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新しい『正しさ』の様式

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 TwitterのようなテキストベースのSNSにおいて、我々は整合性や一貫性といった論理に『正しさ』を求める傾向がある。

 これは古代から連綿と続いている一つの様式でもあり、過去の哲学者たちもその論理をぶつけ合うことで、それぞれの『正しさ』を主張した。

 インターネットにおいても黎明期から続いているもので、特にかつて隆盛を誇った匿名掲示板2ちゃんねるでは『レスバトル』と称された議論においては、
「質問にはきちんと話をそらさずに答える」
「ダブルスタンダードは良くない」
「相手の人格攻撃はしない」
などの議論のルールに沿った『誠実性』が重要視され、これに反したものは相手やギャラリーから敗北したと判定された。

 論理の整合性や一貫した姿勢、相手を尊重する態度など、フェアであることが『正しさ』を保証し、それが議論の決着に大きく作用していたと言える。

 しかしこれは実は既に古いものであり、インターネットの参加者が成人男性に偏っていた時代の残滓ともいえる感覚なのではないか?



ロジックはハラスメント!

 「ロジハラ」という言葉がある。

 『ロジハラ』とは、「正論をふりかざして相手を追い詰めるハラスメント」のことだ。

 確かにそういう正論の押し付けによって追い詰められて心身を病んでしまう人も多いだろう。

 しかしそもそも『正論』とは正しい論だから正論なのであって、これを悪とすることは道理が通らない、即ち「無理が通れば道理が引っ込む」といった状況を是とすることである。

せい‐ろん【正論】 の解説
道理にかなった正しい意見や議論。「正論を吐く」
(goo辞書 より)

 この道理つまりロジックが通ることが保証されることが『正しさ』だと考えていた者たちにとって、これは衝撃だった。

 実際、この言葉が出てきたときには「それが通るならもう何でもありだろう」といった反応がネットでは多く見られた。


 しかし一方で、「正論だからといってそれを快く受け入れられるか?」と言えばまた別の話である。人は感情の生き物であるし、また、それぞれの視点によって正しさもまた異なる。

 ロジックという『正しさ』には従うべきである、という正しさの保証がなされていたからこそ、正論は意味をなしており、それを言われたものは感情を抑えてしぶしぶ従っていたのだ。

 しかし現在、『ロジハラ』という言葉は特に女性を中心としてもはや常識のように使用されている。最近では、「車内で詰める夫とそれにキレる妻」という動画が特に話題になっていた。

 ロジックで詰められることは非常にストレスフルなのは事実であり、ヒステリーや暴力で阻止したくなる感情が芽生えてくるのは誰も否定できないだろう。

 正論で相手をやり込められたのはその『正しさ』が『不快』よりも優先すべきだという規範があったからこそ相手やギャラリーがそれで納得せざるを得なかったことで成り立っていたのであって、そういった『正しさ』の共有ができていなければ、詰められる側からすればただの不快でしかなく、まさに「ロジックはハラスメント」なのだ。



正論だが正解じゃない

 重要なのは、その『正しさ』とは男性社会が有するものであり、女性にとっては男性ほど重視すべきものではないということだ。

 女性のコミュニケーションにおいては特に感情的な共感が必要だとされ、問題解決のための男性的なコミュニケーションをされると「冷たい」「責められている」と感じるとよく言われている。

 以下の「車のバッテリーと男女」の話はそれを示すものとして特に有名だ。

女「車のエンジンがかからないの…」
男「あらら?バッテリーかな?ライトは点く?」
女「昨日まではちゃんと動いてたのに。なんでいきなり動かなくなっちゃうんだろう」
男「トラブルって怖いよね。で、バッテリーかどうか知りたいんだけどライトは点く?」
女「今日は○○まで行かなきゃならないから車使えないと困るのに」
男「それは困ったね。どう?ライトは点く?」
女「前に乗ってた車はこんな事無かったのに。こんなのに買い替えなきゃよかった」
男「…ライトは点く?点かない?」
女「○時に約束だからまだ時間あるけどこのままじゃ困る」
男「そうだね。で、ライトはどうかな?点くかな?」
女「え?ごめんよく聞こえなかった」
男「あ、えーと、ライトは点くかな?」
女「何で?」
男「あ、えーと、エンジン掛からないんだよね?バッテリーがあがってるかもしれないから」
女「何の?」
男「え?」
女「ん?」
男「車のバッテリーがあがってるかどうか知りたいから、ライト点けてみてくれないかな?」
女「別にいいけど。でもバッテリーあがってたらライト点かないよね?」
男「いや、だから。それを知りたいからライト点けてみてほしいんだけど」
女「もしかしてちょっと怒ってる?」
男「いや別に怒ってはないけど?」
女「怒ってるじゃん。何で怒ってるの?」
男「だから怒ってないです」
女「何か悪いこと言いました?言ってくれれば謝りますけど?」
男「大丈夫だから。怒ってないから。大丈夫、大丈夫だから」
女「何が大丈夫なの?」
男「バッテリーの話だったよね?」
女「車でしょ?」
男「ああそう車の話だった」

 これは「問題解決の男」「共感の女」を示すものとしてよく出されたものだが、この問題解決とはロジックでありすなわち正論だろう。

 バッテリーが切れていたらエンジンはかからないから調べなければいけないというのは全く持って「正論」であり、エンジンがかからないという問題を解決するのであれば、たとえどんなに気分が乗らなくてもやらなければいけないことだ。

 しかしここでの女性はそれを無視する。彼女は話を聞いてもらいたいだけであり、解決など求めていない。つまり解決のために問い詰められたり必要なタスクを提示されるなんて不快なことはまっぴらなわけで、男の行動は『正解』とは言えないだろう。つまり間違っており正しくない。

 では何が『正解』なのか?

 一説では、男が気を利かせて車で送迎すべきだったと言われている。

そもそも女は「用事を済ませる」ために男に電話をかけているのです。車の修理をする気なんてありません。
たびたび「今日は○○まで行かなきゃならないから」「○時待ち合わせだから」と、目的を漏らしていますね。女は「気を利かせてあなたの車で送ってよ」と思っているのです。
しかし男はこのときいかに車を修理するかに夢中なので、女の本音なんて考えもしません。

 つまり、この場合に求められているのは『正論』ではなく『正解』であり、男性は女性の気持ちに寄り添い、女性に努力を要求することなく、男性が自発的に問題を解決することだったのだ。





正論じゃないけど正解

 先日、界隈においては以下の記事を発端として「ロブション」談義が巻き起こっていた。

 この記事において、文筆家の御田寺圭氏は
「20代の男女におけるロブションの知名度格差は、その性的価値の差による『良い思いをさせてもらえるチャンス』の差から生まれている」
と指摘している。

 これは概ね事実であり、特に都市に暮らす若い女性が年上の男性から高額なレストランにデートに誘われて自撮りや料理の写真などでその姿をアピールしているのは少し検索すれば見つけられる姿だが、若い男性が同じようなことをしているのはなかなか見つけられない。

 若い男女の性的価値に差があることは婚活や街コンといった出会いイベントにおける男女の金額設定や、マッチングアプリの料金やマッチング格差などからも証明されており、その性的価値の差が「奢られチャンス」の差として現れるのは十分あり得る話で、つまり道理であり正論である。

 しかしこれに対し、「ふつうの20代はロブションなんていかなくてもお互い楽しく飯食えるんですよ」といった異が唱えられていた。

 こちらのツイートにも「わかる」「感動」といった少なくない共感の声が寄せられたが、そもそもとして、「ロブションに行く機会があるか無いか」と「ロブションに行かないと幸せになれないのか」は全然別の話であり、何ら『正論』を覆すような反論にはなっていない。

 しかし一定の共感や賛同を得るという観点においてはこれは『正解』である。『正論』よりも『正解』が尊ばれる世界においては、こちらのほうがより『正しい』見解となっていくのだ。



インターネットは変わった、正しさも変わった

 近年、スマートフォン等の普及により、女性のインターネット使用率は過去と比べると格段に上がっており、かつてはPC所持率の高い男性が主体だったインターネットも、現代では女性をターゲットにしたコンテンツであふれ、その存在感は非常に大きくなっている。

 しぜん、何かしらの主張をするにしても「女性の意見」は無視できないものとなっているのは事実である。

 かつて、「インターネットには女叩きが溢れている」と言われていた。

 しかしそれは単に「インターネットにいたのが男性ばかりだった」からに過ぎず、その間もテレビや井戸端会議では常に女性による『男叩き』が行われていたのだろう。

 そして女性がインターネットに参画してきた結果、近年では『女叩き』とは比べ物にならないほどの『男叩き』がエンタメとして溢れるようになった。

 この現象についてはokoo氏の記事に良くまとめられているので参照していただきたい。

 現実でもネットでも男叩きというのは、今よりもっと前から女叩きなんてモノよりも多かったのではないだろうかすら思う。他者からはそう見えなかったのは、男性に責任があるはずだという意識や、男叩きであっても男叩きという意識すらなく、当然の如く「コンテンツ」として消費され、考えてこられなかったからではないだろうか。


 女性にとっては厳しいが道理には則っているはずの『正論』は通らず、ただひたすらに女性の気持ちに寄り添い、女性に努力を要求することなく問題を解決することが求められており、それに反する行動を取る男性を叩いて喜ぶ姿がそこにはある。

 また、テレビは仕込みを疑われるレベルでインターネットで話題となった男性のアウトな言動を大きく取り上げ、「女性への無理解は悪である」と促し、インターネットから有名になった某料理人アカウントは一部で『男芸者』と言われる程、女性(特に主婦層)に媚びた言動を繰り返しており、多数の女性からの共感(とごく少数からの男性からの嫌悪)を得ている。

 こういった事例は、先のバッテリーやロブション談義の例に沿うのであれば、まさしく『正論』よりも『正解』の行動を意図的に取っているのではないだろうか?

 この『正解』を貴ぶ風潮は特に女性が多い場所で顕著だったが、最近では「生きづらさ」を抱えた人々を中心としてそういった風潮が社会全体に広がっており、耳に痛かったり厳然たる事実を突きつけるような『正論』よりも、自分にとって優しく心地よい『正解』を誰もが求める流れができてきている。

 社会における『正しさ』の基準はもはや、男性的な『正論』ではなく、女性的な『正解』に寄ってきているのだ。

 そして、これこそが「女性の感性を活かせる社会」という、巷では昔から叫ばれていた言葉は綺麗だが具体的なイメージはしづらかったスローガンが実現された結果なのかもしれない。



政治的に正しい正しさ

 昨今の表現規制等でよく議論される「ポリティカル・コレクトネス」は日本語では『政治的な正しさ』と訳されることが多い。

 この『政治的な正しさ』が、誰にとっても厳しい『正論』か、特定の者にとって心地の良い『正解』かで言えば、これも求められているのは『正解』だろう。

 当記事を読んでいるような方なら、ある表現が特定の者にとって心地よくないことで『正しくない』とされ、適切でない表現だと弾劾されている光景は何度も見ているはずだ。

 これからのインターネットでは『正論』を振りかざすだけでは『正しさ』は保証されない。むしろ数や政治的な正しさと言った力を有するユーザー達の『正解』を提示できなかったとして排除され、逆にその意向に完璧に沿った者は論理の整合性や一貫性に欠けていたとしても、心地よい『正解』を導き出した『正しい者』として評価されていく。

 そしてその『正しさ』の基準として君臨するのは、自らを「世界最大のマイノリティ」と呼称するほどの連帯力を持つ女性達となるのだろう。

 


 さて、あなたは新しい『正しさ』にアップデートする準備はできてますか?



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