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相手の話を、ちゃんと聞いていませんでした


私は相手の話を、ちゃんと聞いていない。


お恥ずかしい限りなのだけれども、調子に乗った私と話したことがある人であれば「あぁ、そうだね、全然話聞かないよね」と禿同されてしまうに違いない。

相手がなにかを話しているそばから、集中力が切れてしまい、出てきた単語だけが自分の頭の中をヒュンヒュンと飛び回る。そしてその単語が、長いこと蓋をしていた思い出と繋がったりすると耐えきれず、蓋をパカーンと開けてノンストップで喋り始めてしまう。



──たとえばだれかのお宅にお邪魔して、家主が手塩にかけた、とても美味しい冬瓜のスープを出してくれたとしたら、どんな感想を述べるだろう。

「あぁ、すごく美味しいですね。この冬瓜、とても瑞々しいけれど、一体どこで手に入れられたんですか?」みたいに聞いてみたりすると、相手はニコッとして、実はものすごく縁のある農家さんから送ってもらった冬瓜の話をしてくれるかもしれない。そして、農家さんとの出会いについて、その思想や在り方について、話が深堀りされていくかもしれない。

でも私であれば、「あぁ、すごく美味しいですね。ちなみに冬瓜といえば昔、家のコンポストに捨てた種から芽が出てそれをみんなで収穫したのが楽しかったんですよ、それもコンポストの土だから栄養豊富で……」だなんて風に返してしまう。ここで冒頭の「美味しいですね」はたんなる接続詞に成り下がり、私はすかさず、話の主役を自分自身にしてしまう。同じ冬瓜の話に聞こえても、これは「深堀り」ではなく巧妙な「すり替え」なのだ。しかも興奮で盛り上がってしまい、自分で自分が何を喋っているのか途中でわからなくなってくる。

冬瓜の話は一つのたとえで、実際にあった会話ではないのだけれども、自分の話を聞かないっぷりに嫌でも対峙しなきゃならない時間はやってくる。取材後のテープ起こしだ。毎回自分が嫌いになってしまうもんだから、この作業が本当に苦痛でたまらない。

上辺だけ聞いていると、相手が話していることを受けて返しているように聞こえるのだけれども、ちゃんと聞けば私はちゃっかり自分の話をしている。しかもポンンポンと、話題が変わる。実にユニークな経験でしょうと言わんばかりに、興奮して突拍子もないことを次から次へと話し続ける上に話のスピードが速いので、相手を置き去りにしてしまう。いつだってそんな自分のワンマントークショーにげんなりし、叶うならば現場まで戻って「喋りすぎ!」と叱咤したくなるのだ。そしてどんなに反省しても、また誰かと話すときにはすっかり興奮し、止まらなくなっているのだから情けない。



──



でも別に、生まれながらに、そうだった訳でもない。相対的にみれば「控えめでおとなしい」子どもだったらしい。

三姉妹の末っ子として、どんくさく、滑舌も悪かった私は、なかなか周囲のお喋りにも遊びにもついていけず、一番のお喋り相手といえば猫だった。高校生になってもひとり、猫にブツブツと語りかけていた。人間の感情というのは、他の生き物を通過しない限り完了しないらしいので、今風に言えばそれは我流のアニマルセラピーだったんだろう。(が、その間に一生分の承認欲求を溜め込んでしまったのかもしれない)


大学生あたりからは「社会的に立場があると」相手は自分の話を聞いてくれるという事態に感動してしまい、いよいよ溜め込んでいた自我がビッグバンのごとく爆発した。そこからは24時間オーディション会場のような、ひな壇芸人のような、討論番組の尺を奪い取るような臨戦態勢でお喋りに熱が入ってしまうようになる。

喋っている間は興奮状態なので楽しいのだけれど、帰宅してテープ起こしのときに客観視すると、「うわ、必死すぎ……」「自分のことで精一杯すぎ……」と、自己嫌悪が止まらない。人の話を聞かない人は、余裕がなさそうで、自信もなさそうだ。まさにそんなことが伊藤守さんの本にまんまと書いてあったのだけれども。

わたしたちが、人の話を聞けないのは、自分の正しさを証明するのに、精いっぱいだからです。お互いが、「わたしは正しい」と主張しているからです。

自分の正しさを主張するもっとも簡単な方法は、相手の間違いを指摘することですから、とても、相手の話など受け入れられるはずがないのです。

ところが、間違いを指摘されたり、相手が自分の正しさを認めてくれないと、ますます、正しさを主張しなければならなくなりますから、こうして、ますます、お互いに、相手を聞くことなどできなくなってしまうのです。  

そもそも、正しさを主張する理由は、相手から受け入れられるためだったはずです。つまり、ほんとうは、「わたしは正しい。だから、わたしのことを好きになってください」だったはずです。でも、いつのまにか、「だから~」の次は忘れられ、まるで逆のこと、つまり、相手から好きになってもらえないようなことを繰り返しているというわけなのです。  

この不毛なサイクルを止める方法はただひとつ、どちらかが、相手の話を聞くことです。正しさの証明を続けていることが、自分の体に、感情に、どのような影響があるのか、自分の内側の声に耳を傾けることです。相手に十分聞かれていると感じたとき、人は、それ以上の自己主張はしないものですから。しないですむものですから。

『こころの対話 25のルール』(伊藤守) より


──


今月半ばから、夫のソーホーでの個展がようやく始まった。

長過ぎるニューヨークの冬を終えての展覧会ということもあってか、嬉しいことに、この3年で知り合った友人知人らが次々と訪れてくれるため、私も夫と一緒にかなりの時間をギャラリーで過ごしている。


(さすがにここでの主役は夫なので、私は裏でお茶を淹れたりしつつ、こそこそとサポートしている。けれども、いくら三歩下がっていても「あなたの名刺もちょうだい!男の人の名刺だけもらうっておかしいでしょう!あなたは何をしているの?!」と、妻をサポート役だけに徹させないぞというニューヨーカーたちの気概に驚いている……という余談。)


そこで夫はもちろん、来場者それぞれに作品の説明をする。ある人にはコンセプトの話を、ある人には技術的な話を、ある人にはニューヨークで個展をするまでの道のりを、ある人にはアメリカと日本の文化の違いを、またある人には作品を作るきっかけになった原体験の話を……。そのすべてが、私にとっては何度も何度も繰り返し聞いた、もしくは共に体験した話ばかり。けれども、ある友人が来たときに、夫の口から私も聞いたこともないエピソードや思想が次から次へと出てくるので、驚いてしまった。


その友人は

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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。