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幻想水滸伝4以降は『幻水』なのか シリーズ作品の理想と現実の齟齬に向き合って

小説、漫画、アニメ、ゲーム、映画。これらのコンテンツは支持を集めると続編が企画・制作され、シリーズを形成していくことがある。シリーズ化ともなれば好評に伴い資金が潤沢になったうえノウハウを得た制作陣がより質の高い作品をファンに齎し、ファンは自分の好きな世界と物語を更に楽しめる。まさにいいことずくめ…。
とはいかないのはご承知のとおりだ。それが実現できるならばなんとも理想的なのだが、現実にはシリーズ作品として展開が続くが故に苦悩が生まれることが往々にしてある
奇特にもこの文章を読んでくださっている皆様にも少なからず思い当たる節があるのではなかろうか。

自分の大好きなRPGというカテゴリで例を挙げると、『アークザラッド』『スターオーシャン』『サモンナイト』などはシリーズの一部のストーリーや設定が前作までの余韻を台無しにするものだったという声が多かった。こういった落胆を主とするケースは枚挙に暇がない。いわゆる“解釈違い”などもこれに近いだろうか。
『サガフロンティア2』のようなそれまでのシリーズ作品と世界観を共有しない作品でも、システムやBGMなどに従来のイメージとのギャップを強く感じたファンと支持層とで(特に発売当時)賛否が分かれた。

ゲーム以外で大きな事例なら、SF映画の金字塔『スターウォーズ』がある。
『スターウォーズ』シリーズはジョージ・ルーカス氏の手によって生み出されたが、ルーカス・フィルムと映画の権利は2012年にディズニーに買収され、以降の作品『スターウォーズ/フォースの覚醒』に始まるいわゆる“続三部作”にはルーカス氏は(諸事情あって)携わらずJ・J・エイブラムス氏やライアン・ジョンソン氏を中心に手がけられることになった。
ここで残念なのはルーカス氏の構想したオリジナルの物語を見る機会が失われたことだろう。ルーク・スカイウォーカー役のマーク・ハミル氏によればディズニーからの作品は「ルーカスの構想していたものとは大きく異なる」そうだ。
もちろんそんな背景があったとしても続三部作を楽しみ愛するファンはいるのだが、旧作とのストーリーの食い違いや作風の違いを指摘し『スターウォーズ』として認め難いというファンもやはり存在する。
それだけではない。続三部作内ですら監督の交代に伴う齟齬について議論が交わされ賛否が分かれている。
エイブラムス氏は続三部作の主人公・レイ役を務めることになったデイジー・リドリー氏がシリーズのファンではないことを知って電話でこう伝えたらしい。

「君が起用されるのは映画の役柄ではないんだ。人々のための宗教なんだよ」


ここにシリーズ作品のジレンマがある。同じタイトルを冠したシリーズ作品でも、その有り様が全ての人にとって望んだ姿になるわけではない
現実には様々な要因で理想とのギャップが生まれる。
シリーズ作品をシリーズたらしめるものは何なのだろうか。
ファン個々人だけではなく制作者にとってすらその定義は異なっている。


長々と例え話をしてしまったが(そもそも必要だったのかも怪しいが)、この話がようやく主題に繋がる。
それこそ他にも上述したような例がある中で何故わざわざ『幻想水滸伝』、略して『幻水』シリーズを俎上に載せたかというと、この作品こそが自分が最も愛するマスターピースだからだ。
心の宝箱であり、母なる海であり、帰るべき故郷だ。あかときいろの眠り忘れるときめきメモリアルなのだ。
『幻水』ファンの方々にとっては耳に出来たタコが肥大化し顔と同じ大きさになるほど関わってきたテーマだろう。例として挙げた作品群についても同様だが、デリケートな部分に触れて本当に申し訳ない。(実のところ『メタルギア』『サクラ大戦』シリーズなども力強い固定ファンの存在と作品の変遷からまさにこのテーマにピッタリなのだが、あまりに繊細なので…。)
自分は『幻水』を想う時、このことを考えずにはいられない。このように題した自分とて4以降の作品に思い入れがあるのだが、それでもやはり3までと以降ではシリーズに大きな変化があると思っているからだ。後述するが、ファンの皆様には察しがつくことと思う。
4以降を愛するファンには批判的なタイトルに映ったかもしれない。
それらの作品が特に心の大切な場所にあるという方にはとても受け容れられるものでもないだろう。
これはつまるところ自分が抱えているシリーズへの所感を例に挙げての話であって、決して4以降の作品そのものを、ましてやそれが好きな貴方自身を否定したり傷つけようという意図はない、ないのだが…。
とはいえもしそう感じたのなら辛く不快な内容になるかもしれないことは前置きしておきたい。

『幻水』はなにぶん1の発売が25年前(!)だし、最盛期にはゲームジャンルでも屈指の二次創作数を誇りジュニアやファンロードの表紙を飾りまくる程の人気があったとはいえ、IPが実質R.I.Pとなって久しいシリーズゆえに作品のことをよく知らないという方もいることと思う。
そもそもそういった人がこのお気持ち乱文に興味を持つものか甚だ疑問だが、いると仮定して進める。
なので簡単にではあるが『幻水』シリーズの特徴と変遷をなぞって話をしたい。(ロールプレイング以外の外伝作品に関しては都合上省略する。)


『幻想水滸伝』の魅力

『幻想水滸伝』はプレイステーション黎明期、1995年にコナミから発売されたRPGゲームを発端とするシリーズだ。

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「プレイステーションよ、これがRPGだ!」


本作はタイトルからも分かる通り中国四大奇書のひとつ『水滸伝』をモチーフにしている。
とはいえ、目立った共通点は宿星に選ばれた108人の仲間“108星”を中心とする戦記物ということくらいのもので、実態は東洋・西洋の文化をミックスした独自の世界観を持つファンタジーRPGだ。

システム面だけ見ればシンプルなコマンドバトルRPGだった幻水が人気を博した最大の特徴は
・多彩で個性的な108星をはじめとする「キャラクター」
・仲間が集い発展していく「本拠地システム」
・心に迫る「シナリオ&テキスト」

のみっつだろう。

人間にエルフにコボルトにモンスター、イカしたオヤジに強い女に老若男女、戦士に軍師、商人、鍛冶屋、漁師、盗人、忍者、ただの町人…とバラエティ豊かなうえに108という膨大な数がいながら非常に個性的な仲間たち
108星が本拠地に集まり一緒に戦ってくれたり、自分の技術や特技を活かして施設を作ってくれたり、ミニゲームで遊ばせてくれたり、はたまた何もせずお茶会をしていたり…これが見るに楽しい。
キャラがひと所に集って住まうために生活ぶりを空想するのも楽しく、キャラクターの魅力と併せて多くの二次創作を生み出したりもした。このあたりは昨今のアプリゲームにも通じるところがあるかもしれない。
シリーズを重ねていくと本拠地にいるキャラたちのセリフがストーリーの進行に合わせて変わるようになったり、仲間から手紙が届く「目安箱」、素性を調べてくれる「探偵」、プレイヤーが配役を決めて演技を見られる「劇場」などといった要素が追加され、ストーリー外でもキャラクターの掘り下げが多角的に行われた。

シナリオ&ディレクションの村山吉隆氏を中心として作られたシナリオとテキストは更にキャラクターの、そして作品そのものの魅力を引き立たせた。
単純にエピソードの質が良いというだけではその魅力を語るには不十分だ。
何よりも特徴的なのは、戦争や人それぞれの価値観を肯定も否定もしないことだ
ただその世界にいる一人ひとりの真実を描き、物語を形成している。
それゆえにプレイヤーは作品の一つひとつに思いを馳せることが出来た。
全てを受け容れ許す世界がそこにはあった

これらが『幻水』シリーズを象徴する独創的な要素となり、多くのプレイヤーの心を掴み人気シリーズと認知されるに至った。
シリーズの“らしさ”を問われれば大体がこのあたりをイメージするはずだ。
では、これらが備わっていれば『幻水』なのだろうか?失われれば『幻水』ではないのだろうか。
ここでシリーズの特徴からシリーズの変遷に、そして自分が主題のような思いを何故抱いたかに話を移そう。

シリーズの転換期 “らしさ”の喪失と迷走

契機は、シナリオ&ディレクションを務めていた村山氏が3発売直前に退社したことだろうか。
当然ゲームというものは誰か一人によって作られるものではないので、中心人物の退社を単純に結びつけるわけにはいかない。
加えてIPが会社のものである以上、制作においてクリエイターの意思や企図に必ずしも沿う形に出来るものでもないだろう。

理由はとにかく、その後生み出された『幻想水滸伝4』にはそれまで自分が『幻水』シリーズに夢中になっていた要素、つまり“らしさ”が損なわれているように思えてならなかった。
本拠地以外のシステム面やゲーム性の話については今回の“らしさ”の話から外れてしまうのでさておくとして…。(4もまた好きな作品なのだが、特にプレイアビリティという点でどうしても人に勧めることが…)
『幻想水滸伝4』も108星や本拠地が存在する戦記物という基本をなぞってはいる。
いるものの、しかしシナリオやテキストには以前のような意図は感じられなくなっていた。
それまでの『幻水』には村山氏の作家性が色濃く反映されていたということなのかもしれないが、それは続く『幻想水滸伝5』においても(程度の差はあるかもしれないが)同様だった。

加えて、4と5の二作とも時間軸が1以前にあることも気になった。
過去に舞台を移すことそのものは悪いことではないし、リソースなどが限られた中で制作者の皆様が幻水の世界観を受け継ごうと注力してくださったこともしっかりと感じられるのだが、やはり作品の色の変わり様を鑑みると『幻水』の世界を生み出し作り上げてきた人物がいなくなったことで作品世界の時間を未来に進めることが出来なくなったのではないかと勘繰ってしまう。

作品が以前のような評価を得ることがなかったためか、本当に3以後の物語を進めることが出来なくなったためなのか…。
いくつもの謎を残したままシリーズは5を最後にナンバリング作品の制作を打ち切り、新たな世界観で作品の展開を始めた。

『幻想水滸伝 ティアクライス』は個性的な108星と巨大な勢力と相対するというシリーズ定番のコンセプトを備えつつ、従来の世界観から離れて作られたシリーズのリスタートを図ったことが伝わる作品だ。
やや詰めが甘いもののちゃんと遊べるゲーム性があり、魅力的なキャラクターがいて、シナリオも丁寧に作られている。
本拠地にキャラの個性が活かされたり意外な一面が見られるような施設やミニゲームなどが存在しないのは寂しさを覚えるところだったが、これはDSというハードの制約もあったかもしれない。
自分はそんなティアクライスを好きになれたし、楽しめもしたのだが…『幻水』を遊んでいる時のような感慨はプレイ中にはほとんど得られなかった
4や5と同じく自分が感じていたような“らしさ”はやはり感じられず、紋章世界(ナンバリングの世界)から離れたことも手伝って一層シリーズとしての繋がりを失ったような気がした。
時の止まった紋章世界がどうにも出来ない以上、新たな世界観で作品を作り、既存のファンだけに向けたゲームにならないように変えるべきところは変えようとした意図は想像ができるし、理解もできる。
ただ、自分の目にはその取り組みはやや中途半端に映った。
108人いる仲間も本拠地も、似て異なるパラレルワールドが無数に存在する“百万世界”に紋章世界が含まれるとしたことも、無理に『幻水』シリーズに繋がりを持たせようとしているように思えてならなかった。
そしてひとつの疑問が頭をもたげ始めた。
「これはもはや『幻想水滸伝』の名を冠さずとも成立するゲームなのではないか?」


その不安はティアクライスの次作にしてシリーズ最終作となった『幻想水滸伝 紡がれし百年の時』でより明確な形になってしまった。

『紡がれし百年の時』略して『紡時』の概要をざっくりと説明すると、ティアクライス同様“百万世界”に含まれる世界で、100年に一度現れる怪物に対抗するために時を越え過去に遡って108星に出会う…といったところだろうか。
システム面やゲーム性について言いたいことが山程あるのだが、指摘が天竺への道程より長くなってしまううえにテーマから外れて戻れなくなってしまうのでここでもそれは極力言及せず“らしさ”に絞ってこのゲームの話をしようと思う。

まずは108星だ。このゲームは108星を集められない
実質的に仲間と言えるのは現代にいる天の宿星36人のみだ。
それ以外の宿星は過去の人物であり、現代に来ることはない。過去で一時的にパーティに加入したり主人公たちに技を伝授してくれたりするだけで108星として登録された扱いになる。いや、これならまだマシなほうだ。
なんと過去にいる宿星には名前だけの存在で作中に登場しない者もいて、そのうちの13名に至っては過去の時間軸ですら故人でキャラクターイラストさえ存在しない。
これで水滸伝を名乗ってよいものだろうか。

次に本拠地だ。コマンド選択式になり動き回れなくなった
数少ない現代の仲間が増えたところで会話はできない。コマンドで選んだ施設に行くのみだ。正確には施設担当と初回利用時に限り会話はできるのだが同じことだろう。
108星の名前が刻まれるシリーズお馴染みの“約束の石版”も、先述の理由から故人の名前ばかりが刻まれていく。まるで慰霊碑のようだった。

最後にシナリオについて話そう。完全に戦記物ではなくなっている。タイムトラベル怪物退治だ。
旧来のイメージから離れようという意図があると考えると戦記物から脱却したことを頭ごなしに否定すべきではないし、部分的に見ていけば悪くない箇所(具体的には終盤あたり)もあるのだが全体として展開が粗雑と言わざるを得ず、テキストも『幻水』らしさが感じられるものではなかった。
テーマとして描きたかったことすらも素晴らしき主題歌である『The Giving Tree』の方が表現されているように思える。
それでも作品単体として考えれば成立してはいるのだが…ここであの疑問に思考が及ぶ。

これもまた『幻想水滸伝』の名を冠さずとも良かったゲームではなかろうか。そもそもこれは『幻想水滸伝』なのだろうか?
無理やり『幻想水滸伝』のネームに依拠して作られているようにすら感じられる。
頭に『幻想水滸伝』と付けて百万世界のひとつと言い張れば『幻水』だと定義できると言わんばかりだ。

紡時に落胆を隠せなかったファンは多かったと言わざるを得ない。
こうして『幻水』シリーズは次第に作品を構成していた“らしさ”を失い続け、ナンバリングは凍結し、再起を図り新世界に舞台を移してもついに最盛期の評価を取り戻すことは叶わずその展開を終えることとなった。


おわりに~『幻想水滸伝』シリーズと向き合って


先述した特徴が作品を『幻水』たらしめてきたとするなら、やはり4以降の作品は“らしさ”を欠いていったと言える。
旧来作と同様に『幻想水滸伝』と名乗るような作品とは考えにくい。
そう結論付けるのは簡単なのだが…しかし、4以降の作品からシリーズに触れた方にとってはどうだろう。
それこそがその方にとっての原初の『幻水』に他ならないのではないだろうか。

所詮これまで散々述べてきた定義などそれ以前の作品からプレイした故に生じた自分個人の意見に過ぎない。
『幻想水滸伝』は誰かひとりのものではない。作り手にとっても、受け手にとってもだ。(IPの権利という点で考えてもそうなりますね…)
結局、4も5もティアクライスも紡時も『幻水』だ。『幻想水滸伝』の名を冠して世に出たものだ。
そこにいかなる事情があれど、これらの作品を愛し『幻水』だと思う多くの人にとって『幻水』だ。


かつて自分は持ちうる理性を総動員した末にこの結論に至ったのだが…。
1でオデッサが作中で言っていたように、自分が見たもの感じたものからは目を背けることは出来ない。ひとたび自覚した喪失感は繕うことは出来ない。
本心ではどうしても4以降の『幻想水滸伝』を自分にとっての『幻水』と地続きに考えることは難しく、心底からは認められずにいた。
思い出も好きなキャラも話したいことも数え切れないし、サントラで『La Mer』(※4のOP曲)を聴けば思わず笑みが溢れてしまうのだが、自分が知りたかった、見たかった『幻水』の未来は失われてしまっていた。そのことが無念でならなかった。
自分の気持ちに素直になるほど過去に縋るようになり、作品へ向ける愛情は現実ではなく理想と願望に深く根差すようになっていた。
正直に言えば、ナンバリングが未来に進むこともなく村山氏が携わることもないのなら新作など出なくとも良いとすら考えていた時期もあった。アプリゲーなどもってのほかだ。

しかし今は少しだけ違う。
自分の中の『幻水』像が変わったわけでも喪失感がなくなったというわけでもないのだが、こんなふうに自分のシリーズへの想いを内観しているうちに、理想と現実をぶつけあううちに、段々と『幻水』への向き合い方が変わった。
シリーズが迷走する中で失ったものや生み出そうとしたもの。自分が抱いた落胆や喪失感。そして自分以外のファンの想い。
それらもまた『幻想水滸伝』というコンテンツの一部なのだといつしか受け容れるようになった。
変化の是非は分からない。そもそも何がどうなるものでもない。
ただ、改めて自分の『幻水』への想いの原点に立ち返ることは出来た。

理想と現実の齟齬をも含めて、自分は『幻想水滸伝』が好きだ。
『幻水』と自分やファンが“約束の地”で再会できる日が来ることを心から願っている。



最後はお気持ち文らしい実にポエミーな締めにすることが出来たのではなかろうか。
なので現在のコナミに『幻想水滸伝』をしっかりと作る能力があるかなどの“現実”から目を逸していることにはどうか気付かずにいてほしい。
それとアプリゲー化だけは今もしてほしくない。


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キリィはいいこと言うなぁ…。

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