浅沼優子氏の小沢健二氏への批判について、ちょっとだけコメントします

 

  説明と追記があります。併せてご確認ください。





 初めての投稿となります。

 私は、シンガポール華人(中国系移民)の社会史の研究を行っている歴史学者の持田といいます。専門は、イギリス植民地統治下のシンガポール・マレーシアにおいて「人種」・「ネイション」というフィクショナルな政治的カテゴリーが人為的に創出されていった過程、およびそれが中国本土の政治的ナショナリズムと結びついていった過程などを、実証的に議論する、というようなものです。あまり頭はよくないのですが、何とか研究者を続けています。

 数年前に大腸がんで死にかけまして、今も1年に1度ほど検査が欠かせない状態です。現在は慶應義塾大学などで華人史を講義しています。来年度くらいに専門書を出す予定なので、興味があればぜひ(宣伝です)。

 さて、浅沼優子氏のnoteでのご投稿を見て、少し思うところがあったため、少しだけコメントさせていただきます。

 最初に言っておきたいのですが、私は誰も不快な気持ちにさせたくないですし、無知な、罪深い人間です。誤りがあったり(当然あるでしょうね)、読んでストレスとなってしまったら申し訳ありません、と最初に謝罪しておきたいと思います。



 では、議論を始めます。 浅沼氏のご投稿を読ませていただく限り、浅沼氏は「人種」問題に大変関心があり、政治的にも明確な立場をお持ちのようです。私もBLMには基本的に同意する立場をとります。ですが、いくつか疑問があります。

 まず浅沼氏は、ご投稿のなかで何度も「黒人」・「白人」という言葉を使い、あたかも「人種」なる集団が存在し、対立的な関係性にあるように議論しています。

 しかし、これは明確な誤りです。たとえば現在、英語でracismに関する専門書を読めばわかるように、「人種」(race)という概念は、人間という動物が皮膚や頭髪の色などの身体的特徴や血統・遺伝などの要素により分類可能な異なる種により構成されているという認識に基づき、人類の中に存在する複数の種を指す、疑似科学的な(現代では科学的に実証されているとはいいがたい)概念です。

 「人種」(race)という言葉自体は伝統的に、家柄や血統といった意味で用いられていましたが、ベルニエ(Bernier, Francois)が1684年に初めて、人類の中で同一の身体的特徴を有する集団を示す意味でこの言葉を用いました。また、「人種」概念の発展を促したのは18世紀における人間(特にいわゆる有色人種)を対象とする自然科学の発展であり、特に博物学におけるリンネ(Linne, Carl von)やビュフォン(Buffon, Georges-Louis Leclerc, Comte de)による人間の分類や、形質人類学におけるブルーメンバッハ(Blumenbach, Johann Friedrich)による5種分類などが、「人種」概念の(当時のレベルでの)「科学」的な基盤を提供したといわれています。また「人種」概念を早期に利用した思想家として、イマニュエル・カント(Kant, Immanuel)をあげることができます。

 18世紀の博物学や形質人類学による「科学的」分類はしばしば、いわゆる「白人種」の優越性を強調したが、「人種」間の明確なヒエラルキーを前提としたものではありませんでした。しかし、19世紀後半以降における、ゴビノー(Gobineau, Joseph-Arthur, Comte de)によるアーリア人種論や、それをさらに発展させたチェンバレン(Chamberlain, Houston Stewart)のゲルマン人種論は、「人種」間の優劣・ヒエラルキーとその混合の危険性を強く主張し、後の優生学につながる論点を提示することとなりました。現在のrace, racismのイメージはこちらに近いですね。

 19世紀末から20世紀初頭における人種概念の世界的な普及には、社会ダーウィニズム(social Darwinism)の蔓延や人種主義的な小説・言論の出版、帝国主義の普及と宣伝、またナショナリズムとの融合があげられます。この辺りも重要な論点であると思うのですが、字数が多すぎるので省略します。興味があれば、私の専門書を買ってください。またアジアからの視点としては、白石隆先生の『海の帝国』や、大野英二郎先生の『停滞の帝国』をお勧めしておきます。

 さて、なぜこのような話を長々と書いたのかというと、以下の二つの点を強調しておきたいからです。まず、「人種」という概念は現代の科学では肯定されない、疑似科学的かつ差別的な概念であることです(生物学的に異なる種というほどの断絶が存在せず、越境的な交流が存在し、基本的には人間の中で交配不可能あるいは不安定な生物学的グループは存在しないからです)。日本語では、ベルトラン・ジョルダン『人種は存在しない 』を読むと分かりやすいですね。また身体能力やスポーツと「人種」の関係性については、川島浩平先生の『人種とスポーツ』を読まれるといいでしょう。

 これについて、ちょっと注記しますが、「それでも「人種」という政治・社会制度は存在している」と訴える方もいるかもしれません。しかし、それは、疑似科学的かつ差別的な概念を現代において再生産していい、ということにはなりません。まず、その概念自体を否定することにより、政治・社会制度を変革しなければならないはずです(たとべば(本当に嫌な言葉ですが)「部落」差別において、当事者以外が「部落」と名指しすることは基本的に忌諱されると思います)。

 次に、「人種」という概念自体が、外見の差異で他者と自分たちを「区別」したいヨーロッパ近代の知識人により生み出された概念であることです。私の(こころの)師匠の一人であるベネディクト・アンダーソンは『想像の共同体』のなかで、以下のように表現しています。「…ことの真相は、ナショナリズムが歴史的運命の言語で考えるのに対し、人種主義は、歴史の外にあって、ときの初めから限りなく続いてきた、忌まわしい交接によって伝染する永遠の汚染を夢見ることにある。…」(アンダーソン、ベネディクト(白石隆・白石さや(訳))『定本想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』書籍工房早山、2007[1983]年、244-245頁)

 まさしくアンダーソンが言明したように、「人種主義」(racism)は他者と自らが如何に異なっており、共存できないのかを強調するために作られた疑似科学的概念です。「人種」という言葉自体が、自らが属する「人種」と他「人種」との差異を強調し、外部との分離・分断の必要性を主張するために使われてきたものなのです。私見ですが、アフリカン・アメリカンという言葉も、「黒人」(black)という人種ではなく、アフリカというルーツで自分たちをアイデンティファイするための言葉だと理解しています。

 アメリカにおける政治問題を議論する際に、差別を肯定しない立場の方々が「黒人」・「白人」という差別と断絶を生み出すための言葉を繰り返し使い、あまつさえ「BLACK」 lives matterという言葉を他者に強要するのは、いささか奇妙な光景に見えます。いや、当事者たちが自分たちの語彙で説明するのはいいと思うんですよ。追い詰められた当事者の告発には、それだけで価値のあるものだからです。ですが、(当事者ではない)「人種」差別問題を宣伝する方々が、差別的な語彙を再生産する必要がありますか?それは差別を再生産する行為に他なりません(もちろん浅沼氏がそうだといっているわけではないですよ)。


 

 次に、私は浅沼氏の「ALMスローガンを主張・投稿している人は、レイシストか全く無知の人だ(この時点で全くの無知であることはすでに罪である)」という一文に、とても強い反発を覚えたことを書いておきます。

 これ、つまり「無知な人は人種問題について議論するな」ということですよね。では、アメリカのインド系移民が差別や犯罪被害を受けた時に、「ALM」として投稿すると、それは罪になってしまうのですか?専門的な知識を持たない人々は、差別的な制度の問題に関して議論する権利を持たないことを前提とするのでしょうか?

 当然ですが、あらゆる人々は自由に言論する権利があるはずです。また「人種」主義の社会制度史に関する専門的な知識を持つ方であれば、かつて「教養がない「人種」は政治制度や教育制度に参加するに足る能力がないので、彼らを排除することは差別ではない」という言論がいかに多く存在したかをご存知でしょう。「知識無きものは政治議論への参加さえ許さない」というのは、典型的な「白人」差別主義者の論理です(もちろん浅沼氏がそうだといっているわけではないですよ)。

 また、浅沼氏は「直接黒人アーティストや音楽関係者の人種差別問題にまつわる発言は繰り返し聞いてきたし、それを通訳や翻訳し日本語で日本の読者や視聴者に伝える努力をしてきた」など、日本人は「人種」問題に無関心であり、自身がそれを「啓蒙」していることを強調します。私は「人種差別問題の専門家ではない」(専門的な知識や教育を受けていない)人がすべきは、他者に「人種」主義を啓蒙するよりも、まず自分が勉強することだと思うのですが、それはさておき。

 上にも少し書いたように、「人種」概念は18-19世紀のヨーロッパで概念化され、19世紀以降に植民地統治を通して政治的制度化を遂げ、20世紀に世界に広まっていきます。よって、世界中に「人種」問題が存在するわけです。日本でも、日本帝国内部の多様性や越境的な移動などの問題は社会学における研究蓄積が存在します。

 言い換えると、世界中には多様な「人種」問題が存在しており、浅沼氏のいう「人種問題」とは、アメリカの「人種問題」でしかありません。それは基本的に国内問題であり、他者が学ぶことは推奨されるものの、絶対的に必要ではありません(もしそうではないとするなら、浅沼氏はいますぐ知り合いの「黒人」アーティスト全員にインドネシアでの華人差別問題について講義し、彼らに理解させてください。たぶん一人につき100時間はかかると思いますが)。

 ですが、浅沼氏は日本人がアメリカの「人種問題」について無知だということは問題視なさるものの、アメリカの「黒人」アーティストが他地域の「人種問題」に関心がないのは容認なさるようです。自分たちが知性の中心であると勘違いし、他者の社会や知性の蓄積を軽んじ、自分たちの知識を世界的な知の基準として押し付けるのは、典型的な「白人」差別主義者の行動です(もちろん浅沼氏がそうだといっているわけではないですよ)。

 さらに、「BLMは、今ではあらゆる人種差別を撤廃するための運動として世界中に広がっている」そうです。失礼ですが、私はアフリカや中東、中央アジア、東アジア、東南アジアのあらゆる人々の間で、「BLM」が政治運動として広がっているというニュースを聞いたことがありません(インドの被差別層の当事者の間で「BLM」運動が展開されましたか?)。「BLM」の主な受容層はアメリカ・ヨーロッパであり、それ以外の地域においては英語などの識字力を持つ層か、その翻訳を読めるインテリ層のみです。

 「白人」知識人層を世界の中心と見なし、その中での流行を「世界の趨勢」と勘違いし、その知性の恩恵にあずかれないものを「遅れている、間違った連中」と見なすのは、典型的な「白人」差別主義者の行動です(もちろん浅沼氏がそうだといっているわけではないですよ)。




 さて、そろそろ結論を書きます。

 私は、無知は罪ではないと思います。必要なのは自由な、開かれた言論と、完璧ではない他者への共感、そして共存の可能性への信頼であるはずです。「ひとにやさしく」というのが、持田の研究のモットーであり、人生の教訓の一つです。これを読んだ方が、浅沼氏に対するものも含め、これ以上の批判を繰り返さないことを望みます。

 そして、浅沼氏に、一つ宿題を出そうと思います。「その人が誠意を持って重要な情報を正しく伝えようとしているか否か、簡単に見分ける方法がある。批判を受けた時の対応だ。」ということで。

 私は前半の内容を書くために、10年間ほど勉強しました。博士論文の参考文献は(記入を除外したものを含めると)500冊は優に超えると思います。英語、日本語、中国語のみです。

 「無知は罪である」と私は思いませんが、そのように考える方を私は否定しませんし、尊敬いたします。ですので、私が読んだであろう文献を最低200冊以上具体的にあげ、それぞれの内容を整理して理解したのちに、もう一度投稿をしていただきたいと思います。noteでなくとも、専門的な学術誌でも構いません。既に浅沼氏が「人種」主義に大変お詳しいのであれば、これは決して難しい課題ではないでしょう。

 もしそれが難しいようでしたら、浅沼氏の視点から見て「無知」な人たちに、もう少しだけ、寛容な態度で接するべきではないかな、と思います。



 最後に、長文失礼いたしました。繰り返しとなりますが、失礼かつ不快な発言などございましたら、平に陳謝いたします。



 追記します。

 ブックマークのコメントなどで、「それでも知識のないものが議論することは不快だ」というコメントが多くありました。

 特定の人が、無知な発言に対して不快になること自体は、私は問題があるとは思いません(個人の感覚は自由です)。ですが、私自身としては「知識のないものが議論に参加すること」を否定したくはありません。何故なら、実際に差別の被害を受けている人々の多くは(インテリ層の方々から見れば)無知で無教養であり、人格的に完璧ではないように見えるであろうからです。非差別的な制度化に置かれた人々が、恩恵を受け続けた人々より知的であることは、極めて稀なケースでしょう。

 「知識のないものが議論に参加すること」を否定することはそのまま、非差別者が差別の実態を言語化することを妨げることになるのではないかと、私は考えています。

 言い換えると、「知識のないものが議論に参加すること」にかかるコストは、差別の是正にかかるコストよりも少ないであろうと、私は考えているということです。

 あと、「下から目線」じゃないんですよ。この業界で、私よりこの問題に詳しい研究者はいくらでもいます。私は歴史学研究者であって、狭い地域の歴史を限られた事例で考察しているだけです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?