっと目を光らせるべきではないかと思うのです。そもそも休みの日に何をしようと自由です。労働基準監督署に聞いたら「休みの日に本を書こうが、講演をしようが自由だ。届出を求めることはできても、会社が口出しすることはできない」と言われ、そのことは会社にも説明しました。

 しかし「労基はおかしい」と言われました。なぜなら私の肩書が出るから、とのことです。手下の行動をすべてを管理し、決定しようとするのは「家父長的」だからでしょう。オンナコドモが家の中にいればいいが、外に出て自由に行動させ、何か問題が起きると家父長の責任が問われると考えているのです。私は何度も「私個人の責任で出します。何か言われたら、森本が業務外で執筆しているので会社は関係ない、批判があれば本人か版元に直接言ってほしい、と言ってほしい」と繰り返し訴えましたが、「こっちにもハレーションが来るでしょ」と言われました。ハレーションが来たら毅然とした対応が必要です。ハレーションが来るのさえ困るというのは、事なかれ主義です。

 自分たちと同じでなければならないとする「同調圧力」も強く感じました。「記者が本を出して何が悪いのですか」と聞いたところ、幹部の一人は「森本の論調がうちの会社の論調だと思われてしまう」と言いました。私は多様な見方を提示することが大切だと考えてきました。それが報道機関の重要な役割だと思います。その上でどんな見方をするかは読者が決めることです。社内で論調の違いすら認めないのは、言論統制につながりかねません。赤ちゃんポストに肯定的な報道をしてきた人たちにとって、私が書いていることは「俺たちが書いてきたことを否定している」と感じたようです。異論を言う女性の口を封じようとする「ミニ森喜朗」さんだらけ…。

 家父長的な会社も、女性が増えれば変わるのではないかと思っていました。しかし、「社益を損ねる」と言ったのは私が信頼していた女性の先輩でした。ほかにも複数の女性記者の先輩たちが私の退社を後押ししました(本人たちにはそのつもりはなかったでしょうが)。家父長に物申すのではなく、偉くなると家父長側の意向に沿い、その代弁をするのは保身でしかありません。

「おっさんの掟」


 谷口真由美さんの『おっさんの掟』(小学館新書)を読みました。まさに私のことが書かれている!と思いました。「おっさんの掟」を変えていかなければならないと思っていましたが、挫折してしまいました。私の力が足りず、後輩の女性記者たちには申し訳ない気持ちでいっぱいです。多くの人たちと話したかったのですが、退職前は精神的にも疲弊していて、説明する余裕がありませんでした。「いつのまにか森本さんがいなくなっていた」と思っている人も多いのではないかと思います。ごめんなさい。ここで謝っても仕方ありませんが、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 退職を伝えたときの幹部の言葉が印象に残っています。「会社は一度決めたことをそう簡単に曲げられない」。たとえ判断が間違っていたとしても、絶対に認められないということでしょう。 

 退職する日、かつてお世話になった先輩にあいさつに行きました。こう言われました。

「あんたは記者として何も間違っていない」

 この言葉に救われました。
 29年所属した新聞社を離れることは本当につらいことでした。なんだかんだいっても楽しく面白い経験をさせていただきました。育てていただいたことに深く感謝しています。感謝の気持ちでいられるのは、この先輩のおかげです。本当にありがとうございました。

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