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「憲法改正しないとコロナ対策で私権制限ができない」というのが悪質なデタラメである件

コロナ対策にかこつけた改憲論?

 新型コロナ対策で、施設や店舗などの営業時間制限要請などが行われていますが、このような対策について
 「今の憲法では、私権の制限ができないので、思い切った対策がとれない。」
 「私権を制限できるように憲法を改正する必要がある。」

という類いの主張をする政治家や評論家が見られます。

 このような主張は一見もっともらしく思えるのですが、実はかなり倒錯しているというか、そもそも憲法と法律の役割や関係をよくわかっていない可能性がありますので、どこがおかしいのか簡単に説明しておきましょう。

「私権の制限」という用語はあまり適切でない

 なお政界やメディアなどでは「私権の制限」という言い方が頻繁に使われているのですが、あまり適切な表現でもなく、むしろ「権利の制限」とか「自由の制限」と呼んだ方が正確ですので、この記事では「自由・権利の制限」という言い方を主に使うことにします。(法律上「私権の制限」というと、メディアで使われているのとは違う、かなり特殊な意味で使われます。ここでは詳しく立ち入る余裕はありませんが、たとえば道路法という法律を参照してください。)

まだ改憲していない現在は、私権の制限が存在しないのか?

 「改憲しないと自由・権利を制限できない」と主張する人は
「憲法で定める自由・権利は絶対無制限だから、コロナ対策でそれをやむを得ず制限しなければならない事態になっても、憲法を変えないとどうしようもない」
という考え方に立っている人が多いようです。

 そうすると、今現在の時点では、私たちの自由・権利はすべて絶対無制限の状態になっているのでしょうか。

 少し常識的に考えてみれば、これがまったく事実に反することがすぐわかります。

今でも既に自由・権利には様々な制約がある

 営業の自由を例に挙げてみましょう。営業の自由は、憲法22条1項(職業選択の自由)と29条1項(財産権)によって保障されていると一般には理解されています。
 私たちは、憲法の保障があるからには、どのような商売でも自由に行うことができるのでしょうか。

 例えば(コロナ対策関係でも、頻繁に問題となっていますが)飲食店は、現在、どのようにでも自由きままに開業・営業することができるのでしょうか。
 もちろんそうではありません。まず飲食店を開業するには、都道府県知事の許可を受けなければならず、施設には一定の基準が決められており、さらに一定の場合には営業の停止や禁止が行われることもあります(食品衛生法)。
 一方、飲食店ではなく工場を建てて経営する場合はどうでしょうか。
 工場を操業する場合、排出基準に適合しないばい煙を発生させる危険があれば、都道府県知事は施設の使用停止を命じることができます(大気汚染防止法)。
 さらに工場の作業施設が労働者に危険があるようなものであれば、都道府県労働局長又は労働基準監督署長は、作業や建物等使用の停止を命じることも可能です(労働安全衛生法)。

もともと憲法の保障する権利・自由も絶対無制限ではない

 このように、現在の憲法が保障している営業の自由を例に挙げただけでも、様々な「自由・権利の制限」=「私権の制限」が行われているのです。
 これらの自由・権利の制限は、もちろん政治家や役所の利益のために行われているのではなく、人の生命・安全・健康など、営業の自由を制限してでも守らなければならない別の重要な権利や利益や価値を守るために行われているものです。

 つまり憲法が保障する権利や自由はすべてが絶対無制限というわけではなく、他の重要な権利や利益や価値を守るためにやむを得ない制約が行われることは、もともと憲法が許容していると考えなければなりません。

十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 憲法が人権を「最大」に尊重することを求めているということは、逆にいえば、やむを得ない場合の「必要最小限」の制約は許容しているということであり、このような制約を行うためにいちいち憲法改正などする必要はないのです。
 (ここで「公共の福祉」という上記の条文上の言葉を使う人も多いと思いますが、単純に「公共の福祉=全体的な国家秩序」みたいに表面的イメージでミスリードされる恐れもありますので、敢えてこの用語は使わないで説明します。また、例外的にいかなる例外的制約も認めない自由・権利もあります。たとえば公務員による拷問や残虐刑は、憲法36条により「絶対に」禁じられています。)

権利や自由の制約の是非は、個別に判断しなければならない

 もちろん必要でない制約や過剰な制約であれば、憲法違反となる可能性がありますが、合憲か改憲かは一概に決めつけられることではなく、個別に法律の内容を見て、「何のために何をどこまで規制するのか」を検討しなければなりません。
 (この点で「いちいち個別に検討なんかしていられないから、何が規制できるのか憲法改正してはっきりさせろ」という人がいますが、「何のために何をどこまで規制するのか」は千差万別なのですから、そんなことは不可能です。改憲すればそういう疑問が全部解決できるという主張は、思考の放棄といえるでしょう。)

 以上のように考えると、「今の憲法ではコロナ感染防止のための権利・自由の制限ができないから、改憲しろ」というのがいかに馬鹿げた主張であるかわかるでしょう。

憲法が権利・自由を保障し、例外的な規制は法律が定める

 憲法は、まず原則としての権利・自由の保障を定めています。その例外として、上記のような意味でやむを得ない制限(規制)を定めるのは、憲法よりも効力が下位にあたる法律の役割です。そしてその規制が行き過ぎであれば、法律は憲法違反と判断されることもあります。

 「憲法を改正して制限できるようにしろ」というのは、この原則としての権利・自由の保障自体を弱めてしまえば、どこまで制限しても憲法違反の問題自体が起こらなくなるということであり、本末転倒の発想というべきでしょう。

ロックダウンの是非は一概にいえるわけがない

 なおロックダウンのような強力な自由・権利の制限の場合は合憲か違憲かという点がコロナ対策では問題となりますが、これは具体的な法案もないのに、先に結論を出せるわけがありません。

 「どのような場合に、何をどこまで規制するのか」「罰則はあるのか」「罰則があるとすればどの程度重いのか」「不利益に対する救済はどうするのか」等々の要素が揃って、初めて合憲か違憲かの議論が始まるのです。
 ここでかみ砕いて極度にわかりやすくいえば、「ロックダウンがなければ守ることができない権利・利益」と「ロックダウンによって失われる権利・利益」をきめ細かく比較して考えるしかないということになります。

 こういう思考の手順をすっ飛ばして、「今の憲法ではコロナ対策のため私権の制限ができないから、改憲しなければ」と言っている論者はデタラメをばらまいているようなものなので、十分注意しましょう。

 ★なお現在の自民党の改憲案が何をもたらすか、シンプルな説明記事をこの後書く予定ですので、そちらもご覧ください。

ある憲法学者の言葉

 最後に、ある有名な憲法学者の説明を紹介しておきます。

 人権もまた社会に存在する以上、絶対無制約のものではありえない。歴史的な社会のうちに生成してきた人権は、当然にその前提としての制約を内在せしめているのであり、その限度で法律がこれに制限を加えることを憲法は禁止するものではないのは、12条や13条をまつまでもなく当然の事理である。(…)
 …実際上は、それぞれの具体的な(人権の)制約が憲法に反するかどうかは、一方で、制約をうける権利や自由が現代社会においてどのような価値をもつかを評定し、他方で、制約の目的やその手段からみて、それによってどのような社会的利益が実現されるかを測定し、この両者を較量して決定するほかはないであろう。」(伊藤正己『憲法入門』[第4版補訂版]有斐閣双書 P123~124より)


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