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【改訂版】青識亜論への反論|シーライオニングの誤謬

 こんにちは、ヒポポタマスと申します。

 本稿は、Twitterで3万4,000人ものフォロワーを有するネット論客「青識亜論」さんが執筆したnote記事『正しい「シーライオニング」のススメ』に対して、真っ向から反論を構えるテキストです。

 また、本稿は下記note記事を公開した際に

・なげーよ!!
・文字数……
・文字数減らして、最後まで読んでもらえる記事にする事を考えた方が良い
・単純に読みにくい
・長くて読むのが大変

というご意見をいただいたことを踏まえ、論旨と関係ない部分を極力省いて書き直した「改訂版」となります。

 さぁ、それではいってみましょう。

1. 青識亜論の誤り

 「シーライオニングとは何か」については、青識さんのnote記事をご覧ください。本稿は、当該記事に対する反論となります。

 なお、本稿は「シーライオニングをするべきではない」という全否定での反論ではありません。青識さんが提示する「正しいシーライオニング法」が誤っていることを解説し、「本当に正しいシーライオニング法」を提示することが論旨です。

 私が反論する部分は「正しいシーライオニング、不誠実なシーライオニング」の章です。この章にて、青識さんは以下のように述べています。

 この種の議論や批判において、第一手目に自らの主張ではなく、「問い」を置いたほうがよい理由は、私が考える限り二つある。

 「二つある」とありますが、このうち一つが誤っています。

① 批判者の使っている用語の定義や主張の論理があいまいであること

 青識さんが誤っているのは、この項目です。まずは項目の文章を全文引用します。

 「エロ匂わせ表現」にせよ「差別主義者」にせよ、その定義はきわめて曖昧である。いきなり「私は差別主義者ではない」とか「私が定義するエロ匂わせ表現は公共の場においてもかまわないものだ」とこちらから主張した場合、同じ差別とかエロという言葉を漠然と使っていても、両者が想像しているものがまったく異なっているということになりかねない。

 さらに、この場合は論理も不明瞭であるため、論理的に反論するためには、「あなたが私のことを差別主義者だと言ったのは、○○という理由からであろうが、しかしそれは不当だ、なぜならば……」というように、相手の論理をこちら側で想像して組み立て、想像上の相手の主張に反論することになる。

 これが完璧に相手の内心の論理を言い当てていれば話は早いが、私たちはエスパーではないから、往々にして勝手に相手の内心を想像して反論する藁人形論法に陥ってしまう。これは不誠実であるばかりではなく、相手に「私はそのようなことを言っていない」と否定する労を取らせてしまい、かえって不経済となってしまうのだ。

 ならば、最初から「あなたが私のことを差別主義者だと思ったのはなぜですか、教えてください」と問うたほうがはるかに合理的であり、論敵に対しても誠実なのである。

 一見すると隙のなさそうな論理展開ですが、ここには誤りが含まれています。その誤りを説得力で包み込んでしまっているのは、さすがはネット論客と言えるでしょう。

 それでは、上記の引用部分を順番に検証していきましょう。

 「エロ匂わせ表現」にせよ「差別主義者」にせよ、その定義はきわめて曖昧である。いきなり「私は差別主義者ではない」とか「私が定義するエロ匂わせ表現は公共の場においてもかまわないものだ」とこちらから主張した場合、同じ差別とかエロという言葉を漠然と使っていても、両者が想像しているものがまったく異なっているということになりかねない。

 非常によく分かりますし、同意します。両者が同じ単語を使っていても意味が異なるというのはよくあります。

 青識亜論さんと石川優実さんの対談イベント『#これフェミ』でも、この事態は起きました。青識亜論さんが述べた「言語化」と、石川優実さんが述べた「言語化」の意味がまるで違っていたのです。

 石川優実さんの「言語化」は単純に「言葉にする」ということを意味していました。対して、青識亜論さんの「言語化」は、言うなれば「定義化」に近いものを意味していました。なので、

青識「言語化してください」
石川「やってみます。〜〜〜ということ、かな」
青識「いや、ちゃんと言語化してくださいよ」
石川「は? 言語化してんじゃん。意味わからん」

というすれ違ったやり取りが起きてしまったのです。
(セリフはイベントの映像記録や音声記録が公開されていないため、記憶を頼りに書いたものになります)

 このすれ違いは、当時の『#これフェミ』後の石川優実さんのブログ記事を読めばより理解が深まるところなのですが、残念ながら現在は削除されています。

2-1. 「確認」の欠如

 さらに、この場合は論理も不明瞭であるため、論理的に反論するためには、「あなたが私のことを差別主義者だと言ったのは、○○という理由からであろうが、しかしそれは不当だ、なぜならば……」というように、相手の論理をこちら側で想像して組み立て、想像上の相手の主張に反論することになる。

 この部分は誤りです。

 「相手の論理をこちら側で想像して組み立て」と「想像上の相手の主張に反論」の間に「確認」という大事な工程が抜けて論じられているのです。これを踏まえて、続きを見ていきましょう。

 これが完璧に相手の内心の論理を言い当てていれば話は早いが、私たちはエスパーではないから、往々にして勝手に相手の内心を想像して反論する藁人形論法に陥ってしまう。 

 そもそも「藁人形論法」とは何か。Wikipediaにはこう書かれています。

ストローマン(英: straw man)は、議論において、相手の主張を歪めて引用し、その歪められた主張に対して反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の主張そのものを指す[1]。ストローマン手法や藁人形論法ともいう。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 今回の場合は、藁人形論法に「陥ってしまう」ケースです。悪意ではなく、ミスによって生じるもの。確認すれば防げます。

 そう、確認が大事なのです。つまり、

「あなたが私のことを差別主義者だと言ったのは、○○という理由からであろうが、しかしそれは不当だ、なぜならば……」

こうではなく、

「あなたが私のことを差別主義者だと言ったのは、○○という理由からで合っているか?」

と一旦センテンスを切り、相手への「確認」を挟むべきなのです。

 これはクローズド・クエスチョンであり、相手は「はい」「いいえ」で答えられます。ここで合意が取れた後に、次の「反論」のフェーズに進むべきです。

A「あなたが私のことを差別主義者だと言ったのは、○○という理由からで合っているか?」
B「はい」
A「しかしそれは不当だ、なぜならば……」

 このように、「確認」を取っていくことでエスパーでなくても「同じ差別とかエロという言葉を漠然と使っていても、両者が想像しているものがまったく異なっている」という事態を防ぐことができます。

 さて、「確認」をしたときに回答が「はい」の場合は議論がスムーズに進みます。では、回答が「いいえ」の場合はどうでしょうか。

2-2. 「クローズド・クエスチョン」の優位性

これは不誠実であるばかりではなく、相手に「私はそのようなことを言っていない」と否定する労を取らせてしまい、かえって不経済となってしまうのだ。

 「これは不誠実であるばかりでなく」の部分、前述の通り「確認」を挟む方法ならば過失による藁人形論法は起きません。つまり、誠実性の問題は既に解決済み。

 「相手に否定する労を取らせる」ことは事実です。しかし、「かえって不経済となる」が間違っています。否定する労を取らせることは取らせるのですが、青識さんが比較対象として提示している案の方がより多くの労を取らせることになり、より「不経済」だからです。

 青識さんの提案は以下の通り。

 ならば、最初から「あなたが私のことを差別主義者だと思ったのはなぜですか、教えてください」と問うたほうがはるかに合理的であり、論敵に対しても誠実なのである。

 この方法が、なぜ「不経済」なのか。

 まず、前述した「確認」を取る方法は必然的にクローズド・クエスチョンになります。「これはパンですか?」のように「はい」「いいえ」で答えられる質問の仕方です。

 そして、青識さんが提案している方法はオープン・クエスチョンです。「なぜ?」「なに?」「どこ?」「いつ?」「どうやって?」など、答える側が幅広い回答をできる質問の仕方です。「これは何ですか?」はオープン・クエスチョンとなります。

 クローズド・クエスチョンを投げかけても、それが的外れな質問だったら「私はそのようなことを言っていない。私が言っているのは……」と説明し直す必要があり、やはり不経済なのでは……そう思われるかもしれません。

 しかし、そうとは限らないのです。

 どちらがより「不経済」か。オープン・クエスチョンの場合はイチから説明して回答しなければなりません。

 対して、クローズド・クエスチョンの場合は「相手が自分の言葉をどのように間違えて捉えたのか」という事前情報を得ることができるのです。事前情報があれば、より精度の高い回答を行うことができます。この差は大きい。

2-3. 回答しやすい質問

 想像してみてください。あなたが会社員であるとして、自分の上司にオープン・クエスチョンで「なぜこんなことをしたんだ?」と聞かれる場面を。

 または、クローズド・クエスチョンで「おそらくこういう意図でこんなことをしたんだと思うんだが、合っているか?」と聞かれる場面を。

 どちらがより回答しやすいでしょうか。

 ……。

 そう、最終的には「人それぞれ」なのです。

 オープン・クエスチョンの方が答えやすいという方もいますし、クローズド・クエスチョンの方が答えやすいという方もいます。

 なので、クローズド・クエスチョンの方が回答の際に事前情報のアドバンテージがあるとはいえ、この時点で「青識さんが提示するシーライオニング法は間違っている」と言い切ることはできません。

 では、別の観点からも考えてみましょう。

3-1. Twitterという特殊な環境

 「Twitterは議論に適していないSNSである」という言説に異論がある方は少ないでしょう。

 1ツイートに140字しか書き込めず、正当性よりも共感を得たツイートがいいねとRTを稼いでバズります。引用RT機能はフォロワー数の多いアルファアカウントによって、意見の違うツイートをフォロワーに「晒す」用途で使われることが多いです。

 自分の好きなアカウントだけフォローすることによってエコーチェンバー現象が発生、加えてブロック機能も多様する人はますます思考が偏執的になっていきます。

 さて、このTwitterという特殊な環境下で、議論における「不経済」とは何を意味するのでしょうか。

3-2. 議論の目的と「小さな合意」

 まず、議論の目的を「合意を得ること」と定義します。これは「どちらが正しいかを決める」ではなく、「お互いの主張を理解し、譲り合えないラインを認識する」を意味します。

 この主張は青識さんも同様の見解だったはず。いつだったか、TLに流れてきた青識さんの単独ツイートを見たことがあります。しかし、Twitterで検索しても引っかからなかったため、もし青識さんの見解が違うようでしたら、申し訳ありません。

 では、1つ例を挙げて見ましょう。

A「『たけのこの里』の販売を規制すべき」
B「なぜですか?」
A「『たけのこの里』のクッキー部分は非常に歯に詰まりやすく、子どもの虫歯を促進させるからです」
B「あなたは子どもが歯磨きを一切の歯磨きをしないと思っているのですね」
A「そんなことは誰も言っていません」

 オープン・クエスチョンと藁人形論法。意図的か過失かは定かではありませんが、Aの「子どもの虫歯を促進させる」という主張を、Bは「あなたは子どもが歯磨きを一切の歯磨きをしないと思っている」と誤読しています。

 さて、議論の目的は「合意を得ること」です。前述の会話では一切の合意が取れていません。Twitterでよく見る不毛なレスバトルです。

 これにより、議論における不経済を「合意の取れない会話」と定義します。では、どうすれば合意が取れるのか。

 合意を得るために重要なのは、「小さな合意」を得ることです。小さな合意を得るためには、より小さな合意を得ることが必要となります。小さな合意を積み重ねることによって、初めて「大きな合意」を得ることができるのです。

4. 「小さな合意」の実例

 ここから実例として提示するのは、フェミニスト石川優実さんの支持者の1人「くぼゆうのすけ」さん(以下、くぼさんと表記)と私の対話です。

 なお、事前に申し上げておきますが、Twitterでよく見かける「対話に成功と銘打っておきながら、実際は支離滅裂な発言を晒してオモチャにしたいだけ」という趣旨ではありません。そのようなコンテンツを楽しみたい方の期待には沿いかねます。

 彼を揶揄する意図は一切ございません。本稿に関することで、彼に対する誹謗中傷行為はくれぐれもお控えいただくようお願いいたします。

 また、本章では「同一スレッドにおける、くぼさんと私の全てのツイート」を引用しています。これは「スレッドの一部ツイートのみを引用してしまうと、本来とは違う意図に捉えられてしまう可能性が生じる」ことを避けるためです。

 そのため、本章はかなり長い構成となっております。

 本章はエビデンスとして論旨を補完するものなので、論旨だけが読みたい方は5章まで飛ばしてしまっても差し支えありません。

 まずは発端。石川優実さんがTwitterの鍵アカウント内で、ヒップホップMCのエミネムさんに疑問を抱く旨のツイートを行い、そのスクリーンショットが流出するという騒動が起きました。

 石川優実さんの「疑問」は「批判」と捉えられてしまい、石川優実さんに苦言を呈するツイートが散見される事態となりました。

 苦言を呈するツイートの1つに対し、くぼさんは引用リツイートを行いました。私はこのツイートに対してリプライを送りました。

 2章で「クローズド・クエスチョンの方が回答側の情報量が多い」と述べておきながら、オープン・クエスチョンをしてしまっています。

 これは「批判」として受け取られてもおかしくなかった「疑問」です。詳しくは後述の章で論じます。

 「ソースはおれの意味がわかんないですが」とくぼさんは言及していますが、仰る通り分かりづらい表現です。くぼさんはこのツイートにて、「なぜそんな反論をしたのか」という「疑問」に真正面から「回答」をしてくれました。

 しかし、私は全ての疑問が解消されたわけではなかったので、改めてリプライを送りました。

 ここで私は、青識さんが述べるところの「相手の論理をこちら側で想像して組み立て」を行っています。そして、藁人形論法に陥ることを避けるため「想像上の相手の主張に反論する」前にクローズド・クエスチョンにて「確認」を取っています。

 ちなみに、先んじて「謝罪」を行っていることにも理由がありますが、これも後述の章で論じます。

 ここで「小さな合意」が1つ取れています。私は「確認」をし、彼は「それでもよいです」と「部分肯定」をしました。このあたりから、くぼさんの態度がなんとなく軟化してきたのが感じられるでしょうか。

 「小さな合意」が取れたので、私は「反論」のフェーズに入りました。先程の「確認」に対する彼の回答が「部分肯定」だったため、反論は「部分否定」にて行いました。

 私の反論が「部分否定」だったこともあり、肯定部分の主張については「小さな合意」が取れています。合意を積み重ねることにより、論点を絞った議論を交わすことが可能となります。

 このツイートにおいて、くぼさんは否定部分について「その辺は興味深いとこです」と婉曲表現で「質問」を提示しました。いくつか例を挙げてくださったのは、彼が私との議論に向き合ってくれている証拠でしょう。

 私はくぼさんが挙げてくださった例を参考に、なるべく同じ単語を用いて「回答」を行いました。追加でTwitterというプラットフォームに対する意見を述べています。

 少し分かりづらいですが、ここでもまた1つ「小さな合意」が取れています。

 「ねじ曲げる」に関する私の「回答」に対して、くぼさんは「はい」と「肯定」してくださっています。彼もTwitterについての意見を述べつつ「今後どうなるか」と新たに「質問」をしています。

 「Twitterが今後どうなるか」について、私は「回答」を行っています。

 ……ちなみに、このツイートの内容は間違っています。後悔しているのはCEOのジャック・ドーシーさんではなく、RT機能の開発者であるクリス・ウェザレルさんです。このnoteの執筆中に、改めて調べて気づきました……。 

 くぼさんは「実験して遊んでるのかと思ってました」と自らの誤解を吐露してくださりました。
(しかし、実際は間違っていたのは私でした、ごめんなさい……)

 ここで「たしかに、そうですね」と新たに「小さな合意」が取れています。ここまでに4つほど「小さな合意」を積み重ねることで、お互いに「信頼関係」がおぼろげながら生まれているのが分かるでしょうか。

 私もここまでの「小さな合意」の積み重ねによる「信頼関係」を感じ取り、かなりくだけた口調になっています。会話が楽しくなって「笑」をつけており、敬語も抜けています。

 議論の最初の方のツイートでは、くぼさんは「!」を一切使っていませんでした。しかし、彼は前のツイートとこのツイートで「!」を使用するようになっています。

 「!」の多さがそのまま「信頼関係」を表している……と言い切ってしまうのは暴論ですが、全くの無関係とは言い切れないでしょう。

 ここまでで議論は一通り終わっているのですが、私は築いた「信頼関係」が名残惜しくなり、もう少し会話を続けたくてただの「愚痴」を吐いてしまいました。

 くぼさんは、私の愚痴を否定せずに受け止めてくださりました。心から嬉しく思います。

 また、くぼさんがここまで議論に付き合ってくださったことを私は非常に喜ばしく思い、深く感謝しております。

5. 「ムダなやり取り」と信頼関係

 青識亜論さんは「不誠実な」「嫌がらせとしての」シーライオニングについてこう述べています。

 根拠や論理を問うための作業なのだから、それが明らかとなってもまだ問いや揚げ足取りを続けるのは、時間の無駄だ。速やかに自分がそれに同意をできない理由を提示するべきだろう。私はこれをチェスになぞらえ、『キングを置く』作業と呼んでいる。お互いが守りたい主張を十分確認できたならば、そこからはしっかりと相互に根拠を確認しあいながら、論を交わすフェーズになる。

 ここに全く異論はありません。なるほど、その通りと思います。

 青識さんは「自分がそれに同意をできない理由を提示すること」をチェスになぞらえて『キングを置く』作業と呼んでいます。

 通常の議論であれば、両者がキングを置いた状態でゲームがスタートするでしょう。ポーン・ルーク・ビショップ・ナイト・クイーンを駆使して、相手のキングを取るべく手を指していく。

 また、チェスはボードゲームの中でも「引き分け」で終了することが多いゲームとも知られています。しかし、勝敗が決しなくともそこに至るまでにお互いが指した手はプロセスとして残る。そう考えると「議論」を「チェス」になぞらえるのは言い得て妙で面白い。

 しかし、Twitterでの議論は通常の議論とまるで異なります。言うなれば「相手の駒の種類と配置が全く分からない」というルールの『変則チェス』とでも言いましょうか。どれがキングなのか、それを予想しながら手を指していくのです。

 ゲームが進んでいけば駒の動きで「これがキングかな?」と予想できますが、そこには通常のチェスとは全く違った戦略が必要となり「楽しみ方」も変わってきます。

 さて、青識さんは「否定する労を取らせること」を「かえって不経済」として評しておりましたが、Twitterでの議論においてはその限りではありません。

 通常の議論ではムダとされるやり取りでも、それらは「どれがキングか」を探るための重要な作業なのです。それらの「ムダなやり取り」が「小さな合意」を積み重ね「信頼関係」を形成していきます。

 そうしてやっと、お互いのキングである「自分がそれに同意をできない理由」が判明するのです。 

6. 「質問」の否定的ニュアンス

 重要な要素をもう1つ。青識さんが言及していない、議論において重要な要素。それは「質問には否定的なニュアンスが含まれる」ということです。この現象は、質問者の意図とは無関係に起こります。

 本稿の4章で取り上げた会話、その発端を例に考えてみましょう。石川優実さんがエミネムさんについて言及した件です。

 鍵アカウントのスクリーンショット流出なので直接画像を貼ることは避けますが、おそらく石川優実さんは「純粋な疑問をフォロワーに質問する」という意図でツイートをしたのでしょう。

 しかし、そのツイートに対して「否定的なニュアンス」を感じ取る人が大勢おりました。「疑問」や「質問」ではなく、質問の体裁を取った「批判」と受け取られてしまったのです。 

 ちなみに、「本当に石川優実さんにほんの少しの悪意もなかったか」という部分は重要ではありません。真実は石川優実さんしか知りません。「自分の心を完全に理解している人」も少ないでしょうから、石川優実さん自身にすら悪意の有無を判断できない可能性すらあります。

 重要なのは、質問者の意図に関係なく「疑問」や「質問」は、「批判」と受け取られる可能性があるということです。

 4章のくぼさんと私の議論。その最初のリプライです。このツイートでは「なぜそんな反論を」と「疑問」を呈していますが、これは「あなたの反論は的外れだ」という「批判」にも受け取れます。

 ここで重要なのは「私の意図がどうあれ、そう見えなくもない」ということです。

 このツイートを、くぼさんが「なぜか?」という「疑問」のまま受け取ってくださったおかげで、後の「小さな合意」に繋がりました。

 ここで私は「謝罪」をした上で「質問」をしています。ただし、「合っていなかったら」という条件付きで。これは「質問」であり「批判」の意図は一切ない……という意思を明確に示すために行いました。

  その甲斐あってか、お互いに少しずつ態度を軟化させ、議論を交わして「小さな合意」を積み重ねていくことができました。

 そして驚くべきことに、くぼさんは一連の議論の中で一切「直接的な質問を行っていない」のです。一貫して「婉曲表現による質問」を行っています。なるほど、この方法ならば「批判」のニュアンスが緩和されます。

 意識的なのか無意識的なのかは存じませんが、「質問」を「批判」と曲解される文章を避けているのでしょう。

 もちろん、私の質問の仕方や、くぼさんの質問の仕方が唯一の正解ではありません。

 十分な「小さな合意」の積み重ねにより「信頼関係」が構築されていれば、回りくどい方法を取らなくても「質問」をそのまま「質問」として受け取ってもらえるでしょう。

 しかし、まずは「質問を批判として受け止められる可能性がある」ということ自体を心に留めておく必要があると思います。

7. 論旨の整理

 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

 最後に、再び『正しい「シーライオニング」のススメ』での青識さんの主張を引用しながら、論旨を整理していきましょう。

 この種の議論や批判において、第一手目に自らの主張ではなく、「問い」を置いたほうがよい理由は、私が考える限り二つある。

 二つの理由のうち、一つが誤っています。

 さらに、この場合は論理も不明瞭であるため、論理的に反論するためには、「あなたが私のことを差別主義者だと言ったのは、○○という理由からであろうが、しかしそれは不当だ、なぜならば……」というように、相手の論理をこちら側で想像して組み立て、想像上の相手の主張に反論することになる。

 「相手の論理をこちら側で想像して組み立て」と「想像上の相手の主張に反論」の間に、「確認」の工程が抜けて論じられています。

 「あなたが私のことを差別主義者だと言ったのは、○○という理由からで合っているか?」と、一旦センテンスを切り「確認」を行うべきです。

 これが完璧に相手の内心の論理を言い当てていれば話は早いが、私たちはエスパーではないから、往々にして勝手に相手の内心を想像して反論する藁人形論法に陥ってしまう。

 「相手の内心を想像して」と「反論」の間に「確認」を行えば、過失による藁人形論法には陥りません。

 なお、「確認」は必然的にクローズド・クエスチョンとなるため「想像した相手の内心」という事前情報を相手に伝えることができ、オープン・クエスチョンと比べて精度の高い回答を期待できます。

これは不誠実であるばかりではなく、相手に「私はそのようなことを言っていない」と否定する労を取らせてしまい、かえって不経済となってしまうのだ。

 藁人形論法に陥らなければ、不誠実とはなりません。

 議論の目的を「合意を得ること」、議論における不経済を「合意の取れない会話」と定義すると、Twitterという特殊な議論の場において「否定する労を取らせること」は必ずしも「不経済」とは言えません。

 むしろ「小さな合意」を得る機会が増え、合意の積み重ねにより「信頼関係」を築けます。

 ならば、最初から「あなたが私のことを差別主義者だと思ったのはなぜですか、教えてください」と問うたほうがはるかに合理的であり、論敵に対しても誠実なのである。

 Twitterでの議論は通常の議論と異なり、「自分がそれに同意をできない理由」をお互いに提示している状態から始まるわけではありません。それらを探り合うところから始まります。

 また、「質問」には本人の意図に関わらず「否定的なニュアンス」が含まれます。これを払拭して議論するには「信頼関係」を「小さな合意」の積み重ねによって築く必要があり、そのためには通常の議論では「不経済」だと見なされる「ムダなやり取り」が重要です。

 以上のことから、議論や批判において第一手目に置くべきは「問い」ではあるが、その「問い」は「想像して組み立てた相手の論理」もしくは「想像した相手の内心」をワンセンテンスで「確認」するものであるべきだ、というのが私の主張です。

8. 補足

 続きを書きましたので、よろしければご覧ください。

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