VTuber戸定梨香さんと、政治-性暴力の問題

戸定梨香さんと全国フェミニスト議連の問題

千葉県松戸市のご当地vTuber・戸定梨香(とじょうりんか)さんの件です。

戸定梨香さんとのコラボによる交通安全啓発動画が、全国フェミニズム議員連盟による抗議を受け、千葉県警のYoutubeチャンネルから削除されました。

まだ見ていない人は、まず、一切の先入観をできるかぎり抜いて、動画を見てください。

その上で、全国フェミニスト議員連盟の抗議文を読み、この批判が妥当かどうかを判断していただければと存じます。

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重要な箇所を引用します。

戸定梨香というVTuber(アニメキャラクター)は、セーラー服のような上衣で、丈はきわめて短く、腹やへそを露出しています。身体を動かすたびに大きな胸が揺れます。下衣は極端なミニスカートで、女子中高生であることを印象づけたうえで、性的対象物として描写し、かつ強調しています。
公共機関である警察署が、女児を性的対象とするようなアニメキャラクターを採用することは絶対にあってはならないことです。
女児を性的な対象として描くキャラクターを採用することは、性犯罪誘発の懸念すら感じさせる(以上、強調は引用者)

感じ方は人それぞれでしょうが、個人的には、こうした見方はあまり一般的ではないのではと思います。

VTuber運営会社の社長である板倉節子さんも、「動画としては7月中旬に公開が始まったが、削除までの1カ月半、弊社へのクレームや警察からの連絡は一切無かったし、戸定梨香についてもこの1年半、全く無かった」と語っています。(Abema Times

戸定梨香さん問題が、これまでの類似問題より遙かに深刻なわけ

過去何年にもわたって、キズナアイさんや宇崎ちゃんの問題をはじめとして、フェミニズムを標榜する運動が、萌え系のコンテンツ(の公共機関での採用)をバッシングするという問題が、繰り返し起きていることは周知の通りです。

しかし、戸定梨香さんをめぐる問題は、以下の2つの論点において、これまでの問題よりも遙かに深刻な問題です。

①一般人や市民団体による批判ではなく、全国規模の議員連盟による抗議であるということ

議員連盟という政治権力が、議会を通さずに公的機関や民間企業に介入することは、デュープロセスの観点から慎まなければならないことです。

さらには抗議文には他市・他県の議員の名前も記されています。他の自治体に抗議するのは自治権の侵害ではないかという指摘もあります。

②人権侵害・性暴力をめぐる対立

重大な人権侵害から守るためなら、政治が介入することが許されるという考え方もありうると思います。

しかし、本当に戸定梨香さんの動画が「人権侵害」になるのか、あるいは人権侵害を誘発するのでしょうか?その根拠を明確に挙げられなければ、、戸定梨香さんに対して政治権力を振りかざし侮辱しているのは議員連盟の方だということになります。

こうした問題は、従来、「性差別に反対する女性運動 VS 表現の自由戦士」という二項対立で理解されることがほとんどでした。今回もまたその文脈で議論されていることが多いように思われます。

しかし、運営会社社長である板倉節子さんが、全国フェミニスト議連による抗議に対して、「それこそが女性蔑視ではないのでしょうか」と反論していることを、真剣に受け止めなければならないと思うのです。

全国フェミニスト議連は、戸定梨香さんを「性的対象」「性犯罪誘発」と批判しています。それに対して、批判された当事者が、その批判自体が「女性蔑視」であると反論しているのです。

つまりこの問題は、「反女性差別 VS 表現の自由」の対立である以前に、「議連と女性VTuber、女性差別を行っているのはどちらなのか」という問題なのです。

性暴力を誘発しているのは、戸定梨香さんか、それとも全国フェミニスト議連か?

議連は、戸定梨香さんが、性的側面が意図的に強調されており、「女児が性的対象物」として描かれていると主張しています。

この批判はどの程度妥当なのでしょうか?

私の感想としては、キャラクターとしてはむしろセーラームーンやプリキュアなどの少女向けアニメの系譜だと思います。おそらく、そうしたアニメを愛好する年代の子どもが見ても、特段に違和感があるキャラクターデザインだとは思えません。また、動画においても、胸の揺れも言われなければ気がつかない程度であって、性的側面をとりわけ強調しているとは思えないのです。

とはいえ、感じ方は人それぞれです。戸定梨香さんを性的対象として受け止める人も、(割合としては相当に少ないけれど)存在するでしょう。Twitterを見ていると、フェミニズムに親和的な人ほど、性的であると感じる傾向にあるようです。

しかし、議連は単に、「性的対象」であるから公共機関のPRにふさわしくないと言っている訳ではありません。一歩進んで、「性犯罪誘発の懸念すら感じさせる」と書いています。

「腹やへそを露出」し、「大きな胸が揺れ」、「極端なミニスカート」の「アニメキャラクター」が、「性犯罪」を「誘発」するのは、いかにして可能なのでしょうか?その因果関係について、議連の抗議文では一切の説明がありません。単に、抗議文の執筆者たちが、「性犯罪誘発の懸念を感じさせられ」たと、根拠を示すことなく書いたという話でしかないのです。

さて、私が皆さんにここで考えて欲しいのは、議連が流布した言説自体の性暴力性です。「性的対象が性暴力を誘発する」という因果関係は立証されていませんが、「『性的対象が性暴力を誘発する』という言説」それ自体が性暴力を誘発するのは、かなり高い可能性がある現実的な問題です。

順を追って説明します。

「二次元におけるミニスカートや胸揺れが性犯罪を誘発する」という言説を真に受けて信じた人は、「実在する人間のミニスカートや胸揺れが性犯罪を誘発する」と信じるようになるのが自然です。少なくとも議連の抗議文においては、現実世界への波及に歯止めになるような論理装置は一切付けられていません。

そして、こうした言説が流布した社会においては、性暴力被害者に対する二次加害は、いとも簡単に起きることになります。たまたまミニスカートを履いた女性が性暴力被害に遭った場合、「そんな格好をしているから被害を誘発したのだ」という言葉が自然に出てくるでしょう。

これは言うまでもなく、性暴力加害に対する二次加害であり、性暴力加害を正当化します。そして、一次的な性暴力加害者もまた、「自ら性的対象であるような服装(あるいは職業)の人は、性暴力を自ら誘発しているのだ」と信じることで、自らの行為を正当化するでしょう。

「性的対象が性暴力を誘発する」という言説は、それが二次元表象に向けられたものであったとしても、まわりまわって現実の性犯罪・性加害を誘発する可能性が高いのです。

個人的には、そのような危険極まりない言説が「全国フェミニスト議連」から出されたことに驚きを禁じえません。性暴力について真剣に取り組んだ人なら、これは当然考えるべき問題でしょう。にも関わらず、そうした危険性の指摘もほとんど存在ないのです。

現実の女性に対する性加害の実例

以上のような議論に対しては、「全国フェミニスト議連が批判しているのは、男性目線の二次元表象の描かれかたであって、現実の女性を批判するものではない」という反論があるでしょう。

しかし、vTuberは、アニメや漫画とは違って人格をもつ存在です。そして、戸定梨香さんの「中の人」も運営会社の経営者も女性であることもわかっています。つまり、戸定梨香さんの「中の人」は、どのような意図であれ、自らその格好を選んだのです。その意図が性的なものとは私には思えませんが、仮に性的意図があったとしても、私の議論の本筋に関わりないことは、後に説明いたします。

議連は戸定梨香さんに対して、「性的対象」とレッテルを貼り、「性犯罪を誘発する」と批判しました。議連の「アニメキャラクター」という表現を見る限り、vTuberが人格をもった存在であることを、当初理解していなかった可能性があります。しかし、「中の人」および経営者が女性であることが分かった現在でも、議連は抗議を撤回していないのです。現実の女性に対する歯止めは、存在していたとしても、すでに一切機能していないのです。

さらに言えば、現実の女性に対するフェミニズム側からの攻撃については前例があります。モデルであり、自身もモデル事務所経営者である茜さやさんに対する大規模なバッシングです。

実際、私が見た中でも、次のような例があったことは報告しておきます。

とあるフェミニストが、茜さやさんが「胸を強調する服を着た意図」を批判していた訳ですが、これは典型的なスラットシェイミング(ふしだら蔑視)です。

Twitterでフェミニズム界隈の言動をチェックしていれば、現実の女性が「名誉男性」と差別され侮辱される例は、キリがないほど存在します(著名な事件では、緊急避妊薬市販化推進をしていた「ピルとのつきあい方」「多摩湖」さんに対するものや、女優の春名風花さんに対するものが挙げられます)。

そして、界隈の中で、現実の女性に対する加害を止めようという自浄作用が働いている形跡は、これまでのところほとんど見られません。

「『性的対象は性犯罪を誘発する」という言説自体が、現実の女性に対する性加害を誘発する」というのは、すでに過去に実例がある現実の懸念なのです。

性的であることと、性差別・性暴力的であることは別個のことである

全国フェミニスト議連が、本人たちの意識の上では、性暴力や性差別を撲滅しようとしている、そのことを私は疑ってはいません。

しかし現実には、議連が提出した抗議文が、性暴力被害者への二次加害言説や一次加害者への自己正当化言説に限りなく接近していること、そして、それら性暴力を誘発しうる危険な言説であることを、実例をもって示しました。

なぜこのような逆転現象が起こってしまうのでしょうか。

本来、「性的であること」と「性差別的」「性暴力的であること」は、それぞれ別個のことです。しかし、全国フェミニスト議連は、その区別を付けた議論が展開できていないのです。「性的対象だから性暴力を誘発する」と自動的にみなす、その短絡思考の再生産が性加害を誘発するのは、論理必然的な帰結なのです。

もう一度、冒頭の動画を振り返って考えてください。戸定梨香さんの動画は、「性的」に見えたり、性欲が喚起されたりする人も存在するのかもしれません。しかし、その動画表現の中に、人権侵害を正当化する要素や、あるいは女性差別を肯定する要素は、いったいどこにあるのでしょうか?まして、戸定梨香さん本人や、女性一般への性暴力を肯定するような表現は、どこにあるのでしょうか?

これまでの類似の問題(宇崎ちゃんの献血ポスター問題や、キズナアイの問題)においても、表現批判側で、「性的であること」と「性暴力的」「性差別的」であることの違いを峻別して議論していた人はついぞ見かけませんでした。

しかし、この区別はものすごく重要、かつ常識的なのです。

譬え話をします。たとえば、公共空間のポスターでたまたま美味しそうな料理画像が使われたとして、「美食的対象は公共空間にふさわしくない!食い逃げを触発する!」という批判があったという話は、寡聞にして知りません。食欲が喚起されることは、食い逃げを正当化するものでは決してないことは、誰でも理解しているからでしょう。

性的対象であっても同じです。対象が性的であることと、それが性差別的であったり、性暴力を誘発し正当化することは、まったく別のことなのです。相手が性的な要素を帯びた対象であったとしても、性暴力を決して行ってはいけないのです。

性暴力と性的主体性の問題

性的であることと性暴力的であることとの違いは、理論的にも実践的にも、性暴力の問題に対処する上で最も重要なことです。

理論的に言えば、性暴力とは、性的主体性に対する侵害です。性的主体性とは、性的アピールを自ら行うことや性行為の相手やその範囲を自己決定する権利であると同時に、望まない性行為や性的言説を拒否する権利でもあります。

(性交同意年齢以下の場合であっても、前者の権利は制限されますが、後者の同意ではない性行為をされない権利は当然有しており、その意味で最低限の性的主体性は侵してはならないものと考えるべきです。)

性暴力について真剣に考え、さらに性暴力の対策を行うためには、その大前提として、あらゆる人間に性的主体性が認められ、性的であることと性暴力的であることが区別される必要があるのです。

実は、その大前提が成立していないのが、性犯罪において未だに残された刑法の女性差別です。強制性交罪(以前の強姦罪)に暴行脅迫要件がついているのは、日本社会において、規範的には女性の性的主体性が認められていない結果です。つまり、女性が自ら性行為を望むことが望ましくなく、規範的には形の上で抵抗することが正常な性行為であると広く信じられているからこそ、被害者の多少の抵抗によっては有罪にならないのです。

(言うまでもありませんが、私は暴行脅迫要件の撤廃に賛同しています)

現実的にも、性的主体性の否認は、性暴力の温床になっていると考えられます。本来は、被害者がどのような服を着ていても、性的サービスを行う職業に従事していたとしても、性暴力を(すなわち性的主体性を)正当化するものでは決してありません。しかし現実には、相手の性的要素をもって、性暴力を肯定する言説が未だに広く流布しているのです。

そうした信念を持っている人が、検察や警察や裁判官や医者であるとき、性暴力被害者は救済されません。「あなたがそんな格好をしてるからじゃないですか?」「その仕事をしてたら、何をされても文句を言えませんね」「相手の部屋に二人きりで行った時点で、こうなることわかってたんでしょ?」こうした心ない言葉によって、多くの人が泣き寝入りさせられてきたのです。これらの言葉の根底に存在するのは、被害者の性的自己決定権の否認なのです。

「性的な対象は性暴力を誘発する」という信念は、早急に誤った価値観として否定されなければ、この社会における構造的な性暴力問題は決して解決できないのです。

「いや、そうは言っても、性暴力加害者に『相手が扇情的な格好をしているから、性行為を望んでいると思った』と自己正当化する人が実際いるじゃん」、そのように反論をする人も多いでしょう。「そういう人が実際に存在する限り、性的要素は公共空間から排除されなければならないのだ」という訳です。

しかし、性的要素が公共空間から完全に排除された社会で、性暴力がなくなるというのは本当でしょうか?むしろ、性的要素が隠蔽・抑圧された結果、逆に性的要素によって性加害が安易に正当化される社会がもたらされるのではないでしょうか?

大事なことなのでもう一度言います。

本当に性暴力をなくしたいならば、「いかなる性的要素も公共空間から撲滅する」という不可能な目標を立てるよりも、性的であることと性暴力的であることをきちんと分けて考え、すべての人間に性的主体性を認め、「性的な要素がある相手に対してさえ、性暴力は決して許されない」という言説を広くあまねく流布し、日本社会の常識にする努力こそが必要です

それこそが、性暴力を撲滅するための王道です。

政治ー性暴力の時代がはじまっている

まとめます。

現在、性的であることと性暴力的であることがイコールで結びつけられた言説が「反女性差別運動」として流布されています

繰り返しになりますが、そうした言説の再生産は、まさに性暴力や二次加害の温床になっており、場合によっては性暴力そのものとなる。その危険性に気づいている人があまりにも少ないように思うのです。

その最新例の1つが、戸定梨香さんについての全国フェミニスト議連の抗議文です。自ら望んで創った身体(アバター)に対して、その性的要素を拡大してことさらに取り上げ「性的対象」というレッテルを張り、「性犯罪を誘発する」と根拠なく指弾する行為は、常識的に言って性的嫌がらせです。性暴力を「性的自己決定権に対する侵害」と定義するならば、議連の抗議そのものが、広義の性暴力にあたるとさえ言えます。

大事なことなのでもう一度言いますが、VTuber運営会社の女性経営者が「それこそが女性蔑視ではないのでしょうか」と反論したことは、真剣な告発として受け止められるべきなのです。

非常に深刻な問題は、性的であることと性暴力的であることの区別が付けられず、性的要素を公共空間から排除しようとして、結果として性暴力や二次加害を誘発する言説、そしてそれ自体が広義の性暴力であるような言説が、まさに「議員連盟」という政治権力の側からなされたということです。しかも、自らを反差別だと信じており、自らの性暴力性に対して無自覚なのです。

自らを反差別だと信じる政治ー性暴力の運動は、野党を通じて自らの権勢を拡大し、いまや時代の潮流になりつつあります。

一例だけ挙げましょう。たとえば、性暴力被害者団体のSpring理事である寺町東子は、Twitterで次のような発言をしています。

「反対論は中学生同士の恋愛による性交を処罰すべきでない」「中学生の恋愛に性交不要」「犯罪化は断る力にもなる」と言っていることから、寺町が中学生同士の性行為を犯罪化しようとしていると解釈できます。

しかし、性暴力被害をなくすという名目で、中学生同士の性行為を違法化するのは、果たして実践的に妥当なのでしょうか。

私は原則として性交同意年齢の引き上げには賛成ですが、性交同意年齢以下同士で誰も被害者がいない場合においても、性行為自体を性犯罪化し厳罰化することが、誰かの人権を守ることになるとは思えません。まして、性行為をおこなったことで貼られるスティグマを考えると、これ自体が妊娠の隠蔽や性暴力の温床になる危険性はあります

こうして、性暴力や性差別をなくすという名目で、政治が性的主体性に介入しようとする動きがすでに存在するのです。そして、その動きに歯止めをかけようとした国会議員が、どのようにパージされたのか、皆さんのご記憶に新しいところです。

私たちは、この政治的な動きそのものの性暴力性に、注意しなければならないと思います。

この流れの中に、立憲民主党が提唱する「国内人権機関」が位置づけられる可能性は相当に高いと思われますが、それがどれほどの性加害と人権侵害をもたらしうるのか、想像しておくべきだと思います。

もし、「国内人権機関」がそうした流れとは違うと言うなら、立憲民主党としては、ただちに全国フェミニスト議連が戸定梨香さんに対して行っている性加害的な権力行使に対して批判し、自らを差異化すべきでしょう。

最後に

長い論考を読んでいただいてありがとうございました。

題材が題材だけに、一定期間後は有料化する可能性があることは、予めご了承ください。

なお、私がこの論考で、性的であることと性暴力的であることを峻別する議論を展開し、政治ー性暴力の動きに対して注意喚起を行っているのは、まさに性暴力をこの社会から少しでも減らすことが目的であることは、あらためて付言しておきます。



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