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BTSが出ない紅白は「終わったコンテンツ」・・という話を考える。

2021年もあと数時間になってしまいましたが、いかがお過ごしでしょうか。凄い寒いですね!お体にお気をつけください。

年末にもう一個noteを書くために、今年僕が出したウェブメディアの記事やnoteのアクセス数ランキング的なものを用意してたんですけど、晩ごはん食べながら紅白見てたら、なんか紅白について書きたくなってきたんですよね。

この、「いざ大晦日になるまで紅白なんて別に楽しみとも思ってなかったのに、なんか知らんけど当日になったら見てるな」という感じが面白くて。

特に、「紅白という存在」がもたらす「古いものと新しいものとの関係性」みたいな事を考えてみたいなと。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●BTSが出ない”から”オワコンというよりもともと半分オワコンなんだけど・・・

先日韓国の新聞が「BTSを出さない紅白はオワコン(終わったコンテンツ)」っていう報道をして色々と物議を醸してて。

僕は別に紅白にそんな忠誠心がないというか、「まあオワコンだと思ってる人もいるんじゃない?」ぐらいだったんですけど、

なんかいざ大晦日になったら紅白見てるな自分は(笑)

っていうのが自分で面白くてですね。

別にそんな「凄い楽しみ!」って感じでもないし、「紅白なんてオワコンだよね」と言われると「まあ昔と比べちゃうとそうだよね」って感じなんですが、まあなんだかんだ自分は紅白見てるな・・・

日本人の多くの紅白に対する感覚は結構こういう感じ↑ではなかろうかと思うんですね。

だから今年の年間アルバムランキング一位のBTSが出ない・・・「だからオワコンだ」という話の展開がまず間違っているというか、いやいや実質「もともと半分オワコン」的な部分はあるというかそんなに先端的な何かを追っていないけどみんな見ているのが紅白で、なんだかんだ見たら見たで楽しんでるんだよ・・・という感じがする。

実際、去年の紅白は40%前後の視聴率で、今どき地上波でこんな数字が出るのは結構ありえない感じですよね。価値観と趣味が多様化した先進国でこんな「国民的行事」がいまだにあるのって珍しかったりするかも?

2●紅白の良さは普段出会わないものと出会うこと

そもそも90年代00年代前半なら「ヒット曲」はみんな知ってたけど、「アルバムランキング一位」の曲を知らない事がざらにある時代がもう10年近く続いていますよね。

BTSも「Dynamite」を知ってるかどうかの分水嶺がまずあって、さらにもっと知ってる人はあらゆる曲もメンバーの趣味も身長も好きな食べ物も知ってるでしょうけど、知らない人はまず「Dynamite」からして知らない・・・みたいな世界があって。

ましてや「今ユーチューバーとして若者に大人気!」みたいな人は、こういう機会でもないと出会えないですよね。さっき出てた「まふまふ」っていう人が結構面白いなと思って、今度色々検索して見てみようかと思ってるんですけど、なんかこういう出会いって紅白ぐらいの大きな何かがないとなかなかない。

逆に若い人が「上の世代の歌」に接する機会も普通はあんまりないんだけど、こういうショーケース的な場所で一応名前を聞いてたら、「いいじゃん」と思ったら後は今は勝手に検索していくらでも個人が掘っていくことができる。

40代の僕の世代から見ても、「北酒場」とか歌ったことないがカラオケで突然振られてもなんか歌えちゃえそうだな・・・っていうのはこういう「場」が一応あったからという感じがする。世代間対立を中和する「まつり」的要素があるというか。

こういう機会は一回なくなっちゃうと恐らくもう二度と取り戻せないようなもので、後はみんな「自分と自分の身の回りの仲間の価値観」だけに引きこもってそれ以外を呪詛する・・・みたいな事になって行きがちなような。

3●売れている人も、売れていない人も平等に参加する祭典

「売れてない」って言っても紅白に選ばれている時点で「売れて」はいるんだけど、その後「選ばれた出場者」の間ではあまり格差感なく「いち参加者」になるのが紅白らしさってところがあるんですよね。

単に「今の若い世代の大ヒットスター」みたいなのがそんなに「凄い存在」として扱われるわけでもないのが紅白のいいところではあって。

細川たかしとか坂本冬美とか出てきたら「なんかすげえ」ってなるし、一方で「今年一番売れてた旬のアーティストです」っていう存在も”並列的に”受け入れられるというか。

そういう「ナアナアさ」が嫌いなアーティストは昔から「一番売れてるアーティスト」になっても紅白には出なかったし、一方でバンプオブチキンみたいに昔は突っ張って出なかったアーティストが30代後半とかになって結構出るようになったり。

あまりベタベタと「ですよねー!」的な振る舞いをするのが苦手なアーティストは、それなりに尊重された空気を用意されてアーティスティックに振る舞うことを許されているし、でも一方でそれをちゃんと「お茶の間」的なものに結びつける磁場がちゃんと消えずにある、この「微妙な絆の妙」が紅白がオワコンと言われつつ40%近い視聴率を取り続ける理由なのではないかと思います。

上記記事とか、最近色んな場で書いているけど、こういう「曖昧な関係性を切らない場」っていうのは、単にアメリカンな個人主義を絶対化していくと雲散霧消してしまいがちなもので、いわゆる「人種のサラダボウル」とか言うけど実際には建前上の平等性はあっても普段ほとんど混ざることがなく生きている・・・みたいな感じになっていってしまう。

「歌の合間にけん玉ギネス大会」とか、そういうテイストが嫌いな人は嫌いだろうし僕も若い頃大嫌いだったんですが、ああいうので必死に「つなぎとめようとする」ことの価値ってあるなと思います。

4●価値観や世代の違いを超えて一緒にけん玉やったり踊ったりする場が完全に消えてしまわないように繋ぎ止める力を維持したい

今回BTSが出なかった理由がなんなのか知りませんけど、まあ彼らも忙しいでしょうし、別に「出てなきゃオカシイ」というものでもないように思うんですけどね。

ただBTSの人たちは昔吉本新喜劇に出てきて日本の芸能人でもやらないようなベタなギャグをやったりしてて、売出し中の事とはいえチョロい関西人の僕は「ええ人らやな〜」という印象があるんですよね。

案外なんか一緒にけん玉でもやってくれそうな感じすらありそうで、そういう関係が築けていればそれは凄く良いことだったと思ったりはします。

ただこういうのって、「古い社会側の安定感・余裕」と「新しい世代の価値観を十二分に表現したい欲求」とのぶつかりあいみたいなところがあって、最近は「古い社会の方の安定感」の方が攻撃されすぎてて、その不安定化が余計にバックラッシュ的に「下の世代へのしめつけ」に繋がっているような感じもする。

紅白って結構出演者に気を使って、無理やりやらせてる感じにはならないように、でもできれば一緒にけん玉やるようなお祭り感の紐帯は消さないで後世に残していきたいね・・・という結構ギリギリの調整をしてる感じがあるので・・・

そういう「微妙な空気」の安定性が崩れてくると、そこに包摂できる範囲がだんだん縮んできてしまいがちで、ビッグネームになりすぎたBTSがうまくフィットしづらくなってしまった的なことがあったりするのかも?

その事自体はあまり良いことではないと思うけど、でもそれはその「閉鎖性」がダメだと攻撃するだけでは余計にコジレて本来可能だったはずの関係性が途絶していきがちだと思うんだよね。

むしろ逆に、とりあえず縁が繋がっている人だけで「場」を繋いでいって、この「一緒にけん玉やったり踊ったりする関係性」を潰さないようにお互い配慮することが、「個」が押し潰されずにすむ環境を作っていくためにも大事なことだったりするんじゃないかと。

5●「正月の集まり」と個人主義者との仁義なき戦いのその先へ

こういうのって、「正月の親戚の集まり」みたいな場と、個人主義的な人物との間の仁義なき戦い・・・みたいな難しさと結構似てるところがあって。

「正月の集まり」みたいな場が嫌いというか苦手な人もいっぱいいると思うし、そういう人はそういう「家族感の押し売り」みたいなものを人生かけて嫌っている人もいるよね。自分も昔はそうだったし、今も得意とは言い難いのでその気持ちはよくわかる。(自分は実際そういう場になったら結構盛り上げ役みたいになって、そういうことは案外できるけど後で凄い疲れるというタイプです 笑)

私は経営コンサル業のかたわら、文通をしながら色んな個人の人生について考える仕事もしていて(興味があればこちら)、そのクライアントの人に、「恋愛対象は男性のゲイで、女装している事で自分は自分だと感じられるんだけど、一方で性自認はあくまで男」っていう相当難しいタイプの人がいるんだけど、父親に女装して生きている事をカミングアウトした後も実家に帰って母親に会う時だけは男の格好をしてくれって言われて・・・みたいな話をしていて。

今実家に帰って「本当に嫌なんですが男の格好をしています」っていうメールがこないだ来てたんだけどそういうのはなんか、聞いててツライ気持ちになるんですよね。

でも

「変に家族を拒否して一人で生きていかねば!ってなるのも違うかなと思って、そのうち母親にもカミングアウトできそうに思えてきたし、家族関係を一切拒否して変に自分だけで苦労しようとするのも、それは自分が自分らしくあることに後ろめたさを感じているから勝手にしている自傷行為的なものなのかも」

というような大意のメールだったんだけど、そういうのは凄い「なるほど」と思った。

「お互い嫌なところ」があった時にバーンと「個人こそが大事だろ」ってことで関係を完全途絶させてしまうと、する必要もない無理な苦労まで「個」の責任としてやらざるを得なくなっちゃうことになる。

それって「後ろめたいと思っているから余計な苦労をしてる」っていう見方もできて、別に自分の「らしさ」を追求するのに「普通の人はしなくていい余計な苦労」をするとかってそもそも間違ってるんじゃね!?みたいな発想は大事なのかもしれない。

そこでむしろもう少し丁寧にすり合わせて、「お互い嫌なこと」を踏み越えないように微調整する苦労をすれば、その後「助け合うメリット」や「心理的安心の源泉」は得つつ、「自分らしさ」は一切譲れないぞ・・・という道も見えてくるような?

さっきもリンクした上記記事で書いたように、日本的な「ナアナアさ」というのは、それをアメリカ基準で引きちぎろうとしても余計に絡みついて来るものなので、逆に丁寧にピンセットで選り分けるようなことに真剣になるべきだと思うんですね。

そこの「腑分け」を丁寧にやりきれると、「アメリカ的な個の自由」と「日本的な安定性」を両立できる世界にたどり着くこともできるはず。

それは昨日アップされたこのウェブメディアファインダーズの記事で書いたような、「岸田政権のグダグダさ」というのは日本が向き合うべき試練なのだ・・・みたいな話なのだと思っています。

なんだかんだ40%近い視聴率がある紅白が日本人にとって持つ意味はそういうところにあるんじゃないかと思いました。

嫌なら嫌でいいし、遠目に見てもいいし一緒に「ですよねー」ってなってもいいし、ある程度アーティスト的存在として尊重されて歌を歌いに来てもいいし・・・というこの「距離感の微調節」を丁寧にちゃんとやっていって。

・参加しない自由の確保

・”個”だけを主張していくと決して交わらない存在と交わる場を維持する

両立

を、もっと日本社会のあらゆる場所でやっていけるようになるといいですね。

今回記事の無料部分はここまでです。

ここ以降は、僕が今年出した記事のアクセス数ランキングを見ながら、今年を振り返ります。

ウェブメディア編集者の人と、グーグルスプレッドシート(エクセルのグーグルクラウド版)でアクセス数を管理してアレコレと議論しながら次のテーマを決めたりしてるんですけど、これがなんか結構考えさせられるというか、そうか、今年一年はこうだったな、とか、「こういう方向に日本人の集合無意識は向かっているのかも」と感じるところがあったりするんですよね。

一応トップ3だけ発表しておくと、ファインダーズの方では、以下がトップ3でした。

1位 野党がこのままでは日本は「決して政権交代できない国」になりそうだが、それはそれでいいのかもしれない

https://finders.me/articles.php?id=3090

2位 「反ワクチンのモンスター医師」が生まれてしまうワケ。彼らに負けずにワクチン接種を進めるために社会はどう向き合うべきか?

https://finders.me/articles.php?id=2923

3位 アフガン情勢は「アメリカ衰亡の象徴」ではなく「中国の野望を封じ込める好機」を示している

https://finders.me/articles.php?id=2983

一方で全然読まれなかった記事もあって、この差については色々と考えさせられるところがありました。

その「差」ってなんだろうな・・・って考えると、結局「今の政治勢力」に迎合しないで、右も左も今のままじゃダメだし、「本来こうあるべき」というところを逃げずに描いていくことが、求められてるのかなあ、みたいなことを思ったりしました。

書いてる途中は「こんなの誰が読むんだよ」ぐらいの感じで書いたのがヒットしたり、「こういうの読まれそう」と思って書いたのが全然だったり・・・と、一年を通じて色々と勉強になりました。

上記記事は3つとも結構タイトルは過激だけど、内容的には色んな政治立場の人に広く読まれるだけの奥行きがあったというか、実際色んな「立場が普段違う人」にシェアされて広がっていった感じで、やっぱり妥協しないで「普段の敵と味方の構図」を超えるようなビジョンを出していくのが自分の役割なんじゃないかと思いますね。

以下の有料部分では、逆に「全然数字が伸びなかった記事」と、あとnoteの方のランキングをみながら色々と考えてみます。

ちなみにnoteの一位はダントツでコレだったんですが。

これは二位を大きく引き離す数字で、これってなんなのかなあ?っていうのはいまだに謎です(笑)

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普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

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また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

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