「コウメ太夫はなぜつまらないのか?」  —コウメ太夫とシュルレアリスム試論ー

 皆さん、初めまして。コウ・メダユーと申します。
今まではコウメ太夫氏(@dayukoume)のネタに対し、リプライ、或いは引用リツイートを行うといった形での発信を行ってきましたが、この度noteを作成しての詳論を行うこととしました。拙い文章ではありますが、よろしくお願いします。

はじめに 「コウメ太夫はなぜつまらないのか?」

 さて、いきなり本論の主題である、コウメ太夫氏(以下コウメ氏)のネタの「つまらなさ」について言及しようかと思います。
 コウメ氏のことを知らない読者の方もいらっしゃるかと思いますので、ひとまず、直近のコウメ氏のネタをいくつか鑑賞してみましょう。

 はい。どうでしょうか。
 「面白い」と思う方もいらっしゃるかもしれません。私はその感性を否定するつもりは毛頭もないのですが、一般的にはおそらく「つまらない」ものであると思われます。(かつてはまいチクアンケート君という、まいチクの面白さの指標となるアカウントが存在しました。)
 これらのツイートは直近のネタの中でも、私がかなりつまらないと判断したものを少々恣意的に選んだものです。
 では、何故これらのツイートはお笑いネタとして「つまらない」と思われるのでしょうか。次項にて分析していきます。

コウメ太夫のネタ分析 —その脈絡のなさ―

 まず、コウメ氏の特につまらないネタを改めて見てみましょう。

マスクを鼻と口に着けて白塗りで試験に行ったら~、
校門でトマホ~クでした~。
チクショー!!

 見てわかる通り、「マスクを鼻と口に着けて白塗りで試験に行った」ことと、「校門でトマホ~ク」(で襲われたこと?)が、全く脈絡なく接続されています。ここには、コウメ氏なりの論理があるのかもしれませんが、残念ながらこのネタを鑑賞する人々が一見でわかるものではなさそうです。

 先に挙げたネタはいずれも、脈絡のない作品ばかりです。
 コウメ氏のネタを分析する人々の間では、「~したら、」までを上の句、「~でした」までを下の句と称するのですが、コウメ氏のネタにおいては、上の句と下の句の接続において、話の文脈が見られない作品が多々あります。
 この「文脈の欠落」が生じている作品を鑑賞した人々の脳内にはおそらく、疑問符が浮かんでいることでしょう。そのモヤモヤ感、スッキリとしない感じは、「つまらなさ」に直結しているように思われるのです。

なぜコウメ太夫はこのようなネタを作りだすに至ったのか? 一つの仮説

 では、なぜコウメ氏はこのような脈絡のないネタを作りだすようになったのでしょうか。それについては、コウメ氏が「脈絡の無さ」「意外性」を混同しているのではないか、という一つの仮説が立てられます。
 その仮説を検討するにあたって、コウメ氏のおもしろいネタをみてみましょう。
 コウメ氏の代表的なネタに、「偏差値の低い学校に入学したら~、 先生がチンパンジーでした~。 チクショー!!」というものがあります。

 このネタはコウメ氏のネタの中でもかなり有名なものです。実際、おもしろいと思います。

 このネタの「おもしろさ」を検討するにあたっては、「意外性」がひとつのキーワードになるように思われるのです。
 「偏差値の低い学校に入学」したら、先生が意外にも「チンパンジー」だった...という、「意外性」。この「意外性」が私たちに「おかしさ」を与えているようにも思えます。
 しかしながら、それだけではありません。この作品のおもしろさは、「意外性」だけでなく、文脈によって下支えされているのです。例えば、以下の二つを比較してみましょう。

学校に入学したら~、
先生がチンパンジーでした~。
 チクショー!!

偏差値の低い学校に入学したら~、
先生がチンパンジーでした~。
 チクショー!!

 前者は、「偏差値の低い」という一節を取り除いたものですが、後者と比べるとどうでしょうか。何か物足りないというか、ユーモアが取り除かれた感じがします。
 確かに、前者にも「意外性」はあります。入学した学校の先生がチンパンジーだったら、もちろん驚きますが、どこか唐突な感じがしますし、お笑いのネタとしては何かが欠けているように思われます。
 つまり、このネタの場合、「偏差値の低い」という一節が生み出す「文脈」が重要なのです。「偏差値の低い学校」の先生が、「チンパンジー」であることが、偏差値の低さを揶揄するというややブラックなネタとして、アクセントを利かせているのです。

 こうしてみると、「意外性」はそれ単体ではユーモアとしては十分でなく、そこに「文脈」が必要なことが分かります。「意外性」単体では、ただ「脈絡のない」作品にしかならないのです。
 お笑い一般がそうであるとは限りませんが、少なくとも、「意外性」のみではお笑いとしては十分ではない、ということになるでしょう。
 コウメ氏は、先述のチンパンジーネタのような「意外性」のあるネタが受けたことを踏まえ、「意外性」と「脈絡の無さ」を混同し、「脈絡の無い」ネタを連発するようになった、という可能性が考えられるのです。

 が、果たしてそうなのでしょうか?20年を超える芸歴を持つお笑い芸人のコウメ氏が、単純なお笑いの理屈すら考えていないことがあり得るのでしょうか?
 
そうなると、次のように考えるのが自然でしょう。
コウメ氏は、”敢えて”脈絡の無い、意味不明な作品を次々を生み出している、と。

コウメ太夫とシュルレアリスム

 ここに、一つの可能性が浮上しました。脈絡の無い作品において、コウメ氏は、シュルレアリスムを徹底しているのではないか、という可能性です。
 この仮説に則ると、コウメ氏の「まいにちチクショー」は、お笑いネタではなく、哲学者、あるいは芸術家である「小梅太夫氏」の作品であると言えるのです。(以下、哲学者、芸術家としてのコウメ太夫氏を、小梅氏と表記します。)

 では、シュルレアリスムとは何か、を端的に説明します。
 シュルレアリスムのシュルは「超」、「レアリスム」は現実主義という意味で、日本語に訳すと、超現実主義となります。
 とはいっても、現実ではないどこか別の世界、という意味ではなくて、「超スピード」といった意味の、「強度の現実」という意味です。
 どういうことか簡単に言うと、無意識や、幻覚の中で不思議なモノを見る。例えば、膨張する宇宙かと思ったらそれが京野菜だったような、不思議なモノを見たとしましょう。

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 それを「現実ではない」と考えるのではなく、それもまた、「現実」だと考えるのです。法則に支配されない、無意識下などに表出する現実を求める運動を、「超現実主義」、シュルレアリスムといいます。
(以下の記事は非常にわかりやすいと思いますので興味がある方は是非参考にしてみてください。)

 では、小梅氏がシュルレアリストである証拠を、彼の実践や作品を通じてみていきましょう。

小梅氏と自動筆記

 まずは、自動筆記です。意識を空にし、朦朧した状態で、猛スピードで文章を記述する手法であり、これにより無意識下の超現実を描き出す試みが行われています。
 非常に速い速度で文章を書きますから、字がぐちゃぐちゃとしたものになってしまうことが特徴の一つです。(下図、自動筆記の一例)

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 そのことを踏まえて、小梅氏の字を見てみましょう。

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 この字は、明らかに自動筆記の手段を用いて書かれたものに違いないでしょう。小梅氏がシュルレアリストである有力な証拠です。
 「おうちを買ったらおにぎり」「うなぎを食べたら、くるまのはいきガス」など、無関係な単語が羅列されています。

「まいにちチクショー」とシュルレアリスム

 「まいにちチクショー」が、シュルレアリスムの作品である有力な証拠は他にもあります。

 「連想」というワードに注目してください。実は、「自動筆記」は、フロイトの「自由連想法」に多大な影響を受けたといわれています。
 小梅氏は、「さあ しい すう せえ そお」を漢字で並べ(?)、自由連想法を用いた作品記述を行っていたのです。

更に「まいチク」には、「主語」という問題もあります。

 最近の作品ですが、非常に奇妙な作品です。
 まず、巨大な鳥が逃げ出したかと「思った」のを、「私=コウメ太夫」とします。すると、その鳥を「見た」のも「私」になるはずですが、その鳥こそが、「私」だったのです。
 そうなると、「思った」人物は「私」ではなくなるのでしょうか。合理的には考えられない非常に奇妙なことが、「主語の省略」によって生じています。
 「まいチク」では基本的に「主語」を省略しての記述が行われていますが、実はこれもまた、「自動筆記」の特徴の一つなのです。以下引用。

「自動記述」の実験でわかってきたことは、どうやら物を書くことをそのスピードに応じて段階化してゆくと、最終的には自分が書くというところから、「だれか」によって自分がかかれるとかいう状態に行く。書かれたものは主語や動詞がだんだんなくなってゆく。主語があって、動詞があって、それらに統御された客観物としての目的語や補語があるというような、いわゆる文章の通常の構造ではなくて、大方がオブジェすなわち客体であるような、つまり客観的な世界です。
             巖谷國士『シュルレアリスムとは何か』p.52

 小梅氏はまさしく、ここでいうところの「「だれか」によって自分がかかれる」状態にあると言えます。
 ここでは、「私」もまた、「だれか」によってかかれる「客体物=オブジェ」と化しているのです。

「まいチク」と「デペイズマン」

 「まいチク」がシュルレアリスムの技法を用いて書かれていることを考えていくと、納得できることは多いのです。最初に見た「つまらない」作品群を改めてみてみましょう。

 これらの作品では、明確に「デペイズマン」というシュルレアリスムの技法が用いられています。デペイズマンは、「本来あるべき場所にないものを出会わせて異和を生じさせること」(『シュルレアリスムとは何か』p.84)とされます。
 この手法を用いた代表的な作品は、デュシャンの『泉』でしょう。

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 「美術館」に、「男性用小便器」を置くことによって違和を生じさせようとする『泉』はまさしく、デペイズマンの手法を用いています。デペイズマンは、自動筆記とは異なり、意図的に違和を生じさせる手法です。しかしながら、どちらも「現実」ではみられないオブジェ同士が結びつく、「超現実」の世界を表しています。自動筆記とデペイズマンはその点において一致します。
 「マスクを鼻と口に着けて白塗りで試験に行った」ことと、「校門でトマホ~ク」が脈絡なく接続される...小梅氏の作品は、オートマチックであれ、反オートマチックであれ、「超現実」を描き出しているのです。

追記 自動筆記の制御不能性

 このnoteを公開した後、コウメ太夫氏と伊集院光氏の対談記事を読みました。そこに驚くべきことが書かれていました。

 また最近のネタについてコウメ太夫は、「意味わからないのがあるのですが、『お月さまを見てるかとおもったら~、立体駐車場でした~』」と披露。「くる所まできたねぇ~!」と満足そうに話す伊集院に、コウメ太夫は「分からなくなってきてますねえ…」と返したのだった(笑)。
伊集院光、コウメ太夫の意味不明すぎるネタに「くる所まできたねぇ~」

 小梅氏は、自身のネタを「分からなくなってきて」いるのです。これは、小梅氏自身のシュルレアリスム的実践が、小梅氏の意識を離れ、制御できなくなっていることを示しているのです。


終わりに 「”小梅太夫”はなぜつまらないのか?」

 小梅氏のネタをめぐって、シュルレアリスムを通じたちょっとした小旅行を行った気分は如何でしょうか。
 ここで、最初の問題である、「コウメ太夫はなぜつまらないのか?」という問題に改めて立ち返ってみると、「コウメ氏」が「つまらない」ことが必然であることが皆さんにもお分かりになるでしょう。

 最初に、「脈絡のなさ」がコウメ氏のつまらなさの原因だと指摘しました。それは、間違いではないのですが、小梅氏にとって必要なことだったのです。
 なぜなら、芸術家・小梅太夫氏は、シュルレアリストであるが故に、脈絡のない、オブジェクト同士が結びつく「超現実」の世界を追い求め、描く必要があったからです。
 「文脈のあるお笑いネタ」では、「文脈」という法則に支配されている以上、それは「超現実」を追い求める行為にはなり得ない。ただそれは、意識下の「現実」に従っているだけだと小梅氏は考えるのです。

 小梅太夫氏は、超現実を追い求め、日々「つまらない」ツイートを続けるのです。


【参考文献】
・巖谷國士『シュルレアリスムとは何か』(2002、ちくま学芸文庫)


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