見出し画像

25年前に言えなかったこと

前原先生へ

お久しぶりです。岩崎中学校でお世話になった堀 潤です。卒業してから何度か年賀状ではやりとりさせていただきましたが、その後、連絡を差し上げることなくすっかり時間が過ぎてしまいました。申し訳ありませんでした。

最近、前原先生のことをよく思い出します。

中学2年の秋、大阪から横浜に引っ越してきました。大阪といっても、猿と滝がウリの箕面という場所です。僕が住んでいたマンションも田んぼに囲まれた新興団地。詰襟(つめえり)の学生服に肩掛けカバン、ヘルメットをかぶって自転車で通学するという素朴な環境でした。

ところが、横浜ではブレザーの制服をラフに着こなし、茶髪やピアスも珍しくありません。そんな雰囲気に戸惑うばかりでした。校庭の裏門にはタバコの吸い殻が沢山落ちていたし、壁の落書きも何だか怖かったのをよく覚えています。学校帰りに田んぼでオタマジャクシやカブトエビをすくって遊んでいた大阪時代とは全く違いましたから。

急な転校で新しい制服が間に合わず、僕だけしばらく詰襟の学生服で登校していました。「学ランじゃん。学ランくん。ちょっと俺にも貸してよ学ランくん。ほら、貸せよ」と、通学路でヤンキーの同級生や先輩に絡まれるのが嫌で、途中からは毎朝6時半ごろに家を出て、人目を避けて学校に通う日々でした。途中で何度も何度も自宅の方を振り返って「帰りたいな」と思っていました。

早朝、静かでまだ薄暗い教室に一人座って外を眺める自分の姿は、振り返ると胸が締め付けられるような気持ちになりますが、当時は、とにかくホッとしていたのを記憶しています。

そんな僕を迎え入れてくれたのが担任の前原先生でした。

前原先生は、たしか当時はまだ新人の先生でしたよね。美術大学を卒業して教師になってまだ数年と仰っていたように思います。髪型は当時流行っていたサラサラヘアの真ん中分け。いや、ほんの少し天然パーマでふんわりしていたでしょうか。長身でおしゃれなセーター姿。ファイルを片手に廊下を歩く姿が今でも鮮明に思い出されます。

身勝手な生徒たちを前にしても、偉そうではなく、笑っているか、困っているか。たまにやんちゃな奴らが騒いで収拾がつかなくなって「こらっ」と叱ると、それをネタにまた笑われたり。先生も大変だったかと思います。女子は女子で、叱られると「キモい」とかいってキツイ視線で返して突っぱねてみたり。先生はイケメンだったし、優しかったから、そんな女子たちにとって本当は気になる存在だったのだろうなと想像します。

転校初日、校長室で初めて前原先生とお会いしました。当時の僕は人と話すのが苦手で、声も小さく、慣れない都会での暮らしで萎縮していました。先生は優しく話しかけてくれましたね。大阪ではどんな毎日を過ごしていたのか、部活には入っていたのか、将来の夢はあるのか、色々聞いてくれましたが、どんな風に答えたのかは全然覚えていません。

たった一人、学ランだったし、関西弁だったし、内気だったし、案の定絡まれるし、先生が何かにつけて気にかけてくれているのはわかりました。

前原先生に感謝をしていることがあります。

僕は転校してすぐにテニス部に入りました。大阪の学校で所属していたからです。ところが入部してすぐに顧問の先生が辞めてしまい、部の継続が危ぶまれる事態に発展してしまいました。転入して間もない僕にとって部活は友達をつくるためにも大切な場所だったのですが、無くなってしまうかもしれないと聞いてとても不安な気持ちに駆られました。

そんな状況を見守っていてくれたのか「僕が顧問をやりましょう」と手を上げてくれたのが前原先生でした。

テニスは未経験。スポーツというイメージから程遠いほど文化系の香りのする先生でした。案の定、ラケットの握り方もちぐはぐだし、走ってもぎこちないし、ボールを打てばホームランだし、どうみても先輩たちの方が上手で、指導者として顧問がつとまるようには全く思えませんでした。

部員から「前原(笑)」と呼び捨てにされていじられることも沢山ありましたが、その1年後、先生は僕らテニス部に奇跡を起こしてくれましたね。

先生はみんなの前で「俺も一緒に上手になるから練習しよう」と宣言し、教科書のような練習本を片手に基礎練からメニューを考えてくれました。

一緒にネットを張って、一緒に素振りをして、一緒にランニングしたのを覚えています。ボレーを外すと悔しがり、サーブに追いつけずに転ぶと痛がったり。その度に「前原(笑)」と部員たちが声をあげていました。

それでも先生は笑い、困り、「おい、みんなもちゃんとやれ」と叱り、誰よりも練習していたのをいつも眺めていました。

秋の大会が終わり3年生が引退。僕らが上級生になる頃、先生はすっかり上手にボールを打ち返せるようになっていましたよね。

当時、僕ら岩中テニス部は区大会の初戦か2回戦で敗退するようなチームでした。隣の橘中や宮田中には同じ中学生とは思えないほど強力なサーブやスマッシュを打ち込んでくるペアがいました。はなから「かないっこないや」と思って、練習試合も遠足気分で出かけるような牧歌的なチームでした。試合よりもどのお菓子を持っていくかで盛り上がるチームです。だって、相手は丸いボールが円盤のようになって突き刺さってくるほど早いサーブだったんですから。

ところが、先生は僕らに言いました。

「優勝を目標にしよう」

「おー!そうですね!!!」

「・・・って、いやいやいやいやいやいやいや!!!!」

「そんな夢みなたいなことって起こるはずないじゃん!だって相手は宮中や橘中だよ!」と、チームメイトも僕も笑ってしまいましたが、前原先生の目は真剣でした。優勝したら何かくれるなど条件があったかなかったかはよく覚えていません。しかし、いつの間にかその気になって練習が始まりました。

大会前の夏、先生が知り合いを通じて練習試合をとってきてくれました。横浜市の強豪校「関東学院六浦」です。初めての遠征。相手は私立中学。結果は散々でただただコテンパにやられて帰ってきたのを覚えています。

その時に感じました。悔しかったのを。

同じ中学生なのに、それなりに練習してきたつもりなのに。全く歯が立たなくて。自分らってこんなものなのかって。

その試合の後に、前原先生が何と言ったのかはうろ覚えです。ただ、これだけは覚えています。その頃、僕らはもう「前原(笑)」と言わなくなっていました。

夏休みには合宿がありました。中学校の校舎に2日くらい寝泊まりして朝晩みっちり練習しました。楽しかった。みんなでカレーを作って食べたようにも思います。

最初は転校生の僕でしたが、その頃はすっかり「横浜っ子(はまっこ)」になっていました。テニスでも自分ならではの回転をかけられるようにもなっていたし、流行っていたナイキのシューズも手に入れたし、打ち方も自分の中ではアガシでしたし、内気だった少年が少し自意識過剰な自信を身につけた中3男子に成長していたように思います。ブレザーを手に入れ、友達に悪口を言われても、言い返せるようにもなっていました。

そして、区大会。

奇跡は起きました。

早すぎて見えなかった相手のボールがちゃんと見えるようになっていました。平らに変形して突き刺さってくるサーブも変化をつけて打ち返せるようになっていました。ボレーで前に出る勇気も、知らない間に沸き起こってくるようになっていました。

相手選手は焦っていました。そう見えました。肩で息をしていたから。

先生!

勝てるかも!

団体戦最後の1セット。レシーブが決まりました。相手は空振り。周りの声は聞こえません。僕自身の叫び声も聞こえません。覚えているのは、ただただ、チームのみんなが飛び上がって喜んでいたこと。飛び上がって抱き合ったこと。空が高かったこと。

そして、先生が泣いていたこと。

僕らは区内の強豪校を撃破。区大会3位で入賞。夢にも思わなかった市大会に駒を進めたのです。

先生は、こうしてあの劇的な勝利から25年がたった今も、僕に勇気を与え続けてくれています。心の中に、その勇気の種があるのがわかります。

前原先生、ありがとうございます。

無限の未来を僕らに見せてくれました。

25年前にはまだわからなかった、この温かな気持ちを直接伝えに、今度は、会いに行きます。

堀  潤

撮影:Orangeparfaitさん




頂いたお金は取材費として使わせていただきます!